【源義経の奥州逃避行】平家討伐の英雄が謀反人とされて奥州に落ちていくまで

壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼす大金星を挙げた源義経でしたが、その後すぐに鎌倉の源頼朝と対立し、その命を狙われ続けます。

戦果を報告するために鎌倉に向かっても鎌倉入りを許されず、京に戻ると源頼朝からの刺客に襲われます。

やむなく源頼朝討伐の挙兵をしても兵が集まらず、勢力を整えるために九州に向かおうとしても船が難破して押し戻されるなど、平家討伐後の源義経の人生は悲惨です。

その後、京にいられなくなった源義経は、かつての育ての親ともいえる藤原秀衡を頼って奥州に落ち延びていくこととなるのですが、本稿ではこの平家討伐後から奥州落ちに至る経緯を簡単に説明していきたいと思います。 “【源義経の奥州逃避行】平家討伐の英雄が謀反人とされて奥州に落ちていくまで” の続きを読む

【芹沢鴨暗殺】近藤勇が新撰組の長となった壬生・八木邸での粛清劇

新撰組局長として誰もが思い描く名は近藤勇だと思います。

2004年の第43作NHKの大河ドラマ「新選組」の主人公ともなった余りにも有名な人物であるため、新撰組は近藤勇が1人で作った組織であるかのように思われがちですが、実は違います。

初代新撰組(壬生浪士組)の初代筆頭局長は、芹沢鴨(せりざわかも)という人物であり、近藤勇はこの芹沢鴨を粛清して新撰組のトップになっています。

本稿では、近藤勇が新撰組のトップのなるに至ったこの芹沢鴨の粛清劇について、その発生に至る経緯から説明したいと思います。 “【芹沢鴨暗殺】近藤勇が新撰組の長となった壬生・八木邸での粛清劇” の続きを読む

【豊前国人一揆】黒田官兵衛に対する豊前国衆の反乱

豊前国人一揆は、豊前国6郡を得て入封した黒田官兵衛に対し、不満を持った豊前国人衆が蜂起して起こした内乱です。

その発生原因は、豊前国人衆を黒田家の配下に組み込んだこと、黒田官兵衛が早急な検地を進めたことにあったのですが、同じタイミング・同じ態様で一揆が起こった肥後国では、一揆を鎮めることが出来なかったとして佐々成政が切腹処分とされていますので、黒田官兵衛にとってもかなり危ない事件となっています。

本稿では、黒田官兵衛に危機をもたらした豊前国人一揆について、その発生に至る経緯から説明していきたいと思います。 “【豊前国人一揆】黒田官兵衛に対する豊前国衆の反乱” の続きを読む

【東大寺大仏殿焼失】戦火で2度焼失した東大寺金堂の歴史

修学旅行の定番となっている奈良・東大寺の大仏と大仏殿ですが、天平期に創建・造立された後,2度も戦火で焼かれていることはご存じですか。

現在ある大仏殿は、実は江戸期に再建された三代目を改修したものであり、天平期(初代)のものはもちろん,鎌倉期(2代目)のものとも全く違う様式で建てられています。

大仏様や大仏殿を焼くなんてとんでもないと思われるかもしれませんが、戦争が起こるとそんなことも言ってられないのかもしれません。

本稿では、奈良観光に行く前に基礎知識を得て、より東大寺大仏殿観光を楽しんでいただけるよう、東大寺大仏殿の歴史について簡単に説明したいと思います。 “【東大寺大仏殿焼失】戦火で2度焼失した東大寺金堂の歴史” の続きを読む

【平家滅亡】栄華を極めた平家が壇ノ浦の戦いに敗れて滅亡するまで

平安時代の末期に伊勢平氏の棟梁となった平清盛が、平安時代の末期に多くの知行国・荘園を獲得するとともに日宋貿易の利益を独占して莫大な経済的利益を手にした上、保元・平治の乱の後に後白河上皇(のち法皇)と協力して政敵を駆逐し、また姻戚関係をも利用するなどして異例の出世をしていきます。

平清盛は、永暦元年(1160年)に武士初の公卿となる参議就任を経て、仁安2年(1167年)には律令官制最高官である太政大臣にまで上り詰めた上(なお、太政大臣は名誉職であるため、慣例に従って約3カ月で辞職しています。)、ついには治承4年(1180年)2月、ときの天皇であった高倉天皇に対して圧力をかけてその皇子である言仁親王を安徳天皇として即位させ、その外戚として権力の頂点に達します。

この結果、一族からも増長する者が続出し、全国各地で反平家の動きが高まっていきました。

本稿では、この反平家の動きの高まりから平家滅亡までの流れを、一気に説明していきたいと思います。 “【平家滅亡】栄華を極めた平家が壇ノ浦の戦いに敗れて滅亡するまで” の続きを読む

【南都焼討】以仁王加担の報復として行われた平家による南都寺院への武力行使

南都焼討(なんとやきうち)は、以仁王に加担して平家に敵対した興福寺等の自社勢力に対する報復と、反抗的な態度を取り続けるこれらの寺社勢力に属する大衆(だいしゅ)の討伐を目的として、治承4年12月28日(1181年1月15日)に平清盛の命を受けた平重衡らが、南都寺院(東大寺・興福寺など)を焼き尽くした事件です。

現在まで語り継がれる平家の悪行として有名な南都焼討について、その発生に至る経緯から見ていきたいと思います。 “【南都焼討】以仁王加担の報復として行われた平家による南都寺院への武力行使” の続きを読む

【源頼朝の源氏一門粛清】猜疑心の塊による凄惨な殺戮劇

平家を滅ぼして鎌倉幕府を樹立した源頼朝は、その成立過程において、敵となった者(木曾義仲にどの源氏一門を含む)を滅ぼしていきます。

ところが、猜疑心の強い源頼朝は、自らとその嫡流に権力を集中させるために、敵対者だけではなく、自らの協力者や従っている弟たちまで、次々と粛清していきます。

この粛清の経緯を見ると、対抗勢力となりうる源氏一門を根絶やしにしようとする源頼朝のサイコパスぷりが際立ちます。

本稿では、そんな源頼朝による源氏一門衆の粛清劇のうち主要なものをピックアップして紹介したいと思います。 “【源頼朝の源氏一門粛清】猜疑心の塊による凄惨な殺戮劇” の続きを読む

【伊賀氏の変】北条義時死後に起こったクーデター計画

伊賀氏の変(いがしのへん)は、形式的には、北条義時の死により空席となった鎌倉幕府最高権力者の座を、長男の北条泰時と四男の北条政村とで争った政変です。

もっとも、実質的には、北条政村の母(北条義時の後妻)であった伊賀の方が、その兄である伊賀光宗と共に、娘婿の一条実雅(藤原実雅)を鎌倉殿に据えて、伊賀一族で鎌倉幕府の権力を握ろうとしたクーデターでした。

伊賀の方と伊賀光宗のクーデターであったために、北条政村の関与は不明である上、北条政子の手腕によってすぐに鎮圧されていますので、その事実関係は必ずしも明らかではありません。 “【伊賀氏の変】北条義時死後に起こったクーデター計画” の続きを読む

【福原京遷都】遷都か?離宮か?未完に終わった平清盛の野望

福原京(ふくはらきょう)は、平清盛の主導によって神戸市兵庫区平野近辺に造営された未完の都の通称です。

巨大寺社勢力である園城寺・延暦寺が反平家の動きが見えたため、これらの巨大寺社に囲まれた京の地理的不利を払拭するために京を放棄する決断を下した平清盛が、自らの本拠地に天皇を迎えることにより勢力を維持しようとした苦肉の策での遷都計画でした。

遷都自体は、治承4年(1180年)6月に同地に天皇・上皇などが移されることにより始まったのですが、元々反対論が根強かった上に、造営中に反平家勢力の挙兵が始まったため、同年11月には完成を諦めて京に還幸するという結果に終わっています。

そのため、福原京遷都は僅か170日という短期間のものに過ぎず、そもそも遷都だったのか離宮に過ぎなかったのかすら定まっていません。 “【福原京遷都】遷都か?離宮か?未完に終わった平清盛の野望” の続きを読む

【鎌倉幕府は3つある】大倉幕府・宇津宮辻子幕府・若宮大路幕府について

鎌倉幕府というと何を思い浮かべますか。

源頼朝が開いた武家政権としての国家機関を思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。

幕府というのが武家政権であると考えられるのは、後世の室町幕府・江戸幕府のことであり、鎌倉幕府とは単に鎌倉殿(鎌倉幕府将軍)本陣、そしてそこから派生して邸宅・政庁というを意味するにすぎません。

すなわち、鎌倉幕府とは、「鎌倉殿が生活する建物」を意味しているにすぎないのです。

そして、この鎌倉幕府(鎌倉殿の政庁)は、時代により3か所存在しています(仮御所を含めると4か所)。

そこで、本稿では、この鎌倉幕府の変遷について簡単に説明したいと思います。 “【鎌倉幕府は3つある】大倉幕府・宇津宮辻子幕府・若宮大路幕府について” の続きを読む