大津城(おおつじょう)は、安土桃山時代に近江国滋賀郡大津(現在の滋賀県大津市浜大津、京阪電鉄びわ湖浜大津駅周辺一帯)にあった水城です。
元々坂本にあった要を大津に移して築かれた城で、関ヶ原の戦いの前哨戦である大津城の戦いで東軍勝利に大きな健闘をした城でもあります。
以下、大津城の歴史を簡単に説明します。
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大津城築城
坂本の繁栄と坂本城築城(織田時代)
琵琶湖南西部は、東海道と北国街道との分岐点であり、また琵琶湖水運の要でもあったため、水陸交通の要衝として発展してきました。
特に、その中でも、坂本の地は、比叡山延暦寺と日吉大社の門前町として繁栄していました。
そして、1571年、織田信長は、比叡山延暦寺の焼き討ちの後、延暦寺の監視と京への街道確保のため、坂本の地を重臣・明智光秀に与え、坂本城が築かせました。
当時の坂本は京への近道とされた山中越や、北国街道、琵琶湖航路を抑える重要拠点だったのです。
そして、明智光秀により築かれた坂本城は、西側に比叡山の山脈・東側に琵琶湖に面した堅城として名を馳せ、また明智光秀の治世により坂本は繁栄を向かえます。
もっとも、坂本の繁栄は、1582年(天正10年)6月2日、本願寺の変により織田信長を自害させた明智光秀が、同年6月13日に山崎の戦いで敗れたことにより斜陽に向かいます。
山崎の戦いの後、安土城に入った明智秀満が同年6月14日未明、安土城を捨てて坂本城に移ってきたものの、羽柴秀吉方の堀秀政により坂本城を囲まれたため、同日夜、城に火を放って明智秀満は自害します。
その後、豊臣秀吉が、丹羽長秀に命じて、焼け落ちた坂本城の再建を命じ、その後賤ヶ岳の戦いの軍事上の基地として使用された後、坂本城には、豊臣秀吉の叔父である杉原家次、次いで豊臣秀吉と舅を同じくする義理の相婿である浅野長政が城主として入っています。
坂本城廃城と大津城築城(豊臣時代)
もっとも、1586年(天正14年)、豊臣秀吉は、琵琶湖水運の高まりを見越し、坂本城を廃城として浅野長政に命じて現在の浜大津周辺に湖城・大津城(上写真はイメージ)を築城させました。なお、坂本城の資材は大津城築城に使用されています。
琵琶湖南西部の主たる城が坂本から大津に移ったことにより、城下町も大津に移ります。
そのため、この地域の商業機能もまた、坂本から大津に移り、現在につながる大津の発展が始まります。
初代大津城城主は、最後の坂本城主でもあった浅野長政だったのですが、浅野長政は小浜城に移り、代わりに豊臣家奉行の増田長盛、次いで御伽衆の新庄直頼と大津城主が移り変わります。
その後、文禄4年(1595年)、謀反の疑いありとして豊臣秀次の粛清がなされ、その名残を消すこととされたためかつての豊臣秀次の居城であった八幡山城の廃城が決まり、その結果として近江2万8000石と八幡山城を領していた京極高次が、6万石を与えられて八幡山城を出て大津城に入ります。
なお、京極高次の入城に際しては、自身の活躍ではなく、豊臣秀吉の側室となった妹・京極竜子や、正室・お初の姉になる豊臣秀吉の側室・淀殿などのおかげと言われ、女性の尻で出世したとして陰では「蛍大名」と囁かれていたようです。
大津城の縄張り
大津城は、本丸を琵琶湖に完全に浮かべ、その南側(内陸側)に二の丸・三の丸を配置して造られた梯格式平城(水城)であったと言われています。
膳所城、坂本城、瀬田城と並ぶ「琵琶湖の浮城」の一つです。
もっとも、大津城については、1601年に廃城となった後は、その跡地が住宅等に利用されたため、現在その遺構としては、外堀の石垣を僅かに残すのみで、その他にはほとんど何も残っていません。
また、現在縄張りを示すような当時の古絵図は残っていないため、規模等のの復元についても、明治期以降の研究と発掘調査により推認されているに留まっているというのが現状です(そのため、以下は推認にとどまるものです。)。
本丸
現代の大津港は当時の大津城の沖側(本丸の北側)を埋め立てて建設されていますので、現在の大津港は、大津城本丸よりも北にあると考えられています。
現在大津城跡という石碑が建てられている場所が本丸跡地と言われています。
天守
大津城は、関ヶ原の戦いの後に廃城となり、天守は彦根城に、その他の建築物は膳所城や彦根城に移築されたと伝えられています。
1957年(昭和32年)に行われた彦根城天守解体修理の際に見つかった符号、墨書きにより、彦根城の天守がかつての大津城天守の用材を転用して建てられている可能性が指摘されました。そこで、前記移築が本当であれば、以下の彦根城天守が在りし日の大津城天守であったはずです。
もっとも、彦根城天守は、大津城天守(4層5階)を3重に縮小して移築したと伝えられていますので、往時の大津城天守は、現在の彦根城天守よりも大きなものであったはずです。
大津城廃城
大津城の戦い(1600年9月)
大津の町に築かれた大津城は、その後、関ヶ原の戦いに際して激しい攻城戦が行われたことで有名です。
豊臣秀吉の死後、徳川家康と、石田三成らの対立が顕著となっていたのですが、徳川家康が会津攻めのために畿内を留守にした際、石田三成が諸大名を糾合して挙兵します。
そして、石田三成(西軍)は、まず大坂城にほど近い伏見城を攻略して、東へ北へと侵攻していきます。
このうち、北陸方面軍としては、越前敦賀の大名である大谷吉継が担当し、その麾下に近江大津城の城主・京極高次が加わっていました。
ところが大谷吉継が北陸から美濃へと転進する最中に、京極高次が、突如徳川家康方に寝返り、手勢3000人を率いて大津城に籠城しました。
この点、大津城は城自体が琵琶湖に面した舟運基地であり、また城下には東海道・中山道・西近江路が束ねられ、西軍の進出している越前・美濃・伊勢方面と西軍本拠の上方を結ぶ交通における要衝であったことから、西軍側は早急に京極高次の寝返りに対処する必要に迫られました。
そこで、西軍側は毛利元康を大将とし、それに立花宗茂、小早川秀包、筑紫広門ら九州方面の諸大名の軍勢を中心とした総勢1万5000人の軍勢をもって、1600年(慶長5年)9月7日より大津城を包囲し攻撃を開始しました。
しかし城攻めには短期決戦では終わらず、徳川家康との決戦に間に合わせるため、西軍は、同年9月13日に大砲を大津城内に撃ち込みました。
この砲弾が大津城天守に命中し大津城内は大混乱となりました。なお、このときの騒音は凄まじく、連日京都にまで届き、市民の中には弁当と水筒持参で見物に行く者まで出たもと言われています。
そして、その後、同年9月15日、大津城は、木食応其の仲介により降伏して開城に至ります。
こうして大津城攻防戦は西軍の勝利に終わったものの、降伏日が関ヶ原の戦いの当日であったために、西軍は、本来ならば関ヶ原にあったはずの1万5000人の兵力を大津城攻めに欠いたまま東軍と戦うという状況に陥いり、結局最も重要な関ヶ原の戦いで敗れています。
大津城の戦いは、西軍は戦術で勝って戦略で負けるという結果で終わったのです。
猛将・立花宗茂は大津城を開城させた後、急ぎ軍勢を率いて草津まで進出しましたが、そこで西軍の壊滅を知って大坂城への退却を余儀なくされ、関ヶ原の戦いには間に合いませんでした。
このように、大津城を守った京極高次は、敗れはしましたが、西軍1万5000人を大津城に釘付けにした功績は大きく、戦後、徳川家康から、大津6万石から若狭一国・8万5000石へと栄転・移封にて報いを得ています。また、京極高次は、さらにその翌年に近江国高島郡7100石が加増され、あわせて9万2100石となっています。
大津城の防衛上の問題点
大津城は、大津城の戦いでは落城してしまったのですが、その主たる原因は、西側にある長柄山中腹にある三井寺(園城寺)から見下ろされる位置にあったため、三井寺においた西軍の本陣から監視され、また砲撃を受けて大混乱に陥ったためでした。
この防衛上の問題点は、地形的な理由によるものであったため、以降も改善される見込みはありません。
そこで、徳川家康は、大津城の戦いの後に大津城の再建をあきらめ、城の移転がなされることとなりました。
大津城廃城と膳所城築城(徳川時代)
そして、1601年(慶長6年)、徳川家康は、京極高次が若狭へ移ったことをきっかけに、大津城の戦いで破壊された大津城を廃し、藤堂高虎の縄張りの下、第一号の天下普請にて新たに瀬田の唐橋に近い膳所崎の地に膳所城を築城し、琵琶湖南西部の政治の中心を膳所に移します。
この大津城廃城に際して大津城攻防戦で戦禍を免れた建築物の一部は、彦根城や膳所城に移築されて利用されています。
もっとも、膳所城に代々譜代大名が入ったために膳所城が膳所藩の政治の中心となったものの、膳所の町において街道筋以外に町屋が発展することはなく、商業機能のほとんどは、大津に残りました。
そのため、大津城が廃された後も、東海道と北国街道の分岐点としての大津の重要性は失われず、東海道五十三次の宿場町の中でも屈指の人口を誇る町として繁栄し続けました。