源実朝(みなもとのさねとも)は、北条氏による専制政治の神輿として12歳の若さで鎌倉幕府第3代征夷大将軍に就任した人物です。
名目上は武士の頂点にいるはずなのですが、実質的にはお飾りであったため、武士としての立場を諦め、公家の文化に心酔していった人物でもあります。
その結果、歌人としても名高く、92首が勅撰和歌集に入集したり、小倉百人一首にも選ばれたり、自撰の和歌集である金槐和歌集まで発表しています。
政治に興味を失った源実朝でしたが、用済みになると北条家にけしかけられた甥で猶子でもあった公暁に暗殺されるという悲しい最期を迎えます。
本稿では、この源実朝暗殺事件について、その発生機序から順に解説していきます。
【目次(タップ可)】
操り人形としての鎌倉幕府3代将軍就任
源実朝の出自(1192年8月9日出生)
源実朝は、建久3年(1192年)8月9日、鎌倉幕府を開いた源頼朝と北条政子との間の次男として生まれます。幼名は千幡です。
源実朝の乳母は、北条時政の娘であり北条政子の妹でもある阿波局が努めています(そのため、源実朝の後ろ盾は北条氏です。)。
建久10年(1199年)に源頼朝が死去したため、兄である源頼家(比企尼の次女らが乳母を務めたため、源頼家の後ろ盾は比企氏です。)が18歳の若さで鎌倉幕府2代将軍に就任します。
ところが、御家人らの突き上げによって源頼家の権力は大きく削がれ(13人の合議制)、その反射的効果として有力御家人達の権力が増して行きます。
そして、さらに有力御家人の間で権力争いが激化していきます。
ここで、大きく勢力を伸ばしたのが、源頼朝の妻・北条政子の実家である北条氏でした。
建仁3年(1203年)9月、他氏排斥を進める北条時政が比企能員を誅殺し(比企能員の変)、比企能員を後ろ盾とする第2代鎌倉殿の源頼家の将軍職を奪って伊豆国に追放します。
鎌倉幕府3代将軍就任(1203年9月7日)
その上で、源頼家から将軍職を剥奪しようと考えた北条政子らは、朝廷に対して源頼家が死去したという虚偽の報告をして、千幡への家督継承の許可を求め、建仁3年(1203年) 9月7日、千幡を従五位下征夷大将軍に補任しました。
そして、同年10月8日、千幡は、名越・北条時政邸(現在の神奈川県鎌倉市)において12歳で元服し、後鳥羽上皇に名を貰って源実朝と称します。
こうして形式上鎌倉幕府の頂点に立った源実朝でしたが、なんの経験もない12歳の少年が、海千山千の御家人達を従えて政治を行うなどできるはずがありません。
実質的には北条時政の完全な操り人形です。
兄・源頼家暗殺(1204年7月18日)
そして、北条時政は、元久元年(1204年)7月18日、北条義時を伊豆・修善寺に差し向け、入浴中の源頼家を襲撃し暗殺します(源頼家は、首に紐を巻き付けられた上で急所を押さえて刺し殺されたそうです。愚管抄・増鏡)。享年23歳(満21歳)でした。
北条時政・牧の方による源実朝暗殺未遂
このころ、北条時政は、継室として牧の方を迎えており、その間に北条政範と3人の娘を設けていました。
この北条時政と牧の方との間の娘の1人が、源頼朝の猶子であり、畿内で大きな力を持っていた平賀朝雅と結婚していました。
そんな中、有力御家人であったは畠山重忠の息子である畠山重保が、源実朝の結婚相手である坊門信子を迎えに鎌倉から京へ赴きます。
京に着いた畠山重保は、京にいる平賀朝雅と宴席を共にするのですが、その席で喧嘩となり、それを平賀朝雅が牧の方に報告をしたことから問題が起こります。
話を聞いた牧の方が、北条時政を唆し、北条時政の命で北条義時に畠山重忠を殺害させ、畠山重氏を滅亡させたのです。
自身の主張により畠山氏を滅ぼした牧の方は、勢いに乗って娘婿である平賀朝雅を将軍に据えようと考え、今度は、平賀朝雅を将軍に据えるべく、北条時政に現将軍源実朝の暗殺を働きかけます。
北条時政追放(1205年7月20日)
もっとも、この北条時政と牧の方の源実朝暗殺計画は、実行前に露見します。
露見したのが元久2年(1205年)閏7月19日であり、そのとき源実朝は北条時政邸にいたのですが(源実朝は、建仁3年/1203年に鎌倉殿に就任するまでは北条政子の屋敷で生活をしていたのですが、征夷大将軍に任命された直後の同年9月10日に後見人となった北条時政の屋敷に移り住んでいます。)、危険を察知した北条政子が御家人を手配して源実朝を北条時政邸から連れ出し、北条義時の邸宅に移します。
将軍暗殺計画がバレて立場が危なくなった北条時政は、急ぎ兵を集めようとしたのですが集まらず、同年7月20日、北条時政は息子の北条義時の命により伊豆国修禅寺に追放されます(牧氏の変)。
そして、北条時政を追放したことにより、北条義時が執権職を継ぎます(鎌倉幕府2代執権)。
北条義時への権力集中
北条義時は、畠山重忠・平賀朝雅の排除により空席となった武蔵国守護・国司について、信頼する弟の北条時房を就任させた上、源実朝と北条政子を表面に立てて、政所別当・大江広元、源頼朝の流人時代以来の近臣・安達景盛らと連携しつつ幕政の最高責任者の座に座ります。
なお、北条義時は、父・北条時政が性急な権力独占をして多くの反発を招いた反省から、柔軟な姿勢を示しながら北条執権体制の障害となる有力御家人の排除を進めていきます。
和田合戦(1213年2月)
北条時政を追放した頃から、北条義時の地位は執権と呼ばれるようになり、次第に独裁的政治を展開していきます。
そして、その後も有力御家人への攻撃は続きます。
次のターゲットは、鎌倉幕府創設以来の重鎮で初代侍所別当の地位にあった和田義盛です。
建暦3年(1213年)2月、北条義時を排除しようと企む信濃源氏・泉親衡の謀反が露見したのですが(泉親衡の乱)、その折に和田義盛の子息である和田義直、和田義重と甥の和田胤長が捕縛されます。
その後、和田義盛の2人の息子である和田義直、和田義重は配慮されて赦免されたのですが、和田義盛の甥である和田胤長は許されず流罪とされて領地が没収されました。
一族から謀反人が出たと噂され、和田一族の面目は丸つぶれです。
この北条義時の処分を不服とした和田一族が、和田義盛を担ぎ上げ、姻戚関係にあった横山党や和田一族の本家である三浦一族の三浦義村と結んで北条義時打倒の兵を挙げます(和田合戦)。
もっとも、途中で三浦義村が北条義時側に寝返り、和田義盛は、北条義時に敗れ敗死します。
北条義時は、和田義盛の死亡により、政所別当(政治)のみならず侍所別当(軍事)をも兼任することとなり、鎌倉幕府の主要ポストを独占します。
執権・北条義時が鎌倉幕府の事実上の最高権力者となった瞬間でもありました。
公家文化に傾倒
話は少し戻りますが、源実朝が征夷大将軍に就任した当初は執権を務める北条氏などによって行われていた鎌倉幕府の政治でしたが、成長するにつれ源実朝もまた政治への関心を深めていきます。
ところが、一旦鎌倉幕府内で権力を掌握した北条氏は、源実朝に政治の実権を戻すことはしませんでした。
そのため、源実朝は、鎌倉幕府の将軍とはいえお飾りに過ぎず、何らの権力も持たないことを痛感させられ、段々政治への関心を失って行きます。
そして、源実朝は、この政治への無関心を公家文化への憧れで埋めようとします。
公家の妻を迎える(1204年12月)
年頃になった源実朝について、正室を娶ることが検討されます。
征夷大将軍の正妻ですので、当初は有力御家人である足利義兼の娘が対象となったのですが、源実朝は武家の娘を認めずその相手を公家に求めます。
そして、元久元年(1204年)12月、京より公家・坊門信清の娘である坊門信子(後鳥羽上皇の従姉妹)を正室に迎えました。
和歌にハマる
公家の文化に興味を持った源実朝は、元久2年(1205年)ころから和歌を嗜み始めます。
源実朝は、将軍の力を駆使して、同年9月2日、京より後鳥羽上皇の命によって編纂された勅撰和歌集である新古今和歌集(このときはまだ未発表)の写本を取り寄せたりもしています。
そして、源実朝は、元久3年(1206年)頃から本格的に和歌の勉強を始め、新古今和歌集の撰者であった藤原定家に師事します。
そして、源実朝は、ここから次々と和歌を詠んでいます。
その後、源実朝は、自撰の和歌集である金槐和歌集を発表します。
金槐和歌集は、全一巻663首(貞亨本では719首)掲載されており、金槐和歌集の「金」とは鎌の偏を表し、「槐」は槐門(大臣の唐名)を表しているため、鎌倉殿兼右大臣の歌集を意味し、別名鎌倉右大臣家集とも言われます。
源実朝の歌は、強い実感を率直に表した「万葉調」のものが多く、藤原定家より贈られた『万葉集』がその基礎となっているため、金槐和歌集の成立は、藤原定家より相伝の『万葉集』を贈られた建暦3年(1213年)12月18日頃とする説が有力です。
官位の昇進
また、源実朝は、名目上は武士の頂点にいながら、実質上は何の権力もないという空虚さから、朝廷の官位に異常な執着を示すようになります。
そして、源実朝は、ここからあらゆる手段を講じて、もの凄いスピードで官位の階段を駆け上がっていきます。
源実朝は、元久2年(1205年)1月5日に正五位下に叙され、29日には加賀介を兼ね右近衛権中将に任じられる。
また、承元元年(1207年)1月5日従四位上に、承元2年(1208年)12月9日正四位下に、承元3年(1209年)4月10日従三位に叙せられています。
さらに、同年5月26日には右近衛中将に任ぜられます。
建暦元年(1211年)1月5日正三位に昇り、18日に美作権守を兼ね、建暦2年(1212年)12月10日従二位に昇ります。
建保4年(1216年) 6月20日には権中納言に任ぜられ、同年7月21日には左近衛中将を兼任します。
源氏の頭領とはいえこの源実朝の昇進のスピードは異常であり、源実朝の昇進には、朝廷権力を復権させるために源実朝を取り込もうとする後鳥羽上皇の目論見もあったといわれます。
この朝廷側の企みを危惧した大江広元が、北条義時と協議し、建保4年(1216年)9月20日、源実朝に対してしばらく昇進を見合わせることを諫言したのですが、源実朝は聞く耳を持たなかったそうです。
渡宋計画
鎌倉幕府内で無力感に苛まれていた源実朝は、そんな状態から逃れるため、建保4年(1216年)ころ、突然宋に渡るという突拍子もないことを言い出します。
きっかけは、源実朝が、建保4年(1216年)6月8日、東大寺大仏の再建を行った宋人の僧・陳和卿が鎌倉を訪れた際に、源実朝と面会し話をしたことでした。
源実朝は、陳和卿と話をして感化され、同年11月24日、前世の居所と信じる宋の医王山を拝す為に渡宋を思い立って陳和卿に唐船の建造を命じます。
この源実朝の命令を耳にした北条義時と大江広元は驚き、すぐに源実朝を諌めたのですが、源実朝はまたもこの諫言に耳を貸しませんでした。
その後、唐船が完成し、建保5年(1217年)4月17日、由比ヶ浜から海に向って曳かせたのですが、船は浮かばずそのまま砂浜に朽ち損じ、源実朝の計画は失敗に終わります。
源実朝暗殺
公暁の鶴岡八幡宮別当就任(1217年6月)
源実朝は、兄・源頼家の死により、建永元年(1206年) 10月20日にその次男である善哉(後の公暁)を猶子に迎えていました。
善哉は、建暦元年(1211年)9月15日に12歳で鶴岡八幡宮寺別当定暁の下で出家して頼暁という戒名を受けた後,上洛の途に着きます。
その後、頼暁(善哉)は、近江国の園城寺に入って公胤の門弟となり、また、貞暁(じょうぎょう,源頼朝の三男)の受法の弟子となり、この2人の名から一字ずつもらって戒名を「公暁」に改めます。なお、公暁の読み方については、「くぎょう」とするのが一般的だったのですが、師匠の名が公胤(こういん)というため、現在では「こうぎょう」だったのではないかとする説が有力です。
こうして園城寺で修行することとなった公暁でしたが、18歳となった建保5年(1217年)6月20日、北条政子の命により鎌倉に戻り鶴岡八幡宮の別当に就きます。
源実朝右大臣就任(1218年12月2日)
源実朝は、建保6年(1218年)1月13日、権大納言に任ぜられたのですが、これでもまだ満足しません。
源実朝は、さらに同年2月10日、左大将の任官を求め使者を京に遣わします。なお、この左大将は、かつて源頼朝が補任された右大将を超える地位です。
同年2月、北条政子が、病がちな源実朝の平癒を願うという名目で熊野を参詣し、その後京に上って後鳥羽上皇の乳母の卿局(藤原兼子)と対面し、源実朝の後継として後鳥羽上皇の皇子を東下させる案を相談しています。
また、源実朝は、同年3月16日には左近衛大将と左馬寮御監を兼ね、同年10月9日内大臣に、12月2日右大臣に任じられています。
この右大臣任官は、武士として初の快挙であり、同年12月21日、後鳥羽上皇から源実朝宛に装束や車などが贈られます。
こうして、源実朝の右大臣拝賀のための記念式典が鶴岡八幡宮で行われることとなったのですが、このタイミングで鎌倉幕府の実質上のトップに上り詰めた北条義時は、形式上のトップである源実朝の排除を決断します。
源実朝暗殺事件(1219年1月27日)
そして、事件は、承久元年(1219年)正月27日の鶴岡八幡宮で記念式典で起こります。
この日行われた源実朝の右大臣拝賀のための記念式典は、源実朝の参加はもちろんですが、その脇で北条義時が太刀持ちをする予定でした。
ところが、当日、北条義時が急に体調不良を訴えて館に戻ることとなり、急遽太刀持ちが北条義時から源仲章に交代します。
そして、同日夜、八幡宮での拝賀式が終わり、雪が降り積もる中で石段を下りる一行に、法師の姿に変装した源頼家の子・公暁が大銀杏の陰から乱入し、源実朝を押し倒して「親の敵はかく討つぞ」と叫びその首をとります。源実朝享年28(満26歳没)でした。
この源実朝暗殺事件については、北条義時陰謀説や、鎌倉御家人共謀説、後鳥羽上皇黒幕説などその原因について色々な説があるのですが、直前までお供するはずだった北条義時が直前にドタキャンしていること、公暁がたった1人で1000人とも言われる護衛を突破して源実朝の下へたどり着いたとは考え難いこと、この事件により最も利益を得たのが北条義時であることなどから、北条義時陰謀説が有力と言えます。
なお、公暁は、源実朝暗殺の前に隠れていたとされる大銀杏は近年まで残っていたのですが、平成22年(2010年)3月10日に台風で倒壊してしまいました。
そこで、元々の場所は穴を埋めて根から新しい芽が出るように整備し、倒れた大銀杏は幹を切断して別の場所に移植されています。もっとも、大銀杏に公暁が隠れていたというのは江戸時代に作られた話で、眉唾ものの話だそうですが。
源実朝暗殺の後
公暁は、討ち取った源実朝の首を首は持ち去り、食事の間も手放さなかったといわれています。なお、その後、亡骸は勝長寿院に葬られたが首は見つからず、代わりに記念に与えた髪を入棺したとも(吾妻鏡)、首は岡山の雪の中から見つかったとも言われています(愚管抄)。
宿願を果たした公暁は、乳母夫である三浦義村に自身の保護を頼んだのですが、逆に三浦義村に討ち取られ、その首は北条義時に届けられました(その後、公暁の首がどうなったかはわかっていません。)。