増田長盛(ましたながもり)は、北近江長浜に入った木下秀吉(後の豊臣秀吉)に見出され、槍働で出世した後、兵站・外交などの内政分野でその能力を発揮した戦国大名です。
豊臣秀吉の最晩年には、政権中枢を支える五奉行の1人にも選ばれ、100万石を超える豊臣蔵入地の一括管理を担うほどの大きな力を持っていました。
もっとも、関ヶ原の戦いの際には、石田三成方に与しながら、徳川家康方に密告書を送るなどしてどっちつかずの態度を示した後、戦後に改易処分を受けて大和国郡山20万石を失う失態を犯しています。
その後、出家して蟄居生活を送っていたのですが、大坂夏の陣が始まると、敗北するのを知りつつ大坂城に入城し、戦後にその責任を問われて自刃して果てるという壮絶な最期を迎えました。
本稿では、意外と知られていない波瀾万丈の人生を送った増田長盛の生涯について簡単に説明したいと思います。
【目次(タップ可)】
増田長盛の出自
出生(1545年)
増田長盛は、天文14年(1545年)、尾張国中島郡増田村(現在の愛知県稲沢市増田町)、または近江国浅井郡益田郷(現在の滋賀県長浜市益田町)で生まれました。
弟として増田長俊がいたことはわかっているのですが、両親が誰であるのかはわかっていません。
明らかとなっていない青年時代
また、増田長盛は、通称として仁右衛門尉(後に右衛門尉)を名乗っていたことはわかっているのですが、元服時期・妻・豊臣秀吉(このときは、木下秀吉と名乗っていましたが、本稿では便宜上「豊臣秀吉」の表記で統一します。)に仕えるまでの経歴などの若い頃の詳細な事情は明らかとなっていません。
豊臣秀吉に仕える
200石で豊臣秀吉に仕える(1573年)
天正元年(1573年)秋、豊臣秀吉が、浅井家攻略の武功により浅井家旧領である湖北3郡(坂田郡・浅井郡・伊香郡)12万石と小谷城を与えられて北近江に入ります。
もっとも、それまで小規模部隊を率いる一武官にすぎなかった豊臣秀吉に領地経営のノウハウがあるはずがなく、家中に領地経営実務をこなせる家臣もほとんどいませんでした。
そこで、豊臣秀吉は、初めて与えられた領地を経営するため、近江国長浜に移って同地で大規模な人材登用を行います。
このとき、豊臣秀吉は、増田長盛にも目を付け、200石で増田長盛を登用しました(登用理由が武官目的であったのか文官目的であったのかは不明)。
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なお、豊臣秀吉に登用された増田長盛は、現在の長浜市永保町に屋敷を構えたとされ、現在、その跡地とされる場所には「増田長盛屋敷跡」の碑が建てられています。
槍働きについて
何にでも使える便利な物として木綿に例えられた豊臣秀吉(木綿藤吉)は、織田家の躍進を支える武将として織田信長に使い倒されました。
その結果、豊臣秀吉の家臣である増田長盛もまた、豊臣秀吉に付き従って無理難題をこなしていくことを義務付けられます。
この頃の増田長盛の役割は、槍働きがメインであったと考えられ、その後も豊臣秀吉麾下で中国攻めをはじめとする多くの戦に従軍していることから、一定の個人的武力は有していたものと考えられます。
他方で、数々の戦に参加しながらも目立った戦功の記録が残されていないことから、増田長盛の指揮能力はそれほど高いものではなかったと推測されます。
鳥取城攻め(1581年)
その後、増田長盛は、兵站などの後方支援でその本領を発揮します。
中国方面司令官に任じられた豊臣秀吉は、天正9年(1581年)に2万人もの大軍で鳥取城攻め(第2次鳥取城の戦い)を行ったのですが、この際、増田長盛が陣中萬の物商奉行に任じられ、2万人分の兵站全般の手配を成功させ、鳥取城陥落に大きな貢献をします。
この結果、増田長盛の優秀な文官としての才能が見出されることとなりました。
上杉景勝との交渉を担当(1582年)
その後、天正10年(1582年)に本能寺の変によって織田信長が横死すると、豊臣秀吉は、中国方面侵攻を取りやめ、畿内に戻って明智光秀と対決するする道を選びます。
このとき、豊臣秀吉は、全国各地の大名達に様々な使者を派遣したのですが、大大名である上杉景勝の下に増田長盛を派遣し、上杉家との外交交渉を担当させています。
2万石に加増(1585年5月)
その後、明智光秀・柴田勝家を破り、また丹羽長秀・池田恒興らを指揮下に置くことに成功した豊臣秀吉は、織田家からの独立と織田家の排除を志向します。
そして、豊臣秀吉は、天正12年(1584年)、織田信雄・徳川家康連合軍と対峙することとなりました。
増田長盛もまた、豊臣秀吉軍の将として、同年3月に始まった両陣営の戦い(小牧・長久手の戦い)に従軍し、先陣を務めて武功を挙げます。
また、増田長盛は、天正13年(1585年)3月に始まった紀州征伐にも従軍し、そこでも武功を挙げています。
これらの武功を評価された増田長盛は、同年5月、2万石への加増と従五位下・右衛門尉の叙任を受けています。
長宗我部盛親の烏帽子親となる
大名となった増田長盛は、その後も豊臣秀吉による天下統一戦に従軍します。
増田長盛は、天正13年(1585年)6月に始まった四国征伐にも従軍し、戦後、豊臣家に降伏した長宗我部家との取次を務めました。
なお、このときの縁により、増田長盛は、天正16年(1588年)、長宗我部家の世子に指名された長宗我部盛親の烏帽子親となって自身の「盛」の一字を与えています。
検地を進める
兵站や外交交渉という内政面での能力を評価された増田長盛は、天正15年(1587年)、関戸の奉行に任命されます。
また、天正18年(1590年)に始まった小田原征伐に際しては、増田長盛は里見義康の申次を担当して安房国で差出検地と知行宛行状発給を行っています。
さらに、小田原征伐に成功して北条家が滅亡すると、増田長盛は、そのまま北条家の旧領であった下野国・常陸国・安房国の大名に対する豊臣政権の取次を担いました。
近江国・水口岡山城主となる(1590年)
小田原征伐後に徳川家康が関東移封となり、当時近江国・水口岡山城主であった中村一氏がその旧領の一部である駿府に移封されることとなりました。
この点、徳川家康の関東移封頃になると、日本国内で豊臣家に対抗する勢力がほぼなくなっていましたので、豊臣家の外様大名を遠くに、親藩・譜代大名を近くに配置することで、豊臣政権の盤石化を図るという政策がとられた結果、天正18年(1590年)、増田長盛が、城主不在となった水口岡山城(現在の滋賀県甲賀市水口町水口)の城主に任命されて同城に入ります。
そして、増田長盛は、水口岡山城に入った翌年の天正19年(1591年)閏正月、水口岡山城を拠点として長束正家と共に近江国の検地を実施しています。
文禄の役(1592年)
その後、文禄元年(1592年)から文禄の役が始まると、増田長盛は、石田三成・大谷吉継らと共に朝鮮に渡って漢城に駐留し、軍監・奉行として占領地統治や兵站に従事します(漢城近辺で発生した碧蹄館の戦い・幸州山城の戦いでは参戦もしています。)。
秀次事件の処理(1595年)
文禄2年8月3日(1593年)に豊臣秀頼が誕生したことにより、文禄4年(1595年)、豊臣秀吉が、豊臣政権の後継者であった豊臣秀次が粛清される事件が起こります(秀次事件)。
このとき、豊臣秀吉は、豊臣秀次に連座させるか否かを決するために秀次家臣団の糾問を行ったのですが、主に増田長盛と長束正家がこの任を務めました。
大和郡山20万石を領する(1595年6月)
文禄4年(1595年)4月16日、豊臣秀長の後を継いだ豊臣秀保が没し、大和大納言家が断絶します。
そのため、同年6月、増田長盛は、領主不在となった大和大納言家の旧領のうちから20万石を与えられて大和郡山城に入ります(同年、常陸国に3000石を加増)。

大和郡山は、東国から大軍で大坂城に攻め寄せてくる敵(仮想敵は徳川家康)は、逢坂関を越えた後で軍を北側と南側に分け、北軍は淀川沿いを、南軍は奈良盆地を南下して王子・道明寺を越えてくることが想定されるため、この分かれた南軍を迎え打つために大和郡山城が重要な場所であり、信用できない者に任すことはできない重要な場所であり、この地を増田長盛に託したことから豊臣秀吉の増田長盛の信頼の高さがうかがえます。

大和郡山城に入った増田長盛は、外廻り惣堀の普請を行い、筒井順慶の郡山入部から始まった足掛け20年に及ぶ城造りを完成させました。
そして、慶長元年(1596年)には紀伊国・和泉国・大和国に存した100万石以上相当の豊臣家蔵入地の代官を兼ねることとなりました。
また、同年にサン=フェリペ号事件が発生すると、その積荷没収処理のために長宗我部家の縁者として土佐に派遣されています。
さらに、慶長2年(1597年)、再び安房国を訪れて総検地を実施しています。
五奉行の1人として豊臣政権の中枢を担う
五奉行就任(1598年頃)
その後、死期が迫りつつあった豊臣秀吉は、自らの死後に豊臣秀頼政権を維持させようと考え、豊臣秀頼を補佐する五大老と、政治実務を遂行する五奉行という政治制度を構築し、権力を分散させて互いに牽制させることによって豊臣秀頼が成人するまで時間を稼ごうと考えました。
その結果、豊臣秀吉の死の直前である慶長3年(1598年)7月頃、五大老と五奉行が選任されました。
そして、豊臣政権における行政担当者の中で高級官僚とされた以下の5名が五奉行と呼ばれるようになり、兵站・検地・外交などの能力を高く評価された増田長盛もその1人に選ばれます。
①司法担当 浅野長政(甲斐甲府22万石)
②宗教担当 前田玄以(丹波亀山5万石)
③行政担当 石田三成(近江佐和山19万石)
④土木担当 増田長盛(大和郡山22万石)
⑤財政担当 長束正家(近江水口5万石)
なお、当時は「奉行」・「年寄」などと呼ばれており、「五奉行」という呼称は存在していませんでした。
また、5名という数も定まった数ではなく、五奉行に数えられる者の他にも佐々行政・寺西正勝・毛利吉成・堀田一継・石田正澄・片桐貞隆・石川光元・山中長俊・木下延重なども同様の役割を果たしていました。
作戦行動予定
増田長盛が五奉行に就任した頃は、2回目の征明作戦となる慶長の役の真っ最中であり、増田長盛もまた慶長4年(1599年)に予定されていた大規模作戦の際に朝鮮に渡る予定とされました。
もっとも、慶長3年(1598年)8月に豊臣秀吉が没したために慶長の役が中止されることとなり、増田長盛の渡海も中止となりました。
関ヶ原の戦いで対応を誤り失脚
石田三成と徳川家康との対立
豊臣秀吉の死により慶長の役が中止となったため、朝鮮半島に渡っていた諸将が日本に戻ってきたのですが、その後に、慶長の役における働きと、それに対する評価をめぐって武断派大名と文治派大名との間で大きな確執が発生します。
この豊臣政権下における大名間の確執を見た徳川家康は、豊臣大名の分裂工作が可能と判断し、この対立を煽ると共に武断派大名達を自らの影響下に置くための行動を始めました。
この結果、文治派大名を取りまとめた石田三成方と、武断派大名を取り込んだ徳川家康方との対立に発展しました。
この対立に際し、増田長盛は、石田三成方に与して徳川家康と対立する立場をとりました。
徳川家康討伐の軍議
前田家を屈服させ、さらに上杉家に目を向ける徳川家康に対し、慶長5年(1600年)5月7日、増田長盛・堀尾吉晴・生駒親正・中村一氏・前田玄以・長束正家らが共同して会津討伐中止を申し入れたのですが(古今消息集・毛利家乗)、徳川家康はこれを無視します。
そこで、同年6月2日、反徳川家康を掲げる諸将が密かに大坂城に集められて軍議が開かれます(伊佐早文書)。
この状況下において、同年6月10日、上杉家が徳川軍を迎撃する意思を表明したため(越後文書宝翰集)、同年6月16日、徳川家康は会津に向かうために大坂城から出陣しました。
大坂城を出た徳川家康は、ゆっくりと東進し、同年7月1日に江戸城に到着します(慶長年中卜斎記)。
他方、慶長5年(1600年)7月、石田三成が、居城である佐和山城(現在の滋賀県彦根市)を訪れた大谷吉継に対し、反徳川家康の挙兵をするつもりであるため協力してほしいとお願いをします(落穂集)。
挙兵の話を聞いた大谷吉継は、勝ち目がないとして石田三成に対して思いとどまるよう忠告をしたのですが、石田三成が意思を変えることはありませんでした。
石田三成の決意が固いと知った大谷吉継は、自らも石田三成の意向に従うこととし、以降、石田三成と協議の上で徳川家康と対峙するための作戦立案を進めていきました。
徳川家康方へ密告(1600年7月12日)
石田三成方に与していた増田長盛でしたが、理由は不明ですが、同年7月12日、石田三成と大谷吉継の謀議の事実(大谷吉継が病と称して美濃国垂井に2日滞在して石田三成と謀議に及んだと記載し、その後も折々知らせると記載しています)を徳川家康配下の永井直勝宛に書状をしたためて送付し、この事実を徳川方に密告しています(慶長年中卜斎記)。
そうかと思えば、同日、増田長盛は、毛利輝元に上洛を求めています。
これらの増田長盛の矛盾する行動については、相反する2つの理由が考えられます。
1つは、増田長盛が徳川家康のスパイとして石田三成の側にあり、味方のふりをして得た情報を徳川家康に流していたとする説です。
他方、もう1つの説は、増田長盛が石田三成と共謀の上で、徳川家康をおびき寄せるためにあえて情報を流したとする説です。
矛盾する考え方であり、現時点ではこのときの増田長盛にどのような意図があったかは不明です。
内府違いの条々を発送(1600年7月17日)
慶長5年(1600年)7月17日、毛利秀元が、徳川家康が出陣して不在となった徳川家康の大坂の拠点である大坂城西の丸を占拠します。
そこで、同日、増田長盛を含む五奉行の連名にて、豊臣秀吉の命に背いた徳川家康の罪名を書き連ねることで断罪し、その討伐を求める檄文である「内府(家康)違いの条々」を全国の諸大名に送付します(筑紫古文書)。
毛利輝元の下に参じる(1600年7月19日)
その後、慶長5年(1600年)7月19日に毛利輝元が大坂城西の丸に入ります(義演准后日記)。
こうして、毛利輝元が石田三成方の総大将に祀り上げられることとなったのですが、増田長盛はこの毛利輝元の下にはせ参じました。
その結果、石田三成が、徳川家康が会津征伐のために上方を出発した隙をつく形で五大老の毛利輝元・宇喜多秀家らを擁立して挙兵しました。
これら一連の増田長盛の行動は、短期間の間に、徳川家康に密書を送った一方で、徳川家康を非難する書状を全国の大名に送付し、また石田三成方総大将となる毛利輝元の下に参じているというものであり、どちらに味方しているのか全くわかりません。
なお、会津に向かっていた徳川家康の下には、ちょうどこの頃に石田三成挙兵の知らせが届いてます(松井家文書)。
伏見城の戦い(1600年7月19日~)
そして、慶長5年(1600年)7月19日、挙兵した石田三成方の兵が、徳川方の鳥居元忠が籠る伏見城を取り囲んで攻撃を開始することで両陣営の戦いが始まります(伏見城の戦い)。
この戦いについては、増田長盛は、重臣である石川民部を陣代・福西源次郎及び大岡佐左衛門が軍奉行として派遣し、積極的に攻撃軍に加わっています。
なお、この戦いにおいて、増田長盛軍の福原清左衛門が、城内に籠る甲賀衆に寝返りを促したことにより、伏見城落城に寄与する武功を挙げています(甲賀郡志)。
大津城の戦い(1600年9月7日~)
また、増田長盛は、慶長5年(1600年)9月7日に始まった大津城の戦いについても、嫡男(次男)である増田盛次と一門衆である増田作左衛門を陣代として派遣し、積極的に城攻めに参加しています。
この戦いにおいて、増田軍は、湖水方面から城壁を越えて大津城に侵入して攻撃を加えています。
さらに、増田家家臣である中村金六が、浅見藤右衛門と組み打ちし功名を挙げるなどしています。
関ヶ原の戦い(1600年9月15日)
家臣団を石田三成方として派遣していた増田長盛でしたが、自らは一連の戦いに参戦していませんでした。
慶長5年(1600年)9月15日に勃発した関ヶ原の戦い本戦の際も、大坂城守備部隊として毛利輝元と共に城守備部隊として3000人の兵を率いて大坂城西の丸に駐屯するにとどまりました。
自ら作戦行動をとったわけではないですが、石田三成方としての一連の増田長盛の行動は、徳川家康にとっては敵対行動となります。
そこで、増田長盛は、同年9月25日、出家して徳川家康に謝罪して許しを乞いました。
なお、余談ですが、増田長盛は、100万石以上の豊臣家蔵入地を一括管理していたのですから、ここからもたらされる莫大な金銭を石田三成方の戦力として割り当てれば石田三成方に相当有利に働いたと思われ、これをしなかったことが敗因の1つになっています。
増田家改易(1600年9月27日)
もっとも、増田長盛の敵対行動を許せなかった徳川家康は、慶長5年(1600年)9月27日、大坂城西の丸において、増田長盛に対して改易処分を申し伝えました。なお、増田長盛は、このとき所領没収のほかに金1900枚と銀5000枚を差し出すことで命だけは助けられたとされています。
処分を受けた増田長盛は、郡山城を明け渡して高野山に追放されました。
その後、高野山を出ることを許された増田長盛は、岩槻城主・高力清長預かりとなって武蔵岩槻での蟄居生活が始まります。
増田長盛の最期
改易後の増田家
他方、増田長盛の嫡男・増田盛次と、庶兄・増田長勝は、叔父・増田長俊の養子となることで連座を免れます。
そして、増田家改易後、増田盛次は徳川家康、次いでその子である尾張藩主・徳川義直に仕えました(そのため、増田家家督は末弟・新兵衛が相続しています)。
大坂冬の陣(1614年)
慶長19年(1614年)、岩槻蟄居中に大坂冬の陣が始まったため、増田長盛は、徳川方から間諜となるように説得されたのですが、これを断ります。
また、増田盛次は、徳川方として参戦し、戦功をあげます。
もっとも、増田盛次は、豊臣家への郷愁から豊臣方が局地戦に勝利したと聞くと笑い、徳川方が勝利したと聞くと苦い顔をしたと言われ、この話を戦後に耳にした徳川家康は、流石増田の子と言って称賛したと言われています。
大坂夏の陣(1615年)
そして、翌慶長20年(1615年)、大坂夏の陣が勃発し、やがて大坂城落城の危機を迎えます。
このタイミングで増田長盛と増田盛次は、徳川義直の了解を得て尾張徳川家から出奔し、大坂城に入城して討死することに決めます。
その後、増田盛次は、実際にその後の戦いで討死してしまいます。
増田長盛自害(1615年5月27日)
大坂城が落城して豊臣家滅亡した後、生き残った増田長盛は、豊臣家に与した責任を問われて自害を命じられます。
そこで、増田長盛は、元和元年(1615年)5月27日、自害して果てました。享年は、71歳でした。
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