【武田信玄の諏訪盆地侵攻】信濃国攻略戦の初戦

 

戦国最強と謳われた武田信玄。

その領国は、武田信玄の死亡時には甲斐国・信濃国から、西上野・駿河・遠江・奥三河・飛騨・東美濃の一部にまで及びました。

そんな広大な領土を有するに至った武田信玄も、スタートは甲斐国一国から始まっています。

本稿では、武田信玄のサクセスストーリーのうちの最初の獲得地である信濃国・諏訪郡侵攻戦について見ていきます。

なお、武田信玄の領土拡大の全貌については、別稿【武田信玄の領土拡大の軌跡】をご参照ください。

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【石山合戦】織田信長の10年に亘る石山本願寺争奪戦

足利義昭を奉じて上洛した後そのまま畿内を制圧した織田信長は、その後の勢力拡大を見据えて次の本拠地候補として石山本願寺がある大坂の地に目をつけます。

そして、織田信長は、石山本願寺の代表である本願寺顕如に対して、石山本願寺明け渡しを要求します。

もっとも、織田信長の要求は、本願寺顕如にとっては信仰の本拠地の引渡しですので、これに応じられるはずもありません。

怒った織田信長が、武力により目的達成を図ったため、ここから10年もの長きに亘る戦国時代最大の宗教的武装勢力である本願寺勢力と、天下布武を目指す織田信長との決戦が始まります。

石山合戦です(当時の資料には石山という言葉は出てきませんので、正確に書くなら大坂本願寺というべきなのでしょうが、本稿ではわかりやすく石山と表記します。)。 “【石山合戦】織田信長の10年に亘る石山本願寺争奪戦” の続きを読む

【長篠・設楽原の戦い】なぜ武田勝頼は織田信長の鉄砲隊に挑んだのか

武田信玄の後を継いだ武田勝頼が織田信長の鉄砲隊に敗れたことで有名な「長篠の戦い」ですが、本当の決戦は設楽原で行われています。そのため、この決戦は一般には「長篠・設楽原の戦い」(読み方は,「ながしのしたらがはらのたたかい」)です。

戦力・装備に大きく劣るにもかかわらず無謀な突撃を繰り返した武田騎馬隊が,馬防柵の後ろから繰り返し撃ってくる鉄砲に一方的にやられまくった合戦というイメージを持っている人も多いのではないでしょうか。

実際には、そういう戦いではありません。

以下,長篠設楽原の戦いについて、そこに至る経緯から、合戦の結果まで順を追って説明します。 “【長篠・設楽原の戦い】なぜ武田勝頼は織田信長の鉄砲隊に挑んだのか” の続きを読む

【賤ヶ岳七本槍】賤ヶ岳の戦いで活躍して出世した7人というのは本当か?

「賤ヶ岳七本槍」を知っていいますか。

織田信長が死亡した後、その実質上の後継者の座を巡って、豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉と名乗っていましたが、本稿では豊臣秀吉で統一します。)と柴田勝家が争った賤ヶ岳の戦いにおいて、比類なき戦功を挙げたとされる豊臣秀吉子飼いの武将7人のことです。

この賤ヶ岳七本槍は名前こそ有名なのですが、なぜこんなに有名となったのかについては、はっきりしていないことも多くあります。

本稿では、賤ヶ岳の戦いの概略と賤ヶ岳七本槍の活躍(?)について解説していきます。 “【賤ヶ岳七本槍】賤ヶ岳の戦いで活躍して出世した7人というのは本当か?” の続きを読む

【織田信長による美濃国平定戦】7年に亘る斎藤家討伐戦

織田信長は、尾張国を統一後、永禄3年(1560年)から美濃侵攻を開始しますが、美濃国を平定するのに足掛け7年間も費やしています。

織田信長のその後の快進撃と比べると、美濃平定には相当手こずったことが見てとれます。

以下、織田信長が苦労した美濃平定戦について、時間の経過を追いながら見ていきましょう。 “【織田信長による美濃国平定戦】7年に亘る斎藤家討伐戦” の続きを読む