城とは、 敵からの攻撃を防ぐための軍事施設です。単に天守のみを城と言うのではなく,その防御施設全体が城です。
古くは、平安時代から既に存在していたようですが、当初は、一定の範囲を柵で囲んだだけの造りでした。
それが、時代を経るにつれて次第に進化していきます。堀が掘られ、土が盛られ、構造物が造られるなど複雑化していきます。
完成期とも言える戦国末期になると、それこそ様々な仕掛けが設置された究極の機能美を持つに至ります。
これが、後世の我々を強く引き付ける所以です。
城を知る上では、まず、その城が造られた時代背景を前提に、地形を確認して全体像を掴み、次に曲輪の配置の意味を考え、それぞれの防御施設を確認してから、天守に思いを馳せるというのがわかりやすいと思いますので、本稿ではこの順にかいつまんで紹介したいと思います。
【目次(タップ可)】
立地による城の区分
城を見る上では、まずその城がどのような場所に建てられているのかを把握する必要があります。
①山城(南北城時代~戦国時代初期)
山城とは、その名の通り天然の要害として山に土木工事を施して利益する城であり、攻める側は障害物をかき分けながら斜面を登って攻めなければならいため、攻め込みにくい構造となっています。
300mほどの規模の高さの山に多く、尾根沿いに平坦地を作って曲輪として配置し、その周囲に堀や土塁を巡らして構築していくのが基本です。
拡大性に乏しかったこと、斜面を削るのに大変な労力を要したこと等から規模はそれほど大きくはありません。そのため、山城は城1つで敵を防ぐというよりは、山々に小規模の城を複数築いて、相互ネットワークを駆使して防衛することが多かった造りと言えます。
また、山城は、力攻めに対しては強かったものの、水の確保や物資の運搬に難があり長期戦に弱いという特徴があります。
余談ですが、山の上にあるために居住には適しておらず、城主や家臣は、普段は山のふもとに住み、戦の場合にだけ城に籠るという使い方をしていました。
日本五大山城として、春日山城、七尾城、観音寺城、小谷城、月山富田城が有名です。
②平山城(戦国時代中期)
戦国時代中期になると小大名が淘汰され、残った大名が巨大化します。
巨大化した大名は、その本拠地は内陸部に置かれ、外から攻められる可能性が減ってきますので、防衛力に特化した人里離れた山城ではなく、政治や経済の中心地に近い場所が選ばれるようになりました。
また、鉄砲の普及により遠距離射程が長くなっていきましたので、幅広い堀を導入する必要が生じたことも山城が廃れた要因の1つとなっています。
城自体が政治の場となり、また領民統制に都合がいいため、実際には、領民が住む平野部にある小高い丘などが選ばれました。
代表的な平山城としては、仙台城、安土城、彦根城、姫路城、熊本城などが挙げられます。
③平城(戦国時代後期~江戸時代初期)
戦国時代後期になると、築城技術の発達により平野部に石垣を積んで城を構築できるようになったことから、平野部に思い通りの縄張りができるようになり、城自体が平地に降りてきます。
また、このころからは、城は権力の象徴の役割をも有することとなり、城下町などを取り込んだ軍事的・経済的拠点の意味を持つ巨大なものとなりました。
ただ、その余りの大きさと、1つ1つの施設の設置に莫大な費用がかかるため、平城を選択できる大名は限られていました。
代表的な平城としては、江戸城、名古屋城、二条城、大阪城、広島城などが挙げられます。
なお、平城の派生型として、川や湖を利用した水城(彦根城など)や、海を利用した海城(今治城、中津城など)などがあります。
縄張りによる城の区分
城がどのような立地に建っているかを把握したら、次はその城がどのような構造となっているのかを把握します。いわゆる縄張(なわばり)です。
縄張りとは、築城場所を決めた段階で、その地形を見て、どのような形を造り上げたら最大防衛力となるかを決める設計です。
一言で言うと、曲輪・郭(天守、櫓、門を含む)の配置ですね。余談ですが、縄を張って配置を決めていたので縄張というそうです。
それぞれの曲輪は、独立した防御施設となっており、他の曲輪とは、堀や土塁で仕切られています。1つの曲輪が落とされても、次の曲輪で守れるようにするためです。
城の最終防衛拠点に配置される曲輪を天守曲輪といい、本丸とも呼ばれます。
本丸が落ちたら戦は負けです。
天守が置かれる場合や城主が住む本丸御殿は、この本丸に置かれるのが一般的です。
本丸以降の曲輪は、二の丸、三の丸と順に呼ばれるのが一般的ですが、城によって呼び方は様々です。
この本丸を守るように、曲輪を配置し、この縄張全体を城と言います。
縄張りについての江戸時代の軍学者の識別分類は、以下のとおりです。
①輪郭式(りんかくしき)
本丸を取り囲むように、二の丸、三の丸が順に外に等しく広がっていく曲輪配置です。
四面全ての方向の防衛が可能となる配置ですが、障害物や勾配がある場合には設置困難で、また広大な築城面積が必要となる高価な城です。安土桃山時代の後半から造られだした形式です。
②連郭式(れんかくしき)
本丸、二の丸、三の丸と順に曲輪が直線的に並べられた曲輪配置です。
正面方面から攻撃される場合には、複数の曲輪を突破していかなければならず、極めて強い防御力を持つ構造ですが、側面から攻撃されると、いきなり本丸に攻め込まれるという弱点もあります。
平山城でも見られる曲輪配置ですが、山城の場合には尾根に沿って曲輪が配置されることが多いため、その多くがこの連格式の曲輪配置となるのが一般的です(上の模型は、芥川山城の曲輪配置ですが、曲輪が直線的に配置されているのが見て取れます。)。
③梯郭式(ていかくしき)
本丸の二方又は三方を、二の丸、三の丸で取り囲んでいく曲輪配置です。
城の一方を川や山など天然の要害で守られ、そちら側からの攻撃の可能性を考慮必要がない場合等に多く用いられる配置です。
④渦郭式(かかくしき)
本丸を中心に渦巻状に二の丸、三の丸と順に配置させる曲輪配置です。
輪郭式に構造が似ているものの、ぐるぐると回りながら本丸に進んでいく構造です。本丸に到達するまで相当の時間を必要とする配置となっています。
⑤その他
以上の他に、円郭式、階郭式、複合式などもあります。
城の主な防衛設備
縄張を確認した後は、いよいよ城内の仕掛けを見ていきます。
堀
まず、曲輪の外側に堀を掘っておけば、敵方が攻め込んで来る時の障害となりますので、城の守りとして、極めて効果の大きい防御施設です。
曲輪を囲むように、城の周りに幾重にも掘られることが多く、外側を外堀、内側を内堀、その中間を中堀といいます。城だけを囲うのではなく、城下町全体を囲む総構えの堀を惣掘といいます。
掘の種類としては、水の張られていない空堀と、水が張られた水堀とがあります。
(1)空堀
山城や平山城に見られる尾根を仕切るように作られた堀を掘切といい、有事の際には、堀切に架かる橋を落とすことで敵の進入を防ぐ造りとなっています。
空堀にはさまざまな種類のものがあり,例を挙げると,斜面を上下に向かい縦に掘られた堀を、縦掘障子を仕切るように掘られた障子堀などがあります。なお,上の写真は,山中城に残る障子堀です。特徴をよく残しています。
(2)水堀
水堀は、山城に設置することは困難ですので、戦国時代中期以降に現れる平山城や平城に設置されています。
また、堀は主に土塁や石垣とセットで造られています。その理由は、戦国時代以降は、堀を掘った土を土塁の盛土として利用していたためです。
さらには、遠距離兵器からの防御機能もあります。
鉄砲が戦で使われる前までは、遠距離兵器といえば弓でした。
日本の弓は人の力で打ちますので、その射程は長くはありません。殺傷射程30m、有効射程80m、最大射程400m位のイメージです。
また、火縄銃は、殺傷射程50m、有効射程200m、最大射程500m位です。
そのため,前記遠距離兵器の射程を超える幅を堀によって確保してしまえば、城の外からの攻撃で城兵が死傷する可能性が減らせます(この遠距離兵器に対する防御機能から、その時代の攻城兵器の技術によってその幅が変わります。)。
土塁
戦国時代初期ころまでは、城と言えば山を削って作った土の城でした。
山を削るというのは、単に斜面を平面にするだけでなく、山の尾根を削って自然の谷のような崖を造り出したり(堀切といいます。)、堀を掘ってみたりと、いろいろな工事があるのですが、これらのいかなる土木工事を行っても、削った分の土が余ります。
これらの余った土を積み上げて曲輪の周囲を固めたのが土塁であり,土を郭の周囲に盛り上げて固めることにより、堤防状の防壁となります。
なお,古い時代の城の城壁は、単に土を盛っただけのもの(土塁)だったのですが、その後、技術革新によって以下のように石垣を張り、その上に土塀や櫓を造るなどして防衛力の強化が図られていきます。
石積み→石垣
① 石積み
山城は基本土造りですので、水に弱いという特性があります。
土塁はもちろん、削った崖面なども、常に雨水によるがけ崩れの危険にさらされます。
そこで、土造りの城の側面に石を積んで土砂崩れを防ぐ工夫がなされました。これが石垣の始まりです。
もっとも、石を積んだと言っても当初から「石垣」であったわけではなく、当初は単なる「石積み」でした。
単に土塁の前面に石を積んだだけとは言え、土砂崩れの防止と、山城の強化、有効使用範囲の拡大のためには石積みで十分でした。特に、石を積んで造った防壁は、土塁に比べると格段に強かったからです。
② 石垣・野面積(のづらづみ)
その後、技術革新により石の積み方が時代を経るにしたがって高度に発展し、石積みから自然石を巧みに積み上げる石垣(野面積み)に進化していきます。
なお,石垣と石積みの違いについては研究者ごとに以下のような様々な説があります。
(1)石を壁面に張り付けるだけのものが「石積み」、石材と地山の間に栗石(裏込石)を積み込んでいるものが「石垣」
(2)一面のみのものが「石積み」,隅部(コーナー)をもつものが「石垣」
(3)高さの低いものが「石積み」,高いものが「石垣」
この石垣の有用性は特筆すべきもので、山城だけでなく、その後の平山城、平城においても広く使われます(石垣で保護された土塁は、土台としても強固で、その上に重く巨大な建築物を建築できるようになります。
③ 石垣・打込接(うちこみはぎ)
野面積み石垣の登場によって城の防御力が飛躍的に向上したのですが、自然石をそのまま利用する野面積みの工法では、石の突起によって隙間ができるため,攻城側が手や足をかけることができるために登りやすいというデメリットが指摘されさらなる防御力の向上が求められました。
そこで、安土桃山時代に入ると、自然石をそのまま積む野面積みから、石を加工して積むようになり、まずは荒割り石を積み上げ、そこにできる隙間に間石を詰める打込接へと進化します。
④ 石垣・切込接(きりこみはぎ)
さらに時代が進むと、石を完全に加工して隙間をなくすよう積み上げて登る際の足場を封じる切込接へと進化し、10m以上も積み上げるような高石垣までもが見られるようになっていきます。
なお、中国や西洋の城は、弓も届かないほどのとてつもない高さの城壁で囲う城郭構造をとっていることが多いのですが、地震の多い日本ではこのようなものを造っても地震ですぐに壊れてしまうので現実的ではありません。そこで、西洋と比べると低い壁に堀との複合構造で外からの攻撃を防ぐ構造をとっています。
土塀
また石垣の上(土塁の上にもあり得ます。)には、石垣を登ってくる敵の進入を防ぐための城壁を設置することもあり、これは土塀と呼ばれます。鉄砲が普及した後は、その対策として土塀には20cm以上の厚みを持たせることが多くなりました。
土塀の壁には、長方形・三角形・円形の穴が開けられ、そこから矢・鉄砲・大砲などを放って敵を攻撃できる造りとなっています。この穴を狭間といいます。
長方形の狭間は矢狭間といわれ、弓を放つために使われましたので、やや高い位置(約75cm)に開けられています。三角形と円形の狭間は鉄砲狭間といわれ、片膝をついて鉄砲を撃つために使われましたので、低い位置(約45cm)に開けられています。鉄砲は、弾込めに時間がかかりまた雨のときには使えなかったりするため、その援護に弓が必要となりますので、矢狭間と鉄砲狭間は交互に並べて配置されることが一般的です。
曲輪(郭)
戦国時代の初期までは、城と言えば山城であり、山城のとがった部分を削って平地を造り、兵を配置していました。
この山を削った場所は、丸く曲がった輪のような形をしていたため、城の防衛単位を曲輪というようになりました。郭や丸とも言われます。
(1)虎口
曲輪への出入り口を虎口といいます。
直進して入れる虎口を平虎口、直角に降り曲がっていて、くねくね曲がりながら入る虎口を食違虎口といいます。
虎口には門が設置され、表門を大手門、裏門を搦手門(搦手門は出陣用の門ではないため急斜面等に造られていることが多い。)といいます。
(2)枡形(防衛虎口)
虎口を守るため、虎口の内側又は外側に設けられた小曲輪を枡形と言います。
安土桃山期以降の近世城郭には、門の内と外に四角形の空間を設けて、複数方向から敵を迎撃することができる構造となっているのが一般的です。
強固な枡形ともなると、枡形自体に門を設置し、枡形に入る際、出る際に2度の迎撃を受ける構造となっています。
(3)馬出(攻撃虎口)
素早い出撃と退却を想定した構造で、東日本を中心に発展しています。馬出の形としては、丸型をしているのを丸馬出、方形をしているものを角馬出と言います。
騎馬隊で有名な武田信玄は、丸馬出を多くの城に採用しています。
(4)横矢掛り
土塁や石垣を張り出すように造られた防衛構造。攻め込んでくる敵に効率よく弓・鉄砲を浴びせることができる攻撃的防御構造となっています。主に、門の前や食違虎口など、進入速度が遅くなる場所を狙って設置されるのが一般的です。
(5)櫓
戦国時代中期ころまでは、井楼(せいろう)と呼ばれる周囲を監視するための物見と弓矢での防衛のための仮設的建造物でした。
もっとも、戦国期に鉄砲が普及してくると、防弾・防火性能が必要となり、厚い土塀で囲んだ恒久的建築物へと発展しました。これによって、櫓が高い防御能力を獲得したため、武器や食料の保管庫としても利用されるようになりました。また、狭間や石落などを駆使し、強力な防衛力をもっていました。
櫓は二重のものが多いのですが、巨大な城には三重櫓がいくつも建てられる場合もあります。なお平屋の櫓は平櫓と呼ばれ、長屋状に広がれば長屋・多聞櫓(松永久秀が建てた多聞城で初めて造られ普及したためそう呼ばれます。)と呼ばれます。櫓と櫓をつなぐものは渡櫓と呼ばれます。
また,門の上に建てられた場合には、櫓門といいます。
曲輪の角に建てられるのを隅櫓といい,この場合には横矢掛りの機能をも担います。
天守
言わずと知れた、本丸に位置する城の最終防衛拠点です。城のシンボルでもあります。
篭城戦の場合には、城主一家の生活の場となり、最悪の場合には切腹の場所ともなります。
天守というと特別感がありますが、実際は、本丸に建てられた大きな櫓を天守と言っているにすぎず、構造上は櫓と大きな違いはありません。そのため、江戸時代に天守を持つことを許されなかった藩は、物見用の三層櫓を天守の代用としています(弘前城など)。
また、最初から天守自体が存在していない城もあります。
城に最初に天守が造られたのは、織田信長の安土城が始まりと言われていることが多いのですが、その頃に始まったという以外詳しいことは明らかではありません。
その後、築かれた城にはほとんど天守が建てられたのですが、その後の城であっても福岡城など天守がそもそも造られなかった城も存在しています。
天守は、最終防衛拠点であるため、天守が築かれる場合にはその城の最強防御が施されます。
まず、天守の壁には、天守を燃えにくくするために防火壁が付けられています。当初は、漆塗り又は焼き板で防火していたため、戦国後期までの天守は黒色が一般的です。他方、江戸初期ころからは防火用に漆喰が塗られましたのでその頃以降の天守は白色をしています。
必ずしもそうとは言い切れませんが、誤りを恐れず言うと、天守は、豊臣秀吉が死ぬまでが黒色で、徳川家康以降が白色のイメージです。
また、天守を支える天守台を登ってくる敵兵に対するため、天守から石や熱湯を落として防御するための「石落」や、隅々に矢狭間・鉄砲狭間が設けられています。
城内の階段は登りにくいよう、60度を超える急な造りとなっていることが多く、段の高さがわざと変えられているものもあります。
武者隠しという、防御兵が隠れる空間を持たせている場合もあります。
(1)天守の平面構造
天守は、その構造から、以下の4つに分かれます。
①独立式天守
天守が単体で立っている天守です。
代表的な独立式天守としては、丸亀城、宇和島城、高知城等が挙げられます。
②複合式天守
天守に付櫓や小天守をつなげた天守です。
天守からの攻撃範囲を広げること,付櫓に天守の入口を持たせることがその目的です。
代表的な複合式天守としては、犬山城、彦根城、福山城、松江城等が挙げられます。
③連結式天守
天守と小天守を造り、渡り廊下や多門櫓を介してこれらをつなげた天守です。
代表的な連立式天守としては、松山城、名古屋城、福知山城、広島城等が挙げられます。
④連立式天守
天守と2基以上の小天守や隅櫓を造り、これらを渡櫓で環状につなげた天守です。内側に空間ができているのが特徴です。
敵兵を四方から攻撃でき,もっとも防御力が高い造りです。
代表的な連立式天守としては、和歌山城、姫路城、松山城等が挙げられます。
(2)天守の垂直構造
なお、天守については、よく2重3階であるとか、5重6階であるとか、「重」と「階」を合せて語られます。
ここで言う「重」とは外から見た屋根の数を言い、「階」とは内部の階層の数を言います。
つまり、2重3階とは外から見ると2階建てだが中に入ると3階建て、5重6階とは外から見ると5階建てだが中に入ると6階建てという意味です。
(3)天守の造り
①望楼型天守(ぼうろうがたてんしゅ)
1~2階建ての入母屋造りの櫓の上に望楼を乗せた形をした天守です。外から見ると長方形の上に日本家屋が乗るように2つの建造物にも見える形をしています。
天守が造られ始めた初期のころの天守に多い造りです。
望楼型は技術的に易しい割に造りが頑丈というメリットがある反面、造り自体が2つの建物の複合型にになっているため築城コストが高いというデメリットもありました。
代表的な望楼型天守としては、丸岡城、犬山城、安土城、彦根城、姫路城、岡山城、広島城、松江城、高知城などが挙げられます。
②層塔型天守(そうとうがたてんしゅ)
下の階から上の階に行くにしたがって段階的に小さくなるような形をした天守です。
築城名人と言われた藤堂高虎が考案し、江戸時代以降に造られた天守に多い造りです。
層塔型天守は、第1層から同じ形で段階的に小さくしていますので、正確な測量・設計、規格化された建材が必要となるなど技術的には難しいものがある物の、構造自体はシンプルなため築城コストが安い造りです。
代表的な層塔型天守としては、弘前城、松本城、備中松山城、丸亀城、伊予松山城、宇和島城、島原城などが挙げられます。
(4)天守の装飾
天守は防衛施設である一方で,領民に対する心理的支配や他国に対する威圧を与えるための象徴的建物でもありました。
また、城が落ちるときの城主の切腹の場(死に場所)でもあります。
そのため、天守には、城主の威厳と見栄が表現され,(無駄に)豪華に造られています。
①破風(はふ)
装飾の代表格は破風です。
三角形のものが千鳥破風,上に向かって丸く曲がっているのが唐破風です。
破風部屋から鉄砲で攻撃できる構造をもったものもあれば,単なる飾りとしてつけられているものもあります。
②懸魚(げきょ)
懸魚とは,破風からぶら下がっている装飾です。
この辺りになってくると防衛上の理由はありません。単なるおしゃれです。
③火灯窓(かとうまど)
元々寺院で見られるような釣鐘のかたちをした窓です。これも防衛上の理由はありません。
全ての城についているわけではなく、犬山城天守,彦根城天守にあしらわれています。
④鬼瓦・鯱
言うまでもなく,単なる飾りです。
(5)余談
このように、城の最後の砦となる天守ですが、火砲が発達してくる近現代になると、むしろ無い方が良かったりもします。
天守があると大砲の的になって狙われるからです。
真偽は不明ですが、西南戦争時には、籠城していた政府軍がわざと天守を燃やしたという逸話が残されていたりもします(原因不明の出火とされていますが、的になるのを避けるために自ら燃やしたとも言われています。)。
その他
また、城内には、押し寄せてくる攻め手を矢や鉄砲で攻撃するため、攻め手の足を止めたり、遅めたりする仕掛けが随所に見られます。代表的なものは、以下のようなものです。
(1)外郭
外郭とは、いわゆる城(従来の機能的構成部分である内郭)から、外側に張り出た防衛線のことを言います。外曲輪や惣構えとも呼ばれます。
(2)通路
城内の通路には、曲がり角を多く設置して、行く手を見えないようにして敵を警戒させたり、また、石段の間隔をわざと変えて歩きにくくし、攻城兵の目線を下に向けさせ侵攻速度を遅めさせる工夫もなされたりしていたりもします。
(3)橋
木橋、土橋、跳ね上げ橋などがあります。
城内の橋は、またその幅は狭く造られ、一度に多くの敵兵が入ってくることができないようにされています。