【豊臣秀吉の後継ぎ候補者の推移】混乱する豊臣政権後継者選定問題

豊臣秀吉は、男色が当たり前だった時代に女性のみを愛し、ルイスフロイスが記した日本史には側室が300人いたとも記されているのですが、なかなか子宝に恵まれませんでした。

生涯で3人の男児を儲けたとされているものの、長男・次男は早世し、三男・豊臣秀頼は年老いて産まれた子であったために豊臣家に混乱をもたらしました。

本稿では、思うように後継者を定めることができなかった豊臣秀吉が、その時々で誰を豊臣家(羽柴家)の後継者としていたかについて、時系列順に説明して行きたいと思います。

なお、豊臣秀吉は、木下藤吉郎→木下秀吉→羽柴秀吉→豊臣秀吉と名乗りを変遷させていますが、本稿では便宜上「豊臣秀吉」の表記で統一することとします。

於次秀勝後継者時代(1577~1585年)

石松丸秀勝死去(1576年10月14日)

豊臣秀吉は、長浜城主時代(正確な年月日は不明)に初めて男児を儲け、幼名として石松丸(いしまつまる)と名付けたと言われています(ただし、非実在説あり)。生母については側室の誰かであったと思料されるもののそのうちの誰であるかは不明であり、そのため石松丸は庶長子となります。

その後、成長した石松丸は、「秀勝」と名乗るようになりました(資料による裏付けはないものの織田家宿老であった丹羽長秀と柴田勝家から偏諱を受けたものと考えられています。)。

もっとも、羽柴秀勝は天正4年(1576年)10月14日に死去しています。

なお、豊臣秀吉は、この後に養子として貰い受けた、織田信長四男・三好吉房次男・豊臣秀吉の姉の子の3人に次々と「秀勝」と名づけていることから、豊臣秀吉がこの石松丸「秀勝」にかなりの愛着を持っていたことが推認出来ます。

織田信長四男を養子に貰い受ける(1577年頃)

石松丸秀勝を亡くして落ち込む豊臣秀吉は(またはその正室であったねねが)、主君である織田信長に織田家の子を養子として貰い受けることを願い出ます。

血族を優遇する織田信長としても、羽柴家を自身の子が相続することになれば織田家中の結束が固められると判断し、織田信長の四男である「次」=於次丸(永禄11年/1568年生、生母は養観院)を羽柴家の養子として譲り渡し、羽柴家の跡継ぎとすることに決まります。

そこで、天正5年(1577年)から天正6年(1578年)までのいずれかの時期に、於次丸が豊臣秀吉の養子となって羽柴家に入り、藤掛永勝を傅役として付け、「秀勝」と名乗らせています。

なお、豊臣秀吉の子として3人の秀勝がいますので、混同を避けるため便宜上、織田信長四男を於次秀勝、豊臣秀吉庶子を石松丸秀勝、豊臣秀吉の甥を小吉秀勝と呼んで区別することがよくあります。

於次秀勝を利用

於次秀勝を養子として貰い受けた豊臣秀吉は、この於次秀勝を存分に利用します。

まず、織田信長存命中には、織田家中でより中心に近い地位に上り詰めるため、於次秀勝の権威を利用します。

天正5年(1577年)、豊臣秀吉は、織田家における中国攻めの総司令官に任命されて中国地方に赴くこととなったのですが、留守にする近江北部の長浜領の統治をまだ若い於次秀勝に委託し、織田家に繋がる人間を大事にする姿勢を見せています。

天正10年(1582年)6月2日に織田信長と織田信忠が横死すると、中国方面に侵攻していた豊臣秀吉は、直ちに畿内に引き返し(中国大返し)、織田信長四男(及び同三男神戸信孝)を旗印として掲げて反明智光秀の勢力を結集し、同年6月13日の山崎の戦いで明智光秀を破ります。

その後、織田家中で宿老たちによる権力闘争(実質上の後継者争い)が始まると、豊臣秀吉は、同年9月12日に名目上の喪主を於次秀勝として立て、豊臣秀吉が実質上取り仕切る形で大徳寺において織田信長の百日忌を催し(法用文集)、事実上織田家の後継者争いに名乗りを上げる宣言をします。

そして、同年10月20日付豊臣秀吉作成の堀秀政宛の書状の宛名に羽柴の名字が使用されるなどからわかるように、この頃から豊臣秀吉による織田家臣の掌握が始まります。

その後、天正11年(1583年)の賤ケ岳の戦いに勝利して事実上織田信長の後継者の地位に立ち、その後の天正13年(1585年)7月11日に関白宣下を受けます(また、豊臣姓も下賜されています)。

この結果、朝廷のお墨付きという強力な肩書を手に入れた豊臣秀吉には、もはや織田家という権威は必要がなくなります。

必要がないというより、旧主の家という意味で織田家ブランドが邪魔にさえなったのです。

於次秀勝死去(1585年12月10日)

その時期である天正13年(1585年)7月ころ、突然、於次秀勝が病を患い、同年12月10日に丹波亀山城で病死してしまいました。

織田家ブランドが邪魔になったタイミングで、18歳の若者が突然病に罹患して死去するという不自然ともいえる事実経過を経ており、その経緯には事件性の匂いが感じられます。

辰之助後継者時代(1585~1589年)

辰之助が羽柴秀吉の養子となる(1585年)

天正13年(1585年)7月ころに於次秀勝が病を患い、それ以降その病状が悪化していきました。

そのため、豊臣家中で於次秀勝に代わる新たな豊臣秀吉の後継者候補者が求められました。

そこで、このときに一門の中から適切な人物が探されることとなりました。

ここで、天正12年(1584年)に既に豊臣秀吉の猶子となっていた木下家定(高台院の兄)の五男として杉原家次の娘との間に生まれた正10年(1582年)生まれの幼い辰之助(後の羽柴秀俊→豊臣秀俊→小早川秀秋)に教育を施し、豊臣秀吉の後継者候補として育てられることとなったのです。

そこで、辰之助は、豊臣秀吉の正室・ねねの下で当時最先端の帝王学が叩き込まれていきました。

辰之助が豊臣秀吉の後継者筆頭となる

豊臣秀吉の養子となった辰之助は、すぐに豊臣秀吉の後継者候補筆頭の地位に上ります。

そのことは、以下の事実関係からも明らかです。

① 天正16年(1588年)4月に行われた後陽成天皇の聚楽第行幸の際には、辰之助が豊臣秀吉を代理して後陽成天皇への誓いを受け取り、また内大臣織田信雄豊臣秀長・羽柴秀次ら6大名連署の起請文が金吾宛に提出されています。

② また、同年までの挨拶や進物の順番は、豊臣秀吉→ねね→辰之助の順とされていること、各種行事が執り行われた際に辰之助が豊臣秀吉と共に上段の間に座していました(豊臣秀長以下の豊臣一門は下座)。

茶々懐妊

豊臣秀吉の養子となった辰之助でしたが、もっとも、天正16年(1588年)の秋頃に豊臣秀吉の側室・茶々が妊娠していることが発覚したことによりその立場が変化します。

生まれて来る子が女の子であればそのまま豊臣秀吉の後継者となり続けることができる一方で、生まれて来る子が男の子であれば明らかな邪魔者となりうる微妙な立場となったのです。

鶴松誕生(1589年5月27日)

そして、天正17年(1589年)5月27日、淀古城(現在の京都市伏見区納所北城堀)において、茶々が無事出産をしたのですが、生まれて来た子は豊臣秀吉待望の男の子でした。

このときの豊臣秀吉は53歳と相当の高齢であり、晩年に産まれた子の出生をたいそう喜び、棄て児はよく育つという民間の信仰に従って幼名を「棄」と名付けました(なお、後に「鶴松」と改名したとされているのですが、時期や経緯は不明です。)。

豊臣秀吉は、同年9月13日、早くも鶴松を後継者としようと動き始め、淀殿と共に大坂城に迎え入れその準備を始めます。

辰之助格下げ

こうなると、豊臣秀吉の後継者であったはずの辰之助の地位は崩れます。

身内とはいえ、辰之助は、妻の兄の子ですので豊臣秀吉との血縁関係はありません。

そこで、自分の子が産まれてしまえば立場が下がるのは当然であり、鶴松の誕生により後継者候補の立場は鶴松に取って代わられ、辰之助の立場は鶴松の補佐人(一門衆の1人)に格下げ変更され、与えられる教育も帝王学から臣下のものに変更されることとなりました。

その結果、次期豊臣家当主であるからという理由で辰之助を持ち上げていた太鼓持ち達も辰之助の下を離れて行きました。

幼い頃から持ち上げられて育てられた辰之助には、この対応の変化を受け入れることができず、次第に酒におぼれるようになったと言われています。

後継候補からただの一門衆の1人に格下げとなった辰之助は、天正17年(1589年)に元服して木下の名字を与えられて木下秀俊を名乗り(その後に羽柴秀俊→豊臣秀俊)、丹波国亀山城10万石を与えられました。

鶴松後継者時代(1589~1591年)

鶴松の大坂城入り

天正17年(1589年)5月27日に淀古城で産まれた鶴松(棄)は、産まれてすぐに豊臣秀吉の嫡男となってその後継者となり、同年9月13日、茶々と共に大坂城に迎え入れられます。

なお、棄が鶴松に改名した時期は不明です。

鶴松死去(1591年8月5日)

鶴松は、天正19年(1591年)閏1月3日に病を発し、このときはしばらくして回復に至ります。

ところが、同年8月2日、鶴松が再び病を患います。

豊臣秀吉は、名のある医者をことごとく集めると共に、全国の神社仏閣に鶴松の病気平癒の祈祷を行わせましたが、その効果はなく、同年8月5日、鶴松は淀古城において死去してしまいました。

豊臣秀次後継者時代(1591~1595年)

唐入り計画

天下統一事業を進めていた豊臣秀吉は、天正18年(1590年)7月から8月にかけて行われた奥羽地方に対する領土仕置(奥州仕置)により日本全国の武力統一を完成させます。

これは、日本全国が豊臣秀吉の支配下に置かれて国内での争いがなくなったことをも意味し、一見すると平和という喜ばしい状況となったとも思えるのですが、必ずしもそうではありません。

なぜなら、争いがなくなってしまうと、それまで腕っぷしで出世を重ねてきた支配階層である大名・その配下である武士・さらにその下層に位置する足軽などの存在価値が失われてしまうからです。

また、争いがなくなって存在価値を失った大名・武士・足軽がリストラされる事態が生じると、そのような事態をもたらした豊臣政権への不平不満が高まり、大規模な反乱へと進展していく可能性が出てきます。

歴史上、武力で国内統一を果たした者は、このような反乱を可能性を未然に防ぐために反乱可能性者を次々と粛清していくか(秦の始皇帝・漢の劉邦など)、政治システムを大転換するか(江戸幕府の徳川家康など)、新たな敵を創設するか(マケドニアのアレキサンダー・モンゴル帝国のチンギスハンなど)などの抜本的な対策を行ってきました。

このうち豊臣秀吉が選択したのは、新たな敵を創設することであり、その対象としたのは広大な領土を有する明国でした。

豊臣秀次に関白職を譲る(1591年12月27日)

豊臣秀吉は、天正19年(1591年)12月27日、関白職を、豊臣秀吉の姉・瑞竜院日秀の長男である内大臣豊臣秀次に譲ることにより日本の政治を任せ、自身は唐入りに専念することとします。

その上で、豊臣秀吉は、天正20年(1592年)正月、総21軍(隊)に分けられた約30万よりなる征明軍の編成が始められました。

なお、鶴松誕生前の後継者候補は羽柴秀俊(名字を木下から変更)だったのですから、このタイミングで再び羽柴秀俊を担ぐという選択もあり得たのですが、唐入りにより豊臣秀吉が不在となる可能性がある日本の統治を任せるにはこの時点での羽柴秀俊は若過ぎると判断され、年長者である豊臣秀次が選択されました。

こうして、家督と関白職を譲られて豊臣秀吉の後継者となることが決まった豊臣秀次でしたが(後継者候補筆頭が豊臣秀次・次席が羽柴秀俊)、豊臣秀吉の養子となったかどうかについては明らかとなっていません。

豊臣秀次政権

豊臣秀吉が、天正20年(1592年)3月26日、淀殿を伴って名護屋城に入って唐入り(文禄の役)に専念し始めると、豊臣秀次による日本国内統治機構の整備が進められていきました。

また、豊臣秀吉の隠居城となる指月伏見城の築城、大政所葬儀の実務(喪主は豊臣秀吉)なども豊臣秀次の下で行われ、豊臣秀次が名実共に豊臣家を運営していくようになりました。

この結果、豊臣秀吉家から豊臣秀次への政権移譲は滞りなく進み、安定的な豊臣政権の維持に資するかに思われました。

2度目の茶々懐妊

ところが、順調に進んでいた豊臣政権の権限承継に水を差す事態が起こります。

名護屋城から戻った茶々の懐妊が判明したのです。

辰之介(羽柴秀俊)のときとは異なり、このときは既に豊臣家の家督は豊臣秀次に譲られた後であったため、当初は、茶々の懐妊の事実を聞いても豊臣秀吉に動きはありませんでした。

豊臣秀頼誕生(1593年8月3日)

その後、文禄2年(1593年)8月3日、茶々が大坂城二の丸で男児を出産します。なお、産まれた子は、拾と名付けられました。

当初、豊臣秀次と、豊臣秀吉・茶々との関係は良好であり、名護屋城から子供に会いに大坂城に入った後で伏見城に入った豊臣秀吉は、同年9月4日、日本を5つに分け、そのうち4つを豊臣秀次に、残りの1つを拾に譲ると申し渡しています(言経卿記)。

豊臣秀吉が豊臣秀次を牽制し始める

この後、豊臣秀吉は、隠居城として自らが入っている伏見城において、聚楽第にいる豊臣秀次と大坂城にいる拾の間を取り持っていこうと考えていました。

以上のとおり、豊臣家の後継者を豊臣秀次としていた豊臣秀吉でしたが、拾が成長していくに従って心変わりが起き始め、自分の実子である拾に豊臣家を継がせたいとの気持ちが大きくなっていきます。

この豊臣秀吉の親心を、豊臣秀吉の子を産んだことにより大きな発言力を持つこととなった茶々とその側近が後押しして行きます。

この結果、豊臣秀吉は、隠居地としていた伏見の機能を強化し、京にいる豊臣秀次を監視し、次第にその力を引き上げる動きを取り始めました。

羽柴秀俊が後継者候補から外される(1594年)

そして、豊臣秀吉は、その後に豊臣秀次を廃して拾に豊臣家の家督を相続させることを決定してしまいます。

もっとも、拾に豊臣家の家督を相続させるためには、豊臣家の家督相続権を持つ人物を排除する必要がありました。

具体的にいうと、既に豊臣家の家督を譲り受けてしまっていた豊臣秀次と、次席継承権者であった羽柴秀俊の排除が必要となったのです。

そこで、豊臣秀吉は、木下秀俊の排除から始めます。

この頃、西国の大大名であった毛利家当主の毛利輝元がなかなか子宝に恵まれなかったため、天正13年(1585年)、後の内紛防止策として穂井田元清(毛利輝元の叔父)の次男として穂井田家の嫡男となっていた穂井田宮松丸(後の毛利秀元・毛利輝元の従兄弟)を毛利輝元に男子が生まれた場合には廃嫡して分家するという条件の下で養子としていました。

豊臣秀吉は、このことを奇貨として、厄介者となった羽柴秀俊を豊臣政権から追い出すと共に、そのことを利用して西国の大大名である毛利家を乗っ取ってしまおうと考えたのです。

そこで、豊臣秀吉は、文禄2年(1593年)、毛利輝元に対して羽柴秀俊を養子として貰い受けてもらえないかと提案をします。

この提案を受けた毛利宗家は騒然となります。

豊臣秀吉による毛利宗家乗っ取り目的の提案であることは明らかなのですが、天下人となった豊臣秀吉の提案を無下に断ることもできなかったからです。

困った毛利家では対応が協議され、毛利宗家の乗っ取りの危機を防止するべく、毛利家重臣である小早川隆景が、豊臣秀吉に対して羽柴秀俊を毛利宗家ではなく小早川家で貰い受けたいと願い出ることとしたのです。

この提案は毛利家乗っ取り策の妨害を意味するのですが、豊臣秀吉としても、中国大返しのときからの恩がある小早川隆景の申し出を断ることが出来ませんでした。

そのため、豊臣秀吉としても、この小早川隆景の申し出で手打ちとすることとし、その結果、文禄3年(1594年)、羽柴秀俊が毛利輝元ではなく小早川隆景の養子となることで決着しました。

この結果、羽柴秀俊は豊臣一門衆ではなくなり、小早川秀秋となって豊臣家の後継者候補から脱落することとなったのです。

豊臣秀次切腹(1595年7月15日)

そして、羽柴秀俊の排除に成功した後のターゲットは、本命である豊臣秀次でした。

文禄4年(1595年)6月20日、天皇の侍医であった曲直瀬道三が同時に病を患った後陽成天皇の診察より豊臣秀次の診察を優先した事件が発生し、豊臣秀吉がこの件を問題視します。

豊臣秀吉は、同年7月3日、石田三成らを聚楽第に派遣して豊臣秀次を詰問し、この結果、豊臣秀次は高野山へ入ることとなりました(豊臣秀吉の命令だったのか、豊臣秀次の自発的行為だったのかは不明)。

同年7月8日に高野山に向かった豊臣秀次は、同年7月15日に高野山で切腹してしまいました(豊臣秀吉の切腹命令だったのが、謀反を疑われた豊臣秀次が真実を訴えるために自発的に切腹したのかは不明)。

以上のとおり、詳細な経緯は不明なのですが、結果として豊臣秀次が切腹したことにより豊臣家現当主が失われました。

豊臣秀次一族を粛清(1595年8月2日)

豊臣秀次には、多くの妻がおり、これらとの間に多くの子が産まれていました。

豊臣秀吉は、後の拾への家督相続への妨げになる可能性を排除するため、文禄4年(1595年)8月2日、京の三条河原に男児(4名)、女児、側室・侍女・乳母ら計39名を集めてその全員斬首して後顧の憂いを断つこととしたのです。

また、豊臣秀吉は、徹底して豊臣秀次の痕跡を消し去ろうとし、その居城であった聚楽第や近江八幡山城が徹底的に破却されました。

豊臣秀頼後継者時代(1595年〜)

拾が家督承継候補者となる

以上の結果、豊臣家一門に豊臣家の家督を相続しうる男子がいなくなり、拾の豊臣家家督相続が脅かされることは無くなりました。

その結果、正式に拾が豊臣家の唯一の家督承継候補者となったのです。

もっとも、豊臣家中で立場を脅かされることがなくなった一方で、豊臣家に成年男子がいなくなったことは他家から豊臣家を守る者がいなくなったことをも意味します。

豊臣秀頼が豊臣家家督相続(1598年8月)

その後、慶長3年(1598年)8月18日豊臣秀吉が死去し、豊臣秀頼が豊臣家の家督を相続します。

もっとも、幼い豊臣秀頼に諸大名を統率する力があるはずがなく、また豊臣秀頼をサポートできる一門衆も粛清されてしまっていたことから外様大名達に対する支配が失われていきました。

この結果、徳川家康の台頭を許し、豊臣家滅亡に繋がっていくのですが、長くなりますので以降の話は別稿に委ねたいと思います。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA