【膳所城】江戸時代に琵琶湖南側を守った水城

膳所城(ぜぜじょう)は、大津市街の東部に位置する相模川河口付近にあった膳所崎に築かれた湖城です。

元々、この付近を治めるための城として大津城があったのですが、関ヶ原合戦の前哨戦において大津城の防御力の脆弱性が露見したため、徳川家康による豊臣家対策として大津城に代わって築かれました。

東海道陸運と琵琶湖水運を牛耳る位置にあり、往時には、水面に映えるその姿は「瀬田の唐橋、唐金擬宝珠、水に浮かぶは膳所の城」と謡われるほどの美しさであったと言われています。

膳所城築城の経緯

膳所城の立地

膳所城は、大津市街の東部に位置する相模川河口付近にあった膳所崎と呼ばれる琵琶湖に突き出た土地にあります。真偽は不明ですが、平安時代にこの地で水揚げされた琵琶湖産魚介類を朝廷の食「膳」に治めた場「所」であったために膳所と呼ばれるようになったそうです。

東海道という江戸と京・大坂を結ぶ陸運の大動脈のみならず、琵琶湖水運の要衝地に位置し、古くから「瀬田の唐橋を征するものは天下を征する」と言われ、何度も大戦の舞台となった瀬田の唐橋の北西部に位置します。

膳所城築城に至る経緯

もっとも、この東海道陸運と琵琶湖水運とを牛耳るため、織田期には琵琶湖西岸に坂本城・豊臣期には琵琶湖南西部に大津城が築かれていました。

もっとも、慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いの前哨戦として西軍の攻撃を受けた大津城は、その西側にある長柄山中腹にある三井寺(園城寺)に陣を敷いた西軍から監視され、また砲撃を受けて大混乱に陥り落城します(大津城の戦い)。

その後の関ヶ原の戦いの本戦では東軍(徳川家康軍)の勝利に終わったために問題が顕在化することはなかったのですが、この大津城の地形的脆弱性は改善される見込みがありませんでした。

そのため、徳川家康は、大津城では来るべき豊臣家との戦いに対応できないと考えます。

そこで、徳川家康は、大津城主であった京極高次を若狭へ転封させた上で大津城を廃し、膳所崎の地に新城を築城し、豊臣家に対する備えとすることとしたのです。

膳所城築城(1601年)

徳川家康は、諸大名に号令して行われる天下普請の第一号として膳所城の築城を開始し、藤堂高虎の縄張りによって慶長6年(1601年)に完成します。

その上で、徳川家康は、同年、廃城される大津城に入れていた戸田一西に3万石を与えて膳所城に移らせ、膳所藩を立藩させます。

その後、元和3年(1617年)に戸田一西の子である戸田氏鉄が摂津国尼崎藩に転封となって尼崎城に移ったため、代わって本多康俊が三河国西尾藩より移封して膳所城に入ります。

もっとも、本多俊次は元和7年(1621年)に再び西尾へ移封となったため、代わって伊勢国長島藩より菅沼定芳が膳所城に入ったのですが寛永11年(1634年)に丹波国亀山藩に転出します。

その後、下総国佐倉藩より石川忠総が入城したのですが、その子である石川憲之が慶安4年(1651年)に伊勢国亀山藩に転封となります。

その後、再び本多俊次が西尾藩から膳所城7万石に移封となり、以降、膳所城は明治維新に至るまでの13代220年の間、本多家の居城となります。

縄張り変更(1662年)

当初は豊臣家に対する備え、その後は膳所藩の藩庁として使用されていた膳所城ですが、寛文2年(1662年)5月1日に発生したマグニチュード7.6の大地震により城域の相当範囲が倒壊します。

その後、膳所城再建工事が行われたのですが、再建に際して縄張りも大きく変えられました(主要な縄張変更としては、旧二の丸が本丸と一体化したことなどが挙げられます。)。

膳所城の縄張り

膳所城は、陸地である西側陸続き部分に外曲輪を配し、内曲輪となる本丸・二の丸・三の丸・北の丸を琵琶湖に突出させる形の梯郭式平城です。

本丸の北側に北の丸、南側に三の丸・二の丸を配置し、これらが琵琶湖に突き出て浮かんでいるように見えたため、日本三大湖城の一つに数えられ、また大津城・坂本城・瀬田城と並ぶ「琵琶湖の浮城」の1つと言われました。

また、水面に映える膳所城の姿は、里謡に「瀬田の唐橋、唐金擬宝珠(からかねぎぼし)、水に浮かぶは膳所の城」と謡われるほどの美しさでした。

もっとも、膳所城は、廃城後の取り壊しや付近の埋め立てによって城郭の大部分が失われていますので、その全容についてはかつての絵図などで推定するほかなく、城郭建築物の正確な位置や内容についてはよくわかっていないのが実情です。

外曲輪

膳所城外曲輪は、内曲輪(本丸・二の丸・三の丸・北の丸)の西側(陸側)を守るために設けられた、南北に亘る細長い曲輪です。

外曲輪の西側に設けられた城下町とは、外堀で隔てられ、北大手門・中大手門・南大手門という3つの門により出入りする構造となっていました。

外曲輪には、侍屋敷などが配置され、膳所藩士達の居住地となっていました。また、作事所・山方役所・勘定所・評定所・郡役所などの膳所藩の役所や、馬屋・武器庫などの戦いに要する道具の保管庫なども設けられていました。

① 北大手門(篠津神社)

北大手門は、城下町と外曲輪との出入りのために外曲輪北側に設けられた門です。

膳所城廃城後に篠津神社(現在の滋賀県大津市中庄1丁目)に移築されて現存し国の重要文化財に指定されています。

② 中大手門

中大手門は、城下町と外曲輪との出入りのために外曲輪西側に設けられた門です。

中大手門自体は失われており、現在は跡地に石碑が残されているのみです。

③ 南大手門(鞭崎八幡宮)

南大手門は、城下町と外曲輪との出入りのために外曲輪南側に設けられた門です。

膳所城廃城後に鞭崎八幡宮(現在の滋賀県草津市矢橋)移築されて現存し国の重要文化財に指定されています。

④ 家老屋敷長屋門(響忍寺)

⑤ 家老屋敷長屋門(大養寺)

⑥ 侍屋敷

⑦ 馬出

北の丸

膳所城・北の丸は、琵琶湖に突き出す形で造られた、本丸北西部に位置する曲輪です。

本丸の北側を守ると共に、舟入に入ってくる船を監視する役割を担いました。

膳所城廃城後の道路建設などによる造成・周辺が埋め立てられてしまったため、その正確な位置・規模等がわからなくなっていたのですが、後の発掘調査によって北の丸の南北端が検出されたことから、現在ではおおよその位置と規模が判明するに至っています。

三の丸

膳所城三の丸は、二の丸の南側に設けられた曲輪です。

二の丸

膳所城二の丸は、本丸の南側に設けられた曲輪です。

寛文2年(1662年)に発生した大地震後の改修以前は三の丸だったのですが、同改修により旧本丸と旧二の丸とが一体化して新本丸となったため、旧三の丸が新二の丸となりました。

二の丸御殿が置かれ、膳所藩の政庁として用いられました。

現在、二の丸跡地は膳所浄水場として利用されています。

① 二の丸北手水門(新宮神社)

② 伝二の丸北東の門(膳所神社表門)

本丸(及び旧二の丸)

膳所城本丸は、元々は旧本丸と旧二の丸という2つの曲輪に分かれていたのですが、寛文2年(1662年)に発生した大地震で倒壊した後の再建時に旧本丸と旧二の丸が一体化され、東西最大80間・南北最大55間という大きな1つの本丸として再構築された曲輪です。

この結果、元々は、旧本丸北西角部にあった天守が、新本丸北側中央部に位置するに至っています。

なお、本丸跡地は、廃城後現在までに、埋め立て等によって完全に陸続きとなっており、現在は「膳所城跡公園」として整備され、その入口付近には城門風の建物・築地塀・堀・石垣などが模擬再建されています。

① 本丸大手門(本丸土橋門・膳所神社北門)

本丸大手門は、外曲輪と本丸の出入りのために本丸西側に設けられた門です

本丸大手門は、膳所城廃城後に膳所神社(現在の滋賀県大津市膳所1丁目)に移築されて現存しており、国の重要文化財に指定されています。なお、膳所神社には、この他にも北門・南門が膳所城から移築されたと伝えられています。

昭和57年(1982年)に行われた解体修理の際に行われた調査によって、本丸大手門には、明暦年間(1655年~1658年)以前に2回の移転の痕跡があることが判明しており、1回目は大津城から膳所城への移転、2回目は膳所城内での移転ではないかと考えられているそうです。

② 本丸犬走門(若宮八幡神社表門)

本丸犬走門は、大棟の背面に切妻造の両袖を突き出した形の高麗門であり、正面に向かって右側に脇門を設けています。屋根は、本瓦葺であり、大棟の両端に鯱と鬼瓦を上げ、軒丸瓦には本多家の家紋である立葵紋が見られます。

本丸犬走門は、明治3年(1870年)の膳所城取り壊しの際に若宮八幡宮に移築され、表門として利用されて現在に至ります。

③ 本丸黒門(御霊神社)

④ 本丸隅櫓(芭蕉会館)

本丸東正面二重櫓は、膳所城下の料亭坂本屋に移築された後、大津市秋葉台の芭蕉会館に移築されました。

この櫓は現在も残されているのですが、移築後に大幅な改築がなされているため、往時の原型をとどめていません。

⑤ 米倉

⑥ 天守(天守台)

前記のとおり、膳所城天守は、旧本丸時代には本丸北西角部に、新本丸となった後は本丸北側中央部に鎮座した膳所城の最重要建築物であり、付櫓を設けた4重4階の複合天守でした。

現在までに天守は失われているのですが、跡地に往時を偲ぶ天守台石垣跡が残されています。

城下町

琵琶湖南部の政治の中心が大津城から膳所城に移ったことにより、膳所がこの辺りの政治の中心となったのですが、商業機能のほとんどは、大津に残りました。

そのため、大津城が廃された後も、東海道と北国街道の分岐点としての大津の重要性は失われず、大津が東海道五十三次の宿場町の中でも屈指の人口を誇る町として繁栄し続けます。

その反面、膳所の町は、東海道沿いを以外に町屋が発展することはなく、経済の中心となることはできませんでした。

① 東海道

膳所城の外曲輪の西側(及び南側)には東海道が巡らされており、膳所城下の町屋はこの東海道に沿って発展しました。

江戸時代の東海道は、現在もほぼ同形状の道路として利用されています。

② 勢多口総門(細見邸)

勢多口総門は、膳所城城下町南東部に設けられた高麗門であり、江戸から京に向かって東海道を進み、瀬田の唐橋を渡って膳所城下に入る際に通過しなければならない門でした。

後に、勢多口総門は大阪府泉佐野市松之浜町2丁目所在の細見記念財団所有地に移築されています。

③ 瀬田口総門番所

瀬田口総門に設けられていた番所(瀬田口総門番所)は、廃城後に民家に移築されていたのですが、平成18年(2006年)に取り壊されたため、現在は失われています。

④ 遵義堂(藩校)

膳所城下には、文化5年(1808年)9月、儒学者皆川淇園の勧めにより第十代藩主本多康完によって設立された膳所藩の藩校である遵義堂(じゅんぎどう)がありました。

遵義堂では、当初は教育内容は手習や四書五経が、幕末にはこれに加えて蘭学と西洋砲術が教えられ、藩士の教育機関として機能していました。

現在その跡地は滋賀県立膳所高等学校の敷地として利用されており、遵義堂の記念碑が建っています。

⑤ 藩校門(和田神社)

膳所城廃城

浸食に対する対応

膳所城は琵琶湖沿岸に建造された城であるため、琵琶湖に発生する波によって常に削られ続けます。

そのため、時間が経過による浸食に常時悩まされました。

このため、膳所城は常に城域の補修を余儀なくされ、補修がなされる度にマイナーチェンジが施されていきます(また、このことが膳所藩の財政を逼迫させる一因となっていました)。

膳所城廃城(1870年)

明治3年(1870年)、新政府により廃城令が出されると、天守以下の城郭建築物の解体が行われます。

このとき、城郭建築物を再利用するため、城門を含めた建築物が、近くの神社などに移築されることとなります。

移築建築物の所在一覧

廃城に際して移築された城郭建築物のうち、現存している移築建築物の一覧は以下のとおりですので、興味がある方は是非。

(1)移築門(内曲輪所在門)

移築場所移築門
膳所神社(滋賀県大津市膳所1-14-14)本丸土橋門

二の丸北東の門

水門

若宮八幡神社(滋賀県大津市杉浦町20-31)本丸犬走門
御霊神社(滋賀県大津市鳥居川町14-13)本丸黒門
新宮神社(滋賀県草津市野路6-14-13)本丸北手水門
近津尾神社(滋賀県大津市国分2-442)米倉門

(2)移築門(外曲輪・城下所在門)

移築場所移築門
篠津神社(滋賀県大津市中庄1-14-24)北大手門
鞭崎八幡宮(滋賀県草津市矢橋町1463)南大手門
細見邸(大阪府泉大津市松ノ浜2丁目)勢多口総門
和田神社(滋賀県大津市木下町7-13)藩校・遵義堂門
響忍寺(滋賀県大津市木下町15-33)膳所藩家老屋敷長屋門
大養寺(滋賀県大津市本丸町1-13)膳所藩家老屋敷長屋門

(3)移築建築物

移築場所移築建築物
芭蕉会館(滋賀県大津市秋葉台35-9)本丸東隅櫓

六体地蔵堂(滋賀県大津市昭和町4-24)御椀倉

平成18年/2006年取り壊し瀬田口総門番所

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