志賀の陣(しがのじん)は、元亀元年(1570年)9月から12月に亘って行われた、比叡山延暦寺に立てこもった浅井長政・朝倉義景を攻めきれなかった織田信長が屈辱的な内容での和睦を結ぶに至ったという戦いです。
第1次信長包囲網成立の切っ掛けとなった戦いでもあります。
また、この戦いに際して浅井・朝倉連合軍に味方したことを理由として、その後に比叡山延暦寺焼き討ちに繋がったという重要な意味を持つ一戦でもあります。
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志賀の陣に至る経緯
織田信長の畿内掌握(1568年)
足利義昭を奉じて上洛した織田信長は、畿内を掌握していた三好家の内紛に乗じて松永久秀を臣従させ、永禄11年(1568年)9月28日に三好三人衆を畿内から阿波国に追い払った後、同年10月に、足利義昭を室町幕府第15代将軍に就任させます。
この結果、室町幕府は再興され、征夷大将軍の後見人となって権威を高めた織田信長が、三好家の支配下にあった畿内勢力を次々に取り込んでいきます。
勢いに乗る織田信長は、足利義昭のもつ権威に便乗して永禄12年(1569年)1月9日に軍資金の支払いを拒んだ堺を攻撃したり、同年8月26日に北畠具教が治める伊勢に侵攻したりするなど、精力的に領土拡大政策を進めていきます。
この結果、織田信長は、尾張・美濃に加えて畿内一帯をも支配下に治める巨大勢力となっていきました。
他方、将軍となった足利義昭にとっても、織田信長は三好三人衆の脅威から自分の身を守るために欠かせない人物であったことから、織田信長と足利義昭はwinーwinの関係にありました。
周辺大名・国衆への上洛要請
畿内で勢力を拡大する織田信長は、さらに畿内周囲の大名・国衆勢力を傘下におさめるため、征夷大将軍・足利義昭の名を使って様々な大名・国衆に上洛を促していきます。
名目上は足利義昭に対する儀礼を求めるものなのですが、実質上は織田信長に対する臣従圧力です。
当然周辺大名・国衆は反発します。
ぽっと出の尾張の田舎侍に過ぎない織田信長の要請になど従えません。
特に、強大な経済力・軍事力をもって越前を治める朝倉義景の反発は強く、朝倉義景はこの上洛要請に対して完全無視を決め込みます。
浅井・朝倉連合軍との戦い
① 金ヶ崎の戦い(1570年4月25日)
上洛要請を無視された織田信長は、元亀元年(1570年)4月、朝倉討伐のために若狭国敦賀に向かって侵攻していきます(当初の名目は、朝倉家に事実上支配されていた若狭国を朝倉家から解放することでした。)。
これに対し、朝倉軍が若狭国に介入する動きを見せたため、織田軍(名目上は幕府軍)は、越前侵攻の大義名分を得ます。
そこで、織田信長は、若狭国から越前国への侵攻を開始します。
ところが、ここで織田信長に人生最大の危機が訪れます。
越前国に向かって侵攻している途中、北近江を治める義弟・浅井長政の裏切りにあったのです。
退路を断たれる形となった織田軍は、混乱し朝倉義景軍に大敗します。
織田信長は、池田勝正・明智光秀・豊臣秀吉を殿に残して、命からがら京都に撤退するという結果に追い込まれます(金ヶ崎の退き口)。
そして、命からがら京都にたどり着いた織田信長は、その後体勢を立て直すため、岐阜に戻って体制を立て直すために宇佐山城に森可成、永原城に佐久間信盛、長光寺城に柴田勝家、安土城に中川重政を配置して守りを固め、煮え湯を飲まされた浅井長政・朝倉義景に対する反撃準備を開始します。
② 野洲河原の戦い(1570年6月4日)
このとき、金ヶ崎の戦いで織田信長敗北の報を聞いた六角義賢・義治父子が、旧領回復目的で兵を挙げ、甲賀武士達と糾合し北進し南近江の奪還を試みます。
もっとも、元亀元年(1570年)6月4日、六角軍は織田方の柴田勝家、佐久間信盛と野洲河原で衝突・交戦の結果、三雲定持父子・高野瀬・水原・伊賀・甲賀衆780人が討ち取られるなどして、六角義賢・義治父子は退けられています。
③ 姉川の戦い(1570年6月28日)
六角軍を蹴散らした織田信長は、裏切者である浅井長政を討伐するために浅井家の居城である小谷城に向かって進軍していきます。
織田信長は、一旦は小谷城のすぐ南に位置する虎御前山に布陣して浅井軍を挑発して野戦に持ち込もうとしたのですが、浅井長政が乗ってこなかったため、虎御前山の陣を引き払い、横山城攻撃に向かいます。
ここで、浅井方にも朝倉軍が援軍としてやってきたため、浅井・朝倉軍もまた織田軍に攻撃を仕掛けるため横山城に向かって進軍していきました。
この結果、1570年(元亀元年)6月28日、浅井・朝倉連合軍と織田・徳川連合軍が、姉川を挟んで対峙し、姉川の戦いが始まります。
この戦では、織田・徳川連合軍が、浅井・朝倉軍を破り、織田信長が小谷城攻略のとっかかりを得ることになります。
もっとも、浅井・朝倉連合軍を破った織田・徳川連合軍は、敗走する浅井軍を追って小谷城まで追撃したのですが、姉川の戦いで少なくない損害を被っていた織田・徳川連合軍にも小谷城に籠ってしまった浅井軍を殲滅する力までは残っておらず、小谷城攻めをすることなく小谷城下に火を放っただけで本拠地岐阜に帰還することとなりました。
野田・福島の戦い(1570年8月26日)
織田信長が、姉川の戦いに向かって近江に兵を向かわせたため、元亀元年(1570年)6月、織田方の主力部隊が畿内からいなくなったのですが、これを好機と見た(小谷城攻めをすることなく引き上げた織田軍が浅井軍に敗北したと判断した可能性も示唆されています。)三好三人衆は、同年6月19日、摂津池田城主・池田勝正の重臣であった荒木村重をけしかけて池田城を奪取させ、同年7月21日、三好三人衆が摂津に再上陸、野田と福島に砦を築いて、これらを拠点に反織田の兵を挙げます。
この動きに、畿内の反織田勢力であった、三好康長・十河存保・細川昭元・斎藤龍興・長井道利などが次々と参加し、その勢力は8000人にまで膨れ上がります。
他方、このとき、これらに対抗できる可能性があった織田方は、信貴山城の松永久秀・古橋城の三好義継らわずかであり、反織田ののろしを上げた三好三人衆は、同年8月2日、まず三好義継率いる300人が守る古橋城を攻略、三好義継を追い払います。
姉川の戦いを終えて岐阜に戻った織田信長は、いそぎ軍備を整え、同年8月20日に岐阜城を出立し、同年8月22日の長光寺、同年8月23日の本能寺宿泊を経て、同年8月25日に枚方寺内に陣を構えた後、同年8月26日に天王寺に到着し本陣を置きます。
その後、織田軍は、周辺諸城を奪還した上で付城を築くなどして4万人の兵にて8000人が籠る野田城・福島城を取り囲みます。
そして、城の北側にある川をせき止めた上、北側に櫓を組んで、野田城・福島城に鉄砲を雨のように打ちかけます。
本願寺蜂起(1570年9月12日)
そして、いよいよ野田城・福島城の落城が間近に迫った元亀元年(1570年)9月12日、海老江に布陣していた織田信長と足利義昭の下に想定外の敵が襲いかかります。
石山本願寺法主顕如が三好三人衆に与して、多数の門徒が織田軍を攻撃し始めたのです(10年間に及ぶ石山合戦の始まりです。)。
本願寺勢が現れたことにより、織田軍は一気に窮地に立たされます。
本願寺勢が現れたことにより、織田軍はもはや野田城・福島城攻めどころではなくなったからです。
朝倉・浅井軍の南進(1570年9月16日)
ここで織田軍に更なる危機が襲います。
一向衆の対応に追われて織田信長が摂津国に釘付けとなっていることをチャンスと見た浅井長政・朝倉義景が、兵数が少なくなり手薄となった南近江への侵攻を開始したのです。
浅井長政・朝倉義景連合軍進軍の知らせを受けた宇佐山城主の森可成は、500人ないし1000人の兵を率いて出陣し、坂本口に布陣して街道を封鎖すると共に志賀や穴太に伏兵を配して浅井・朝倉連合軍を待ち受けます。
そして、元亀元年(1570年)9月16日、待ち伏せしていた森可成軍と、浅井・朝倉連合軍とが戦闘となり、このときは森可成が浅井・朝倉軍を撃退するという戦果を挙げます(信長公記によると、1000人の兵で3万人の軍勢を撃退したとされています。)。
この後、織田方である森可成軍に織田信長の弟である織田信治や近江国衆である青地茂綱などが率いる2000人の兵が救援として駆けつけ、総勢3000人の兵で坂本を守ることとなりました。
ところが、同年9月19日、顕如の要請を受けた坂本里坊や延暦寺僧兵が浅井・朝倉連合軍に加わったため、織田軍は、北側から浅井・朝倉連合軍、西側から比叡山僧兵という包囲攻撃を受け、森可成・織田信治・青地茂綱らが討ち取られる大惨敗を喫します。なお、この後、浅井・朝倉連合軍は、城主不在となった宇佐山城を攻撃するも、森家家臣であった各務元正・肥田直勝などが中心となって抗戦し、何とか落城は免れています。
織田軍の防衛線であった坂本口を突破した浅井・朝倉連合軍は、そのまま南進を続け、同年9月21日には醍醐を経て山科に到達し、織田信長不在の京に迫っていきます。
織田信長転進(1570年9月23日)
本願寺の蜂起により野田城・福島城の攻略が困難となり、また浅井・朝倉連合軍が京に迫っているとの報を聞いた織田信長は、三好三人衆を畿内から追い出すことよりも浅井・朝倉連合軍から京を守ることを優先します(この時点での織田軍の優位性は、京にいる将軍・足利義昭を取り込んでいたことにあったからです。)。
そこで、織田信長は、元亀元年(1570年)9月23日、柴田勝家と和田惟正を殿に残して野田城・福島城の包囲を解き、急ぎ京に向かって進軍しています。
この結果、野田城・福島城の戦いは織田信長の敗北に終わり、畿内に三好三人衆を残すこととなってしまいました。
そして、織田信長はその日のうちに京に入り、本能寺に宿泊しています。
志賀の陣
朝倉・浅井比叡山に(1570年9月23日)
他方、京に向かって進軍していた朝倉・浅井連合軍でしたが、織田信長が畿内での戦いを切り上げて京に戻ってくると聞き、織田信長の決断の速さに驚かされます。
このとき、浅井・朝倉連合軍は、京で織田軍と対峙するのは不利であると判断して京への進軍を取りやめ、元亀元年(1570年)9月23日、延暦寺の庇護をの下で織田軍に対峙するために比叡山に入ります。
織田信長としても、京の鬼門を守る延暦寺に対して手出しをすることは憚れたため、延暦寺が浅井・朝倉軍を匿ったことにより織田軍と浅井・朝倉連合軍との戦局が膠着してしまいます。
比叡山包囲戦(1570年9月24日)
困った織田信長は、元亀元年(1570年)9月24日、逢坂を越えて坂本まで軍を進めた上で、やむなく明智光秀・佐久間信盛らを主将として美濃・近江の国衆を動員して比叡山を包囲します。
その上で、織田信長は、比叡山延暦寺との交渉を開始します。具体的には、比叡山延暦寺に対して以下の3つのうち1つを選ぶよう求めたのです。
① 織田信長に味方する → かつて織田信長が接収した比叡山領を返還する。
② 中立の立場をとる → 朝倉・浅井軍を下山させる。
③ 朝倉・浅井に味方する → 比叡山を焼き討ちにする。
これに対し、比叡山延暦寺側は、かつて織田信長が比叡山領を横領したり、永禄12年(1569年)に天台座主応胤法親王が朝廷に働きかけにより朝廷が寺領回復を求める綸旨を下したにもかかわらず織田信長がこれに従わなかったりしたことで織田信長を恨んでいたこともあり、織田信長の申し出を無視します。
長期化する比叡山包囲戦
浅井・朝倉軍が比叡山延暦寺に篭ったことにより早期決戦を行うことができなくなったこと、比叡山延暦寺が織田信長の申出を無視したため交渉の余地もなくなったことなどから、織田軍が比叡山を包囲するだけでいたずらに時間が過ぎていきます。
比叡山の包囲を続けた織田信長ですが、大軍を動員して比叡山包囲につぎ込んでいますので、当然領内の守りはおろそかになっていきます。
特に畿内ではその動きが顕著であり、織田信長が退去した摂津では三好三人衆が失地回復活動をするなどし始めます(なお、三好三人衆は野田城・福島城から打って出て京都を窺うなどしたのですが、これは和田惟政が食い止めています。)。
また、六角義賢が近江の一向門徒と共に南近江で挙兵して美濃と京都の交通を遮断したほか(これに対しては木下秀吉・丹羽長秀軍や徳川家康軍が対応しています。)、伊勢長島では顕如の檄を受けた願証寺の門徒が一向一揆を起こしていくなど(同年11月21日には一向宗門徒の攻撃を受けた尾張小木江城において織田信長の弟である織田信興が討死しています。)、各地で反織田の動きが起こり始めます。
長引く不利を悟った織田信長は、同年10月20日、菅屋長頼を使者として比叡山延暦寺に派遣し、朝倉義景に決戦を促したものの黙殺されます。
第1次信長包囲網形成
比叡山延暦寺を囲んで動けない織田信長軍に対し、それまで織田信長と戦っていた勢力に加え、その周辺勢力までもが対織田戦線に参加してきます。
その結果、比叡山を取り囲む織田軍を、さらにその周辺勢力で取り囲むという図式が出来上がります(第1次信長包囲網、なお、この時点では、足利義昭は織田信長陣営です。)。
このときに反織田方となった主な勢力は、石山本願寺・長島一向一揆、雑賀衆、三好勢(三好三人衆・篠原長房・三好長治・十河存保・安宅信康)、六角義賢、荒木村重・池田知正、浅井長政、朝倉義景、比叡山延暦寺、筒井順慶などです。
個別講和交渉(1570年10月30日~)
苦しくなった織田信長は、敵対勢力を武力をもって打ち破ることを諦め、包囲網を形成する各勢力と個別に和睦交渉を進めていきます。
そして、織田信長は、元亀元年(1570年)10月30日に本願寺、同年11月に六角義賢、同年11月21日に三好勢とそれぞれ個別に和睦を成立させていきます。
浅井・朝倉と和睦(1570年12月13日)
もっとも、元亀元年(1570年)11月末になっても、比叡山延暦寺に籠る浅井・朝倉連合軍との対立に動きはありませんでした。
困った織田信長は、同年11月30日、朝廷と将軍・足利義昭に働きかけ、真偽は不明ですが、朝倉義景に対して「天下は朝倉殿に、我二度と天下を望まず」という起請文を差し入れることにより和睦の申し入れを行います。
これに対し、冬が近づき雪によって本国との連絡が断たれる可能性を危惧した朝倉義景が、同年12月13日、正親町天皇と足利義昭の仲介を受け入れる形で和睦申入れに同意したため、約3ヶ月間に及んだ志賀の陣は朝倉義景・浅井長政・比叡山延暦寺の勝利により終結します。
その結果、同年12月14日に織田軍は勢田まで撤退し、また浅井・朝倉連合軍もまた高島を通って帰国していきました。
志賀の陣の後
足利義昭の暗躍(1571年~)
以上の経過により三好三人衆の追放に失敗し、弟である織田信治や重臣である森可成・坂井政尚を失った織田信長は、志賀の陣をもって第1次信長包囲網により大敗北を喫することとなりました。
当然ですが、それまで勢力拡大を続けていた織田信長の権威にも疑問符が付いてきます。
これを好機と見たのが足利義昭でした。
足利義昭は、第1次信長包囲網を織田信長陣営として参加しながらも自らを神輿としてしか見ていない織田信長を対し内心苦々しく思っていたため、織田信長の勢いが衰えたと見るや、自らに対する織田信長の影響力を弱めるため、元亀2年(1571年)ころから、織田信長に敵対する力を持つ勢力に接近していき、浅井長政・朝倉義景・三好三人衆・石山本願寺・比叡山延暦寺・六角義賢・武田信玄などに御内書を乱発していくようになります。
その後、全国各地で反織田の兵が立て続けて挙兵したため、足利義昭もまたこれに便乗していくこととなり、今度は足利義昭が反織田方となる形で第2次信長包囲網が形成されていきます。
織田信長に抵抗勢力各個撃破作戦
他方、第1次信長包囲網により周囲を敵に囲まれて手を焼いた織田信長は、分散する敵対勢力を各個弱体化させる必要を感じ、各個撃破作戦を展開していきます。
まずは、長島一向一揆・畿内に戻ってきた三好三人衆・北近江の浅井長政・越前国の朝倉義景らに対する対応であり、その後は、戦略的重要地にありまた志賀の陣での敗因を作った比叡山延暦寺となっていくのですが、長くなりますのでこれらは別稿に委ねます。