【人取橋の戦い】伊達政宗が敗れ伊達家の洞支配が終わった二本松城をめぐる戦い

人取橋の戦い(ひととりばしのたたかい)は、天正13年11月17日(1586年1月6日)に、若き伊達政宗が、佐竹氏を始めとする南奥諸大名連合軍に大敗し、伊達氏の洞による南奥支配の終焉となった戦いです。

奥州の覇者・伊達政宗が死の一歩手前まで追い詰められた敗戦ですが、最終的には二本松城を獲得して勢力拡大のきっかけとなった戦いでもあります。

本稿では、伊達家による奥州支配体制を一変させた若き伊達政宗の大敗北について、その発生機序から順に見て行きたいと思います。 “【人取橋の戦い】伊達政宗が敗れ伊達家の洞支配が終わった二本松城をめぐる戦い” の続きを読む

【曾我兄弟の仇討ち】源頼朝暗殺未遂事件にまで発展した日本三大仇討ちの1つ

曾我兄弟の仇討ち事件をご存知ですか。

曾我兄弟の仇討ちは、建久4年(1193年)5月28日、源頼朝が行った富士の巻狩りの際に、曾我十郎祐成(そがすけなり)と曾我五郎時致(そがときむね)の兄弟が父親の仇である工藤祐経(くどうすけつね)を討ちとった事件です。

伊賀越えの仇討ち(寛永11年・1634年)・赤穂浪士の討ち入り(元禄15年・1703年)と並ぶ、日本三大仇討ちの一つに数えられている大事件です。

曾我兄弟の仇討ちは、後に武士社会において、仇討ちの模範とされて能・浄瑠璃・歌舞伎・浮世絵などの題材に取り上げられ、民衆の人気を得ています。 “【曾我兄弟の仇討ち】源頼朝暗殺未遂事件にまで発展した日本三大仇討ちの1つ” の続きを読む

【薄田兼相】大坂冬の陣の最中に遊郭に行き博労淵砦防衛戦に参加できなかった男

薄田兼相(すすきだかねすけ)をご存知ですか。

薄田兼相と言えば、何と言っても、大坂冬の陣において豊臣家家臣として大坂城の西に築かれた博労淵砦の守将として華々しく戦うはずだったのですが、性欲を押さえきれず肝心の決戦の日に遊郭で遊んでいて決戦に参加することすらできなかったという失態で有名です。

この失態によって橙武者と言う不名誉な称号を得てしまった人物ですが、江戸時代の講談や歌舞伎のモチーフとなり、絶大な人気を博することにもなった人物でもあります。

本稿では、そんな愛すべきポンコツ・薄田兼相について見ていきましょう。 “【薄田兼相】大坂冬の陣の最中に遊郭に行き博労淵砦防衛戦に参加できなかった男” の続きを読む

【阿野全成】源頼家暗殺未遂疑いで暗殺された源頼朝の異母弟

阿野全成(あのぜんじょう/ぜんせい)は、源頼朝の異母弟・源義経の同母兄であり、対平家の兵を挙げた源頼朝の下へ一番最初に駆けつけた兄弟であることから源頼朝の信頼を得て、北条政子の妹である阿波局を妻にもらった人物です。

唯一源頼朝の後まで生きた兄弟でもあります。

ただ、北条家に近くなり過ぎたために、源頼家暗殺を企てた疑いを持たれて源頼家に誅殺されるという悲しい最期を迎えた人物です。 “【阿野全成】源頼家暗殺未遂疑いで暗殺された源頼朝の異母弟” の続きを読む

【八田知家】常陸守護として鎌倉幕府を支え小田城を築城した常陸国小田氏の祖

八田知家(はったともいえ)は、石橋山の戦いに敗れて安房国に逃れてきた源頼朝の下に参じ、その後鎌倉幕府を創成期から支えた御家人の1人です。

源頼家の時代に設置された最高幹部による合議体である13人の合議制の構成メンバーでもあります。

常陸守護となり、小田城を築城し、後に常陸国の最大勢力ともなった小田氏の始祖でありますが、知名度はイマイチです。

本稿では、重要人物であるにもかかわらずマイナー扱いに甘んじている八田知家について見ていきたいと思います。 “【八田知家】常陸守護として鎌倉幕府を支え小田城を築城した常陸国小田氏の祖” の続きを読む

【竹中半兵衛重治】豊臣秀吉の前半生を支えた天才軍師

天才軍師として有名な竹中半兵衛。

まだ木下藤吉郎と名乗りゴロツキ集団の寄せ集めに過ぎなかった豊臣秀吉の下で参謀として活躍し、その天下取りの下支えとなる前半を支えた人物です。

同じく豊臣秀吉の天下取りの後半を支えた黒田官兵衛と共に両兵衛又は二兵衛と称されます。

軍功に関する逸話や美談の多くは後世の創作によるものと見られ、史実上の実像が不明瞭な人物でもある竹中半兵衛の生涯について見ていきましょう。 “【竹中半兵衛重治】豊臣秀吉の前半生を支えた天才軍師” の続きを読む

【源頼家】13人の合議制により権力を制限された後に北条氏に暗殺された第2代鎌倉殿

源頼家(みなもとのよりいえ)は、鎌倉幕府を開幕したカリスマ源頼朝の急死により18歳の若さで第2代鎌倉殿の地位を継いだ人物です。

その後、鎌倉幕府第2代征夷大将軍ともなっていますが、有力御家人13人からなる合議制によって将軍権力を制限され、死の寸前に至る大病を患い、御家人間の権力争いに巻き込まれて追放され、挙げ句の果てには祖父に暗殺されるという悲しい人生を送った人物でもあります。

本稿では、そんな悲劇の将軍・源頼家の人生について見ていきたいと思います。 “【源頼家】13人の合議制により権力を制限された後に北条氏に暗殺された第2代鎌倉殿” の続きを読む

【大江広元】貴族で文官という異質な鎌倉幕府初代政所別当

大江広元(おおえのひろもと)は、下級貴族でありながら鎌倉幕府政治に参画し、源頼朝の側近となって鎌倉幕府の創設に貢献した人物です。

無骨な東国武士とは異なり貴族文化に精通したため代わりがおらず、また終始北条氏に協力したために北条氏に粛清されることなく天寿を全うした人物でもあります。

本稿では、文官でありながら鎌倉幕府の幹部として活躍した大江広元の人生について見て行きたいと思います。 “【大江広元】貴族で文官という異質な鎌倉幕府初代政所別当” の続きを読む

【源実朝】甥の公暁に暗殺された鎌倉幕府最後の源氏将軍

源実朝(みなもとのさねとも)は、北条氏による専制政治の神輿として12歳の若さで鎌倉幕府第3代征夷大将軍に就任した人物です。

名目上は武士の頂点にいるはずなのですが、実質的にはお飾りであったため、武士としての立場を諦め、公家の文化に心酔していった人物でもあります。

その結果、歌人としても名高く、92首が勅撰和歌集に入集したり、小倉百人一首にも選ばれたり、自撰の和歌集である金槐和歌集まで発表しています。

政治に興味を失った源実朝でしたが、用済みになると北条家にけしかけられた甥で猶子でもあった公暁に暗殺されるという悲しい最期を迎えます。

本稿では、この源実朝暗殺事件について、その発生機序から順に解説していきます。 “【源実朝】甥の公暁に暗殺された鎌倉幕府最後の源氏将軍” の続きを読む

【北条時政】鎌倉幕府初代執権となった北条政子の父

北条時政(ほうじょうときまさ)は、源頼朝の妻・北条政子の父であり、流人に過ぎない源頼朝に味方して反平家の兵を挙げ、東国の一豪族に過ぎなかった北条氏を一代で鎌倉幕府の権力者に押し上げた人物です。

また、鎌倉幕府内で、御家人を粛清し続けて、果ては将軍まで手にかけたのですが、最終的には自分の息子(北条義時)と娘(北条政子)に追放されて政治生命を断たれるという悲しい最期を迎えています。

必ずしもいい評価を受けているとも言い難いのですが、本稿では、先見の明と大胆な行動力を持つ北条時政の波瀾万丈の人生について見て行きたいと思います。 “【北条時政】鎌倉幕府初代執権となった北条政子の父” の続きを読む