【目次(タップ可)】
西上作戦に至る経緯
武田信玄が遠江国・三河国を狙う
信濃国全域・西上野・駿河国を獲得し、飛騨国・東美濃にまで影響力を及ぼすに至った武田信玄は、次の攻略先として徳川家康が治める三河国・遠江国と、その先の織田領に定めます。
駿河国侵攻作戦で散々に煮え湯を飲まされた徳川家康に対する恨みを晴らすためでもあります。
そして、この武田信玄の動きに室町幕府15代将軍・足利義昭が便乗します。
足利義昭は、武田信玄動くの報を聞き、元亀2年(1571年)ころから全国の大名に対して織田信長討伐令を出し、周辺の大名が織田信長包囲網(第二次信長包囲網)を形成しました。
戦国最強と言われた武田信玄の動きと将軍・足利義昭の御内書は、松永久秀・浅井長政・朝倉義景・上杉謙信・石山本願寺などを活気づけ、逆に多くの敵に囲まれた織田信長とその同盟相手である徳川家康にとっては一大事となります。
武田・北条の和睦(1571年10月)
元亀2 年(1571年)10月3日、甲相駿三国同盟の破綻後長らく武田信玄と対立してきた北条家当主北条氏康が死去します。
武田信玄は、この北条氏康の死をきっかけとして家督相続後の混乱を鎮めようとする北条家と和睦します(甲相同盟の復活)。
北条氏政と同盟をしたことにより東側の脅威を排除した武田信玄は、元亀3年(1572年)10月、いよいよ織田信長・徳川家康と対決すべく、自ら軍を率いて、遠江国・三河国方面に向かって出陣させます。いわゆる西上作戦の開始です。
なお、このときの武田信玄の狙いが、上洛であったのか、織田信長の居城・岐阜城であったのか、はたまた徳川家康の首であったのかは必ずしも明らかではありません。
武田信玄の西上作戦開始(三方同時作戦)
甲斐国、信濃国・駿河国から三河国・遠江国・美濃国に向かうためには、大きく分けると①伊那盆地から西に向かい東美濃に入るルート、②伊那盆地から西に進んだ後に南下して北側から三河国に入るルート、③伊那盆地から南下して北側から遠江国に入るルート、④駿河国から西進するルートなどが考えられます。
このとき武田信玄は、前記ルートのうち、伊那盆地から西に向かい東美濃に入るルート(①)、伊那盆地から西に進んだ後に南下して北側から三河国に入るルート(②)、伊那盆地から南下して北側から遠江国に入るルート(③)の3つのルートからの同時侵攻作戦を選択します。
具体的な侵攻は以下のとおりです。
秋山虎繁隊の進軍(西美濃侵攻軍)
甲斐国・躑躅ヶ崎館を出陣した武田軍は、途中諏訪郡・上原城を経由した後、信濃国・高遠城を越えたところで、まず秋山虎繁・山県昌景に8000人の兵を預けて南西方向へ向かわせます。
その後、この軍が2手に分かれ、秋山虎繁率いる3000人が織田領となっていた東美濃(東濃)侵攻し、日本三大山城の1つでもあり、女城主・おつやの方(岩村御前)で有名な岩村城を包囲し、元亀3年(1572年)11月初旬に攻略します。これが東美濃(東濃)侵攻軍です。なお、秋山虎繁は、岩村城攻略後、織田方の牽制のため同城に留まります。
山県昌景隊の進軍(奥三河侵攻軍)
次に、秋山虎繁隊を分離した山県昌景は、5000人の兵を率いてそのまま南下して奥三河に侵攻し、徳川氏の支城である武節城を攻略した上で、そのまま奥三河の豪族を取り込みつつ南進を続けます。
そして、その勢いで、東三河の重要支城である長篠城を攻略します。
さらに、その後遠江国の伊平城も攻略し、二俣城に向かいます。
武田信玄本隊の進軍(遠江侵攻軍)
他方、武田信玄率いる本隊2万2000人は、信濃国・高遠城から、真っ直ぐ南下して遠江に侵攻します。
武田信玄の本隊の侵攻が始まると、犬居城主・天野景貫が武田信玄に内応して同城を明け渡し、武田侵攻軍の先導役を務めます。
ここで、武田信玄は、馬場信春に別働隊5000人を預けて只来城を攻撃させ、元亀3年(1572年)10月13日にこれを攻略します。
只来城陥落を見届けた武田信玄は、本隊を南東側に回り込ませます。
以上の結果、西側から山県昌景隊5000人が、北側から馬場信春隊5000人が、南東側から武田信玄本隊1万7000人が二俣城に向かって進軍していくこととなりました。
一言坂の戦い・二俣城の戦い
二俣城の重要性
前記位置関係を見ていただければわかりますが、二俣城は、徳川家康の居城である浜松城の北側に位置し、また信濃国伊那郡からの出入口にもあたります。
さらに、浜松城とそのその支城である掛川城や高天神城にも繋がる交通の要所(扇の要)であり、遠江支配の要の城でもあったため、徳川家康からすると絶対に失うわけにはいかない城でした。
このような重要拠点である二俣城に、武田軍が三方から合計2万7000人もの大軍で向かってきていることを聞いた徳川家康は対応に追われます。
ところが、このとき居城・浜松城はもちろん、残りの支城群の防衛にも兵を割かねばならなかった徳川家康は、二俣城の後詰として8000人余しか動員できませんでした。
また、頼りにしていた織田信長も信長包囲網に参加している近畿の各勢力との戦いの最中であったために、織田信長から多数の援軍は期待出来ない状況でした。
兵数の劣る徳川家康は、何とか兵をかき集め、後詰のために二俣城へ向かいます。
一言坂の戦い(1572年10月14日)
他方、二俣城に取り付いた武田軍は、北側を武田勝頼、南側に索敵も兼ねて回り込ませた馬場信春を展開させ、西側は遅れてくる山県昌景隊を待ち、その間に武田信玄本隊が東側の支城を順次攻略していく作戦をとりました。
実際、武田信玄本隊は、二俣城の東側にある天方城・一宮城・飯田城・格和城・向笠城などをわずか1日で攻略していきます。
浜松城から二俣城へ向かう徳川家康は、元亀3年(1572年)10月14日、徳川家康自身も3000人の軍勢を率いて出陣し、まずは武田軍の動向を探るため本多忠勝・内藤信成を偵察のために先行させるという行為にでます。
ところが、ここで、三箇川付近において徳川方の先行偵察隊が武田軍の先発隊であった武田軍の馬場信春隊に遭遇します。
徳川偵察隊はすぐに退却を試みるも、馬場信春隊は素早い動きで徳川軍を追撃します。
徳川斥候隊を追って徳川家康本隊の下にたどり着いた馬場信春は,徳川軍に攻撃を仕掛けたところ、本多忠勝と大久保忠佐が徳川本隊と内藤信成を逃すために殿を務め、なんとか徳川家康率いる本隊が天竜川を越えて撤退するための時間を稼ぎ、徳川方の大敗で一言坂の戦いは終了します。
その後、武田信玄本隊が、元亀3年(1572年)10月15日に匂坂城を攻略し、二俣城包囲戦に参加すべく同城に向かいます。
二俣城の戦い
そして、元亀3年(1572年)10月16日、徳川偵察隊を撃退した二俣城包囲軍に、東側の支城を撃破しながら回り込んできた武田信玄本隊が合流します。
武田信玄は、絶体絶命となった二俣城に降伏勧告をしますが、拒否されたため、同年10月18日から、二俣城攻撃が始まります。
その後、同年11月初旬に遅れて到着した山県昌景隊も攻撃に加わります。
包囲された二俣城は、武田軍の筏流し作戦によって水の手を絶たれたこともあって、同年12月19日に陥落します(二俣城の戦い)。
なお、一言坂の戦いで大敗北を喫した徳川家康は、浜松城から二俣城まで僅か20kmしか離れていないにもかかわらず二俣城に後詰めを送ることをせず、またこれといった対処を取ることができなかったため、ここで徳川家康の求心力は失墜しています。
三方ヶ原の戦い
武田信玄の進軍ルート
二俣城を陥落させ同城に入ったことにより武田軍の面前に遠州平野が開け浜松城への進軍ルートが出来上がります。
そのため、浜松城にいる徳川家康は、当然武田信玄がそのまま浜松城に攻めて来ると考え、織田信長の後詰め期待しつつ、浜松城での籠城戦を選択したのです。
ところが、武田信玄は、徳川家康の予想に反して、二俣城に入った3日後の元亀3年(1572年)12月22日、二俣城を出発すると、南にある徳川家康の居城・浜松城を無視して遠州平野内を西進していきました。
この報告を聞いた武士としての徳川家康はプライドを傷つけられ激怒します。自分が武田信玄に相手にされていないと感じたからです。
頭に血がのぼった徳川家康は、一部家臣の反対を押し切って、浜松城での籠城策を取りやめ、三方ヶ原から祝田の坂を下るであろう武田軍を背後から襲う攻撃策(上図のとおり西方向に進む武田軍を東方向から追撃する作戦。)に変更し、同年12月22日、浜松城から織田方からの援軍を含む計1万1000人を率いて浜松城から出撃します。
このときに徳川家康が籠城戦を取りやめて出陣した理由について、通説では、武田信玄に相手にされず素通りされたことに武士としてのプライドを傷つけられて怒ったためとされていますが、正確なことはわかりません。
二俣城防衛戦で後詰めを送らなかったことにより失墜した求心力を取り戻しこれ以上武田信玄の調略による離反者が出るのを防ぐためであったという説も有力です。
同盟する信長への義理立てであったという説もあります。
いずれの要素も含んでいたというのが真実なのかもしれませんが、今となっては真実はわかりません。
徳川家康による追撃戦のはすが
浜松城を出た徳川・織田連合軍は、西に向かって進軍する武田軍を背後から突いてこれを包囲殲滅するべく、鶴翼の陣を敷きながら、同日3時頃夕刻に三方ヶ原台地に進軍しますが、そこで思っても見ない光景を目にします。
西に向かって行軍し、山道である祝田の坂を降りている途中であると思っていた武田軍が、その手前で反転し、三方ヶ原台地にて魚鱗の陣を敷いて徳川軍を待ち構えていたのです。なお、武田信玄が魚鱗の陣を敷いていたのは、徳川家康のいる本体(中央)への攻撃を厚くし、徳川家康の首を取るためでした。
武田軍が準備万全の態勢で待ち構えていたことを知った徳川は驚愕します。
まんまと武田信玄の罠にはまった徳川・織田連合軍ですが、そんな状況下で、最初に武田軍を発見し焦った徳川方左翼の大久保忠世らが、徳川家康の命令を待たずに勝手に戦を始めてしまいます。
その結果、徳川軍は、正確な状況把握や対応の検討を行う前に、武田方から猛攻撃を受けることとなりました。奇襲をかけるつもりが、逆に奇襲を受けてしまったのです。
高地に陣取っていた武田軍による上から勢いに乗って駆け下りてくる総攻撃をまともに受けた徳川軍は混乱し、間もなく戦線が崩壊します。
魚鱗の陣で攻める武田軍の中央の攻撃は分厚く、元々寡兵であるにも関わらず鶴翼の陣で兵を左右に散らしてしまっている徳川軍では武田軍の猛攻を支えきれません。
徳川家康の大惨敗と壊走
この状況を、留守居役を命じられていたために浜松城の櫓に登って遠望していた夏目広次が、徳川軍が武田軍に押されて敗戦の危機にある徳川家康を救援のために馬に乗って直ちに三方ヶ原に駆け付け、浜松城に戻って体制を立て直すよう進言します。
ところが、頭に血が上っていた徳川家康は、この進言を聞き入れず、そればかりか武田軍に突撃をして討ち死にすると言い出しました。
興奮している徳川家康を説得することは困難であると判断した夏目広次は、徳川家康を逃すために強引に徳川家康の乗馬の向きを浜松城方向に向けた上で刀のむねでその尻を打ち、浜松城に向かって走らせます。
その上で、夏目広次は、徳川家康の退却時間を稼ぐためにその身代わりとなり、十文字槍を持って25~26騎を率いて武田軍に突撃していきます。
そして、武田兵2人を突き殺す奮戦を見せたのですが、多勢に無勢ということもあり、そのまま武田軍に取り囲まれて討死にします(寛政重修諸家譜)。
また、この後、徳川家康が逃げるさらなる時間稼ぎのために本多忠真(本多忠勝の叔父)が殿を買って出て道の左右に旗指物を指して待ち構え、向かってくる武田軍と戦って討死にしています。
こうして、徳川家康は命からがら浜松城までの退却を成功させたものの、この三方ヶ原の戦いは、徳川有力家臣の死や2000人とも言われる死傷者という損害を与え、また友軍であった織田信長の家臣・平手汎秀も討ち取られるという徳川家康の大惨敗に終わります。
なお、敗走中の家康が恐怖のあまり脱糞したとの逸話が残っていますが、その真偽は明らかではありません(有名な話ですが、出典である三河後風土記では一言坂の戦いの際の逸話とされ、またそもそもこの三河後風土記が作者不明の信憑性に疑問のあるものです。)。
いずれにせよ、徳川家康は、失った求心力を取り戻すためにあえて挑んだ戦いで、さらにその威信を失墜させてしまったのです。
そのせいもあって、徳川家康より先に浜松城に戻った小栗忠蔵が、何を思ったか徳川家康が討死しと触れ回ったり、勝手に戦いを始めて全軍を危機に晒したはずの大久保忠世はそれを詫びるどころか、帰城した徳川家康に対し、「殿が糞を垂れて戻ってきたぞ」と大声で嘲ったりと、徳川方は、もはや家臣コントロールが困難な状況にまで混乱します。
榊原康政の西島布陣
三方ヶ原の戦いで織田徳川連合軍を蹴散らした武田軍は、その勢いのまま敗走する徳川家康を追撃し、浜松城に向かって進んでいきます。
敗れた徳川軍の兵が次々と浜松城に入って行ったのですが、全ての敗残兵が浜松城に入っても浜松城は守れません。
そこで、同じく三方ヶ原から敗走していた榊原康政が、浜松城に入ることなく500人の兵を率いて浜松城の東南側にあった西島に5陣を敷き、武田軍を牽制します。
これは,武田軍が浜松城に攻撃した場合、その背後をつくための布陣でした。
城外に遊軍の布陣があるため、武田軍としても挟撃の危険をおしてまで軽々に浜松城に攻め込むことはできません。
決戦に勝利した武田軍が急ぐ必要もありません。
そこで、武田軍としては、勝利のために戦った兵馬を休ませるため、犀ヶ崖付近に陣を張り、朝を待つことにします。
犀ヶ崖の戦い
ところが、後がなくなった徳川軍は、崖下に武田軍を追い落とそうと考えて、崖に白い布を張って橋が架かっているように見せかけた上で、夜になるのを待ち、反対側から鉄砲を打ち込むと共に西島に布陣していた榊原康政隊が犀ヶ崖に奇襲を仕掛けたのです(犀が崖の夜襲)。
三方ヶ原合戦に勝利して勝利の美酒を堪能していた武田軍は,寡兵とはいえ予期しない突然の奇襲を受けて混乱します。
敵地である上、積雪によって道がわからなくなっていた武田軍は、徳川軍が橋に見立てて張っていた布を橋と勘違いし、張られた布の上に乗ろうとして次々と崖下へ転落するという大損害を出してしまいます。
掛川城からの援軍
その後,徳川家康大敗の報を聞いた掛川城主・石川家成が、2000人の兵を率いて後詰に到着し、西島に布陣した榊原康政隊に合流します。
こうなると、浜松城を攻めるためには、守りを固めた浜松城とは別に2500人もの大部隊の遊軍を相手にしなければならないこととなり、挟撃を恐れた武田軍は安易に浜松城を攻撃出来なくなり浜松城を前にして戦線が膠着します。
三方ヶ原の戦い勝利の勢いのまま浜松城を攻略してしまおうと考えていた武田信玄でしたが、戦線膠着により浜松城の短期攻略が困難であると判断し、兵站と兵の疲労回復目的で一旦浜松城の包囲を解いて浜名湖北岸にある刑部城に入ることとします。
正確なところはわかりませんが、武田信玄の健康上の問題もあったのかもしれません。
三河国侵攻と西上作戦の終了
野田城の戦い
刑部城で越年した武田軍は、元亀4年(1573年)1月10日に同城を発つこととしたのですが、浜松城に向かうことはせず、浜名湖北側を西進し、宇利峠を越えて奥三河へ向かって進軍していきます。
このときまでに奥三河・作手の奥平家は調略済であり、また長篠城は既に山県昌景により攻略されていましたので、狙いは菅沼定盈が守る野田城(東三河の要衝であった吉田城の北東約15km、長篠城からは南西10kmに位置しています。)でした。
そして、年が明けるのを待ち、元亀4年(1573年)1月、武田軍は再度進軍を開始して東三河に侵入し菅沼定盈率いる400人が守る野田城を包囲します。
ここで、武田信玄は、野田城主・菅沼定盈に対して降伏勧告を行ったのですが拒否されたため、金堀衆に城の地下に通じる井戸を破壊させて水の手を断ち同年2月10日に野田城を陥落させます(野田城の戦い)。
西上作戦の終了(1573年4月)
勢いに乗る武田軍でしたが、この頃から総大将である武田信玄の体調が急激に悪化し、度々喀血が見られるようになり、進軍に耐えられなくなっていきます。
そこで、やむなく西上作戦を一時中断し、最寄りの長篠城に入って療養を開始します。
ところが、この後も武田信玄の体調は改善しなかったため、元亀4年(1573年)4月上旬の一門衆・重臣・近習の合議の結果、西上作戦を中止して甲斐国に撤退することが決まります。
武田信玄の死(1573年4月12日)
甲斐国に向かう武田信玄でしたが、本拠地までその体力は続かず、元亀4年(1573年)4月12日、途中の信濃国駒場(長野県下伊那郡阿智村)近辺で死去します。享年53歳でした。