【黄瀬川の対面】政治の天才源頼朝と戦の天才源義経との出会い

黄瀬川の対面は、伊豆国に流されて長い雌伏の時を経て立ち上がった源頼朝の下に、弟・源義経が駆けつけて両者が感動の対面をしたという出来事です。

政治の天才・源頼朝と戦の天才・源義経との結びつきとして美談に描かれがちですが、実際は、全くかみ合わない2人の天才の悲劇的物語の序曲でした。

本稿では、そんな黄瀬川の対面について、そこに至る経緯から順に説明したいと思います。 “【黄瀬川の対面】政治の天才源頼朝と戦の天才源義経との出会い” の続きを読む

【源頼朝と北条政子の結婚】鎌倉幕府設立の契機となったカリスマの結婚

源氏のプリンス源頼朝は、平治の乱に敗れて伊豆国に流されたのですが、そこで北条政子と出会い、その力を借りて武家政権を樹立させていきます。

一見すると、伊豆国の土豪の娘が源氏の頭領に嫁ぐというシンデレラストーリーのように見えますが、実際には賢く嫉妬心の強い北条政子が、源頼朝の手綱を握りながら一緒に力をつけていくという成長物語です。

本稿では、そんな源頼朝と北条政子との結婚について、そこに至る経緯から順に説明していきたいと思います。 “【源頼朝と北条政子の結婚】鎌倉幕府設立の契機となったカリスマの結婚” の続きを読む

【牧氏の変・牧氏事件】北条時政が失脚し北条義時台頭の契機となった内紛

牧氏の変(まきしのへん)・牧氏事件(まきしじけん)は、元久2年(1205年)閏7月に起こった、北条氏内の内紛です。

北条時政とその継室である牧の方が、第3代鎌倉殿・源実朝を暗殺して平賀朝雅を第4代鎌倉殿に就任させるクーデターを画策したものの、北条時政の先妻の子である北条義時・北条政子らに阻止されて失脚するに至った一大事件です。

本稿では、将軍暗殺に失敗した北条時政が失脚し、北条義時が執権となって鎌倉幕府を事実上乗っとるきっかけとなった歴史の転換点でもある牧氏の変について、発生の要因から順に見ていきたいと思います。 “【牧氏の変・牧氏事件】北条時政が失脚し北条義時台頭の契機となった内紛” の続きを読む

【源頼朝の寝所祗候衆 】北条義時が鎌倉幕府第二世代の筆頭となった人事

武家政権を樹立した源氏棟梁といえば、源頼朝です。

あまりにも有名な人物であり、御恩と奉公というシステムにより御家人を強く統制していたかのようなイメージを持ちがちですが、実は御家人の統制に相当苦労しています。

特に、旗揚げ直後の時期は、有力豪族たちの意見に右往左往させられていました。

源頼朝は、そんな苦しい時期を打破するため、あれこれ手を打ちますが、そのうちの1つとして、二世御家人を育てて権限委譲を進め、そのために採用したのが本稿で紹介する11人の寝所祗候衆(しんじょしこうしゅう、いわゆる寝所警固人)選任です。 “【源頼朝の寝所祗候衆 】北条義時が鎌倉幕府第二世代の筆頭となった人事” の続きを読む

【清洲会議】山崎の戦い後の織田家四宿老の話合い

清洲会議・清須会議(きよすかいぎ)は、天正10年(1582年)6月27日、織田家の宿老であった柴田勝家・丹羽長秀・羽柴秀吉・池田恒興によって開かれた織田家の継嗣問題及び領地再分配を決めるための会議です。

清洲会議により、織田家新当主となった三法師を、前記4宿老と、織田信雄・織田信孝・徳川家康の合計7名で支えるという枠組みを作ったのですが、羽柴秀吉によるクーデターによって半年足らずで清洲会議体制が瓦解しています。 “【清洲会議】山崎の戦い後の織田家四宿老の話合い” の続きを読む

【乙巳の変】中大兄皇子・中臣鎌足による蘇我入鹿を暗殺したクーデター

乙巳の変(いっしのへん)は、皇極天皇4年(645年)に大極殿の中かつ天皇の面前で起こった暗殺劇です。

中大兄皇子・中臣鎌足らが蘇我入鹿を暗殺して蘇我宗家を滅ぼした政変として余りにも有名ですが、起きた理由や首謀者については諸説あり、古代ロマンを掻き立てるクーデター劇です。

乙巳の変の後に、中大兄皇子が体制を刷新して大化の改新と呼ばれる改革を断行していますので、大化の改新の第一段階とも言えるかもしれません。 “【乙巳の変】中大兄皇子・中臣鎌足による蘇我入鹿を暗殺したクーデター” の続きを読む

【堀川夜討ち】失敗に終わった源義経暗殺未遂事件

堀川夜討ちは、文治元年(1185年)10月17日、源頼朝が、刺客を放って源義経の暗殺を試みたが失敗し、対する源義経が源頼朝に敵対することを決めるに至った暗殺未遂事件です。

政治の天才・源頼朝が、源平合戦の英雄である源義経を粛清するという名目で守護・地頭を設置するきっかけとなり、関東を治める地方武士から全国を治める武家の棟梁に駆け上がる最初のステップとなった歴史の転換期の事件でもあります。

本稿では、そんな大事件である堀川夜討ちについて、その発生経緯から見ていきたいと思います。 “【堀川夜討ち】失敗に終わった源義経暗殺未遂事件” の続きを読む

【豊臣秀吉の居城遍歴】秀吉が大坂城にいたのは僅か3~4年

低い身分に生まれながら天下人にまで上り詰めた豊臣秀吉。

織田信長に仕えて初めて城を得てから亡くなるまでの間、その時々の必要性に応じて何度もその居城を移しています。

豊臣秀吉の居城として大坂城が突出して有名ですが、実は豊臣秀吉が初めて城を得てから死ぬまでの約25年の間で主として大坂城に在城していたのはほんの僅かです。3~4年に過ぎません。

羽柴秀吉は、人生のほとんどを別の城で過ごしています。

本稿では、そんな豊臣秀吉の居城遍歴を追っていきたいと思います。 “【豊臣秀吉の居城遍歴】秀吉が大坂城にいたのは僅か3~4年” の続きを読む

【徳川家康の改名・名字変更の歴史】

戦国武将の中で最も成功した人物と言えば徳川家康。

余りにも有名な武将・徳川家康ですが、その生涯において何度も名を変えていることをご存知ですか。

「徳川家康」というのは、元服後4つ目の名です。

以下、徳川家康の改名・改姓の歴史を見ていきましょう。なお、徳川家康とは短縮名であって最終的な正式名は「徳川次郎三郎源朝臣家康」といい、「徳川」は名字、「次郎三郎」は通称、「源」は姓(かばね)、「朝臣」は家格を表す姓、「家康」は名前です。 “【徳川家康の改名・名字変更の歴史】” の続きを読む

【甲相駿三国同盟】今川義元・武田信玄・北条氏康の巨大軍事同盟

甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい)をご存知ですか。

戦国期の巨大3勢力である、今川義元・武田信玄・北条氏康において結ばれ、三者三様のそれぞれの思惑を吸い上げて天文23年(1554年)に完成し、多大な成果を上げたものの、新勢力の台頭に翻弄され永禄10年(1567年)の今川家による塩止めにて破綻した同盟です。

本稿では、そんな戦国の巨大軍事について、その成立に至る経緯からみていきたいと思います。

なお、本稿がどの段階の話であるかよくわからない場合には、別稿【武田信玄の領土拡大の軌跡】をご参照ください。

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