北政所(きたのまんどころ)は、天下人となった豊臣秀吉の正室です。
諱はねね・おね・ねいなど諸説あり、従一位を授かった際の位記では豊臣吉子とされ、また落飾後に朝廷から高台院の院号を賜っているためその呼称も様々なのですが、本稿ではもっとも知られている通称である北政所の表記で統一します(歴史上、北政所と呼ばれた女性は多いのですが、現在では豊臣秀吉の正室を指す固有名詞とされる程の知名度を誇ります。)。
養子の教育・朝廷との折衝・人質の管理など、豊臣政権下で代えのきかない重要な役割を担った有能な女性であったこともあり、姫好きで知られる豊臣秀吉が、数々の高貴な身分の女性を妻に迎えたにもかかわらず、正室の座を下級武士の娘に過ぎない北政所から変更することはありませんでした。
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出自
出生(1549年?)
北政所は、天文18年(1549年)、織田弾正忠家家臣(弓衆)であった杉原定利(別名は木下定利)・朝日殿の次女として尾張国朝日村(現在の愛知県清須市)で産まれたとされています。なお、生年については天文11年(1542年)説、天文17年(1548年)も存在しており、必ずしも明らかではありません。
兄弟姉妹としては、木下家定(兄)、長慶院(姉・くま)、長生院(妹・やや)がいます。
諱
北政所の諱には諸説あり、一般的には「ねね」とされることが多いのですが、本人や豊臣秀吉の署名に「おね」「祢(ね)」「寧(ねい)」という表記がなされたため、「おね」と呼ばれることもあります。
また、木下家譜(甥にあたる木下利房の備中国足守藩の文書)やその他の文書で「寧」・「寧子」・「子為」と記されていることから「ねい」とする説もあります。
実際のところは不明なのですが、本稿ではその議論は紹介だけにとどめます。
木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)との結婚
木下藤吉郎との大恋愛
通説によると、14歳となった北政所は、織田信長の家臣であった木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)と恋に落ち、当時としては珍しい恋愛結婚を希望したとされています。
ところが、この時点ではまだ苗字すら有していなかった木下藤吉郎の身分の低さから周囲に反対され、特に、実母である朝日殿からは身分の差を理由に大反対がなされました。
浅野長勝の養女となる
もっとも、北政所は結婚することを譲らず、叔母である「ふく」の嫁ぎ先であった織田弾正忠家家臣であった尾張国海東郡津島(現在の愛知県津島市)の浅野家(浅野長勝・七曲殿)に養女として入って杉原家(木下家)を出ます。
なお、浅野長勝は、この当時、織田弾正忠家の足軽組頭として同じ地位にあった木下藤吉郎と同じ長屋で共同生活していた人物です。
木下藤吉郎と結婚(1561年8月)
この北政所の決意を見た兄である木下家定が、自らも木下藤吉郎に養子縁組すると諭したことにより周囲を説得し、 永禄4年( 1561年)8月、北政所と木下藤吉郎との結婚が成立するに至りました。
なお、夫である木下藤吉郎の名は、北政所と結果したことによりその実家である木下家の苗字を名乗ったことに始まります(もっとも、北政所の実母である朝日殿は、北政所と木下藤吉郎との結婚を生涯認めることはありませんでした(平姓藤原氏御系図附言))。
多くの養子を育てる
大恋愛の上で婚姻に至った北政所と木下藤吉郎は、織田家臣の1家として屋敷を与えられて生活を始めたのですが、2人の間に子供は産まれませんでした。
この当時の子というのは、家を継いだり、分家させて譜代衆としたり、婚姻政策の駒としたりすることに使われ、その家の存続に極めて重要な存在と考えられていました。
それにも関わらず、北政所と木下藤吉郎の間に子ができなかったため、北政所は、自身や木下藤吉郎の縁者を積極的に養子として引き取り(小早川秀秋・加藤清正・福島正則など)、木下家を支える一門衆・家臣団となるべく養育していきました。
この北政所の養子養育は愛に溢れたものであったようであり、養子たちからは母のように慕われていました。
また、子が出来ないことによるお家断絶を危惧した木下藤吉郎・北政所は、主君・織田信長の四男であった秀勝を養子として貰い受けることによる織田家中でのお家存続を目指しました。
当主代行として
岐阜に移り住む
織田信長が永禄10年(1567年)に美濃攻めを成功させてその本拠地が岐阜に移転すると、木下藤吉郎と北政所もまた同地に移り住みました。
その後、足利義昭を奉じて上洛を果たした織田信長が全国統一戦を開始すると、木下藤吉郎がその指揮下の将として各地を転戦することとなり、岐阜に残った北政所は夫と離れての生活を強いられるようになりました。
北近江入り(1574年)
天正2年(1574年)、木下藤吉郎が浅井家討伐の戦功から北近江3郡12万石を与えられて北近江(小谷城→今浜城・長浜城)に入ると、北政所もまた、木下藤吉郎の生母・なかを連れて同地に転居します。
そして、この頃の武家のしきたりでは主婦権を持つ正室が家政をとり行うことが一般的であったため、北政所もまた大きななっていく木下家の家政をとりしきっていきました。
事実上の城主代行
北近江3郡を与えられた木下藤吉郎は、天正3年(1575年)7月に羽柴秀吉に改名します。
そして、この後、全国統一事業を進める織田信長は、羽柴秀吉を全国各地の戦に遠征させ続けたため、羽柴秀吉は、城主として長浜城に在城することは多くありませんでした。
ところが、新興勢力である羽柴家には当主に代わって城代を務めることができる家老などもいなかったため、家長の妻である北政所がその代わりをすることとなりました。
なお、長浜に北政所を残して織田信長の全国統一戦を戦う羽柴秀吉が、各地で浮気に励んでいたことを気に病んだ北政所に対し、織田信長が非常に丁寧な文章でこれを励まし夫婦関係を円満に継続させようと試みる旨の書状を送っていることでも有名です。
大坂城入り(1583年)
天正10年(1582年)6月に本能寺の変が勃発すると、長浜城を任されていた北政所は、明智方に与して攻め寄せてきた阿閉貞征から流れるために大吉寺に避難するなどしています。
その後、明智光秀を討伐して頭角を表した羽柴秀吉が、天正11年(1583年)に柴田勝家を滅ぼして天下人の階段を登り始めて大坂城の築城を行うと、北政所もまた夫と共に大坂城に入ります。
豊臣政権の中枢として活躍
高い政治力を持つ
大坂城に入った北政所は、羽柴家の代表者として朝廷との交渉を引き受けるなど、家中で大きな力を持っていきます。
この点については、イエズス会宣教師であるルイス・フロイスが、北政所を「王妃」または「女王」と呼び、異教徒であるものの大変な人格者であり彼女に頼めば解決できないことはないと記していたほどでした(日本史)。
また、天下統一事業を進めた羽柴秀吉は、自身に下った諸大名に人質となる妻子の差し出しを要求したのですが、北政所が集められた人質を監督する役割を担いました。
なお、豪気な性格だったらしく、羽柴秀吉と2人きりのときはお互いに尾張弁で会話し、諸大名の前で尾張訛りの口喧嘩をしたこともあるそうです。
北政所と呼ばれる(1585年)
天正13年(1585年)、夫である羽柴秀吉が関白に任官したことに伴って北政所もまた従三位に叙せられました(なお、秀吉は、天正14年/1586年9月9日に正親町天皇から豊臣氏を賜わっています。)。
この点、平安時代以降、親王及び三位以上の公卿には家政機関となる「政所」の設置が許されており、北政所はこのときの従三位叙任により自身政所設置資格を獲得します。
また、北の方角が陰陽における陰を表すため邸宅内での奥向きの空間とされ、これが転じて貴人の正室を「北」の方と呼んでいました。
そこで、これらの「北」と「政所」とをあわせることにより、以降、通称として「北政所」と呼ばれるようになりました。
従一位に叙せられる(1588年)
北政所は、天正16年/1588年4月14日の後陽成天皇の聚楽第行幸を成功させた功により従一位に叙せられました(なお、このときの位記には、豊臣秀吉の一字をとって豊臣吉子と記されています。)。
家中の統括者として
北政所は、その後も豊臣政権下において豊臣家中を統括すること立場にありました。
このことは、天正18年(1590年)の小田原征伐の際に、豊臣秀吉が出した書状の数が、北政所(及びその女房)に5通・淀殿に1通・鶴松に1通・大政所に1通・吉川広家に1通とされていることからも明らかです。
また、天正20年(1592年)には約1万石(平野荘2370石・天王寺3980石・喜連村1405石・中川村約491石など)が与えられ、大名級の所領を領有するに至っています。
さらに、文禄2年(1593年)から始まった文禄・慶長の役では、前線への補給物資輸送の円滑化目的で、京・名護屋間は豊臣秀次の、大坂・名護屋間は北政所の黒印状を必要とする体制が構築されています。
豊臣秀吉を弔う
豊臣秀吉死去(1598年8月18日)
慶長3年(1598年)8月18日、夫である豊臣秀吉が、京の方広寺の東方の阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬した上で神として祀るようにとの遺言を残して死去します。
豊臣秀吉の死後、正室であった北政所と側室筆頭となっていた淀殿との間で豊臣家の行末についての協議がなされ、北政所は京において仏事を、淀殿は大坂で豊臣秀頼の後見を行うという役割分担のより豊臣家の存続を図ることが決められました(かつては北政所と淀殿との対立説が有力でしたが、現在では役割分担にすぎなかったと考えるのが有力です。)。
京・東山が豊臣系宗教域となる
豊臣秀吉の死亡後まもなく、阿弥陀ヶ峰の麓に北野社に倣った八棟造りの廟所の建築が始まります(義演准后日記・慶長3年9月7日条)。
また、豊臣秀吉の遺命に従い、豊臣秀吉の遺体は火葬されることなく伏見城内にしばらく安置された後、慶長4年(1599年)4月13日、高野山の木食応其による廟所建立を待って方広寺大仏の東方に位置する阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬され(義演准后日記・戸田左門覚書)、豊国廟とされました。
そして、方広寺から豊国廟に向かう途中の阿弥陀ヶ峰中腹部に豊臣秀吉を神として祀る神社が創建されることとなり、慶長4年(1599年)4月16日に朝廷から豊国乃大明神(とよくにのだいみょうじん)の神号が与えられて神となった豊臣秀吉を祀る神社として30万坪(100万㎡)もの規模を誇る豊国社が創建されました。
この結果、現在の京都市東山区域が、豊臣秀吉を祀った豊国廟を最東端として、その参道に豊国社・祥雲禅寺・方広寺などが配され、さらにはその西側に西本願寺が存するという豊臣系の大寺院が集まる地となりました。
そして、これらの仏事・神事を北政所が取り仕切ることとなったのです。
家臣団の分裂
他方で、北政所は、淀殿と連携して豊臣秀頼の後見にも尽力しつた豊臣家中をまとめようとしていたのですが、次第に北政所が手塩にかけて育ててきた武将(養子)たちが、武断派と文治派に分かれて争うようになっていきました。
そして、この争いは、慶長4年(1599年)閏3月、石田三成が武断派大名に襲撃される事件(七将襲撃事件)という形で具現化します。
なお、この対立は、徳川家康の仲裁によって収められたのですが、中立と見られていた北政所が徳川家康による仲裁の正当性の根拠となったため、この頃に北政所と徳川家康との接近があったと評価されています。
豊臣秀吉の遺体が眠る京に在住する
豊国家中の政争を嫌った北政所は、豊臣秀吉の遺体が眠る京に滞在することを望みます。
そこで、北政所は、慶長4年(1599年)9月、大坂城を退去して京都新城に移り住み(義演准后日記・言経卿記)、たびたび豊国社に参詣するなどして豊臣秀吉の供養に専心します。
もっとも、この頃は関ヶ原の戦いを前にした微妙な時期であり、慶長5年(1600年)8月29日、北政所と京都新城が決戦に利用されるのをおそれて南面御門・内堀・南城ノ堀・石垣などが破却されるなど北政所の立場もまた微妙なものとなっていました。
かつては関ヶ原の戦いでは淀殿との対立関係から徳川家康率いる東軍のために動いたとするのが通説だったのですが、淀殿と連携して大津城の戦いでの講和交渉や戦後処理に動いたことが確認されているなど、西軍・東軍のどちらに与していたかは明らかではありません。
実際、関ヶ原の戦い直後の同年9月17日、その身を案じて大坂から駆け付けた兄の木下家定の護衛の下で北政所が准后・勧修寺晴子の屋敷に駆け込むという事件も起こっています。
高台院の院号を賜る(1603年)
慶長8年(1603年)、北政所は、養母の死と、豊臣秀吉の遺言に従った豊臣秀頼と千姫の婚儀を見届けた後で落飾します。
このとき、後陽成天皇から高台院の院号を賜り、はじめ高台院快陽心尼、その後に高台院湖月心尼と称しました。
なお、北政所が領していた1万5672石余の領地は慶長9年(1604年)に徳川家康から養老料安堵されています(1万6346石余に加増)。
高台寺建立(1606年)
仏門に入った北政所は、豊国廟に眠る豊国秀吉の冥福を祈るため、慶長11年(1606年)に豊国社の北側約2kmの位置(応仁の乱で焼失していたかつての黄金八丈の阿弥陀如来像/大仏を安置する雲居寺の跡地)に高台寺を建立します。なお、このとき付された高台寺の寺号は、北政所の院号である「高台院」にちなんでいます。
北政所によって創建された高台寺には、豊臣秀吉と北政所の位牌を納める霊屋が設けられたのですが、この霊屋は豊臣秀吉の遺体が眠る阿弥陀ヶ峰の方向(南)を向くように建てられました。
なお、生前の北政所は、高台寺の門前に屋敷を構え、その南方には使用人の住居が配されました。
豊臣家滅亡(1615年5月)
豊臣家と徳川家との関係が悪化し、慶長19年(1614年)に大坂冬の陣が、慶長20年(1615年)に大坂夏の陣が勃発すると、豊臣家滅亡を至上命題とした江戸幕府は、北政所が豊臣家に与して諸大名を取り込んでしまうことを畏れ、北政所を大坂城に入れないようにするためにその甥である木下利房(関ヶ原の戦い後に改易)を護衛兼監視役として北政所に張り付けます。
これに対し、豊臣家の滅亡が近くなったと感じた北政所は、自身が育てた武将達に大坂城攻撃をやめさせるために大坂城に入ろうとして京から大坂に向かったのですが、木下利房により防がれてしまい、大坂城への入城は叶いませんでした。
その結果、同年5月8日、大坂城が落城し、豊臣秀吉とともに築いた豊臣家が滅亡するに至りました。
なお、北政所の大坂城入城を阻止した功により、木下利房は備中国足守藩主に任命されています。
最期
木下利次を養子とする
豊臣秀頼が死去したことにより豊臣家(羽柴家)が断絶することを憂いた北政所は、備中国足守藩主に返り咲いた木下利房の次男である木下利次を養子として貰い受け、「羽柴利次」と名乗らせてこれを養育します。
豊国社朽廃
慶長20年(1615年)に豊臣宗家を滅亡させた徳川家康は、京中から豊臣家の痕跡を徹底的に消し去るべく動き出します。
まず手始めとして、後水尾天皇の勅許を得て豊国大明神の神号を剥奪し、豊臣秀吉の遺体を阿弥陀ヶ嶽山頂の豊国廟にそのまま放置し、風化するに任せることとします。
次に、徳川家康は、豊臣秀吉を祀る豊国社の廃絶に動き、一旦は豊国社を物理的に破却するよう命じたのですが、神道家であり豊国廟の社僧でもあった神龍院梵舜(吉田兼見の弟)が、徳川家康のブレーンとなっていた金地院崇伝や板倉勝重ら幕閣に掛け合うなど豊国社維持の為に東奔西走します。
また、北政所が徳川家康に対して豊国社の取り壊しを止めるよう嘆願をしたため、まだまだ豊臣恩顧の大名に影響力を持っていた北政所の意向を無視できなかった徳川家康は、豊国社の物理的破却を諦め、豊国社社殿の修理を禁止して崩れ次第とする決定を下します。
この結果、修理が許されずに放置されるがままとなった豊国社は、時間の経過とともに朽ち果てていき遂には失われてしまいました。
豊臣家滅亡後の徳川家との関係
他方、豊臣秀吉の正室という微妙な立場ながら、北政所と徳川家との関係はそれほど悪い訳ではありませんでした。
とりわけ、北政所が、12歳の頃から豊臣家の人質になっていた徳川秀忠の身柄を預かり、これを我が子のようにかわいがっていたこともあり(誠にご実子の如く慈しみ給う「平姓杉原氏御系図附言纂」)、特に徳川秀忠との関係は良好でした。
実際、徳川秀忠は、北政所屋敷を訪問したり、北政所に二条城内で能興行をさせたりした記録が残っている上、度々贈り物のやり取りをしていたとされています(御湯殿上日記)。
このことから、北政所は、豊臣家滅亡後も生活に困窮することはありませんでした。
死去(1624年9月6日)
北政所は、寛永元年(1624年)9月6日、高台院屋敷にて死去しました。享年は、生年の争いに従って76歳説・77歳説・83歳説などがあります。
法名は、高台院湖月心公とされ、遺骨は高台寺霊屋の高台院木像の下に安置され、同寺が墓所とされました。
北政所死後の羽柴家
北政所の死去により、北政所が養子として迎えた羽柴利次が、北政所の遺領(化粧領・養老料)1万6923石を相続したのですが、近江国野洲郡・栗太郡と豊臣家の社稷以外は江戸幕府に没収され、苗字を「木下」に改めさせられた上でわずかに3000石の旗本として存続が許されるにとどまりました。
次に、実家であった木下家(豊臣秀吉により杉原家から苗字変更)は、足守藩・日出藩の大名として幕末まで家を残しました。