【徳川家康の関東移封】栄転か?左遷か?天下取りの礎となった本拠地移転

現在の日本の首都・東京の礎を築いたのは徳川家康です。

元々、三河国に生まれ人質時代を経て独立し織田信長に与して5カ国(三河国・遠江国・駿河国・甲斐国・信濃国)を治める大大名にまで上り詰めた徳川家康でしたが、豊臣秀吉の命令によりこれらが没収され、代わりに関八州を与えられて江戸に入ります。

その後、江戸周辺において数多の巨大工事を繰り返し、現在の大東京の基礎を築き上げていったのでした。

本稿では、そんな今日の大東京が出来上がるきっかけとなった徳川家康の関東移封について見ていきたいと思います。 “【徳川家康の関東移封】栄転か?左遷か?天下取りの礎となった本拠地移転” の続きを読む

【結城朝光(小山朝光)】梶原景時の変の契機となった源頼朝寵愛御家人

結城朝光(ゆうきともみつ)は、源頼朝が平家打倒の挙兵をした際に母が源頼朝の乳母であったという縁から父と共に挙兵に参加し、そのときに源頼朝を烏帽子親として一字を貰って元服した御家人です。

その後、源頼朝の寝所祗候衆の1人に選ばれたり、三男ながら分家して下総国結城郡の地頭職に任命されて結城家を興こしたりするなど、源頼朝の余りの寵愛を受けたことから、源頼朝の落胤説まである人物です。

弓の達人でもあり和歌にも造詣が深いなど文武両道の人物であったにもかかわらず、自ら率先して政治の表舞台に出る事は無かったことから鎌倉幕府内での粛清劇にさらされることなく北条家から厚遇され、穏やかにその生涯を終えています。 “【結城朝光(小山朝光)】梶原景時の変の契機となった源頼朝寵愛御家人” の続きを読む

【大阪の蔵屋敷一覧】天下の台所大坂堂島米市場の周囲にあった蔵屋敷跡を巡る(観光用)

天下の台所と称された江戸時代の大坂は、領内で年貢として徴収した米や特産品を集めて売りさばいて現金化するため、各藩の蔵屋敷が米市場のある堂島に近い大坂・中之島周辺に集中しました。そして、これらの蔵屋敷においては、市中に張り巡らされた水路と浪華八百八橋と言われた多くの橋をも利用した陸路を自在に利用して物資の出し入れが行われました。

これらの保管場所として設置された建物は、各藩の大坂屋敷としても機能していたのですが、年貢米を収納する米蔵が大きな場所を占めていたため、米「蔵」がある藩の「屋敷」として、蔵屋敷と呼ばれるようになり、経済の中心地である大坂を特徴づける建物群となっていました。

これらの蔵屋敷は、最盛期である19世紀初頭頃には、100を優に超える数があったとされているのですが、その後の近代化の流れによりその多くが埋没してしまっています(現在でも比較的詳細にわかっている蔵屋敷の構造は、公共施設の設置に際して調査が行われた場所に限定されています。)。 “【大阪の蔵屋敷一覧】天下の台所大坂堂島米市場の周囲にあった蔵屋敷跡を巡る(観光用)” の続きを読む

【承久の乱】後鳥羽上皇が北条義時に敗れ公武のパワーバランスが逆転した合戦

承久の乱(じょうきゅうのらん)は、承久3年(1221年)に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権であった北条義時討伐の兵を挙げたところ、北条義時個人ではなく鎌倉幕府を挙げての反抗が起こって後鳥羽上皇が敗れた戦いです。

朝廷が朝敵に敗れた初めての戦いであり、それによって朝廷が事実上武士の軍門に下り名目的存在に成り下がった戦いでもあります。

本稿では、朝廷・公家階級が無力化し、以降武士が国家の実効支配権(行政権、立法権、司法権)を奪取するに至った一大クーデターである承久の乱について、その発生に至る経緯から説明していきたいと思います。 “【承久の乱】後鳥羽上皇が北条義時に敗れ公武のパワーバランスが逆転した合戦” の続きを読む

【北条時房】北条義時の頼れる弟であり北条泰時の目の上のたんこぶであった鎌倉幕府初代連署

北条時房(ほうじょうときふさ)は、北条時政の三男として生まれ、鎌倉時代の初期に活躍した御家人です。

兄である北条義時と姉である北条政子を支えてその生前には初代六波羅探題となり、北条義時の死後には、その子である北条泰時と共に執権(その後は、鎌倉幕府初代連署)に就任して鎌倉幕府政治の中枢を担っています。

もっとも、実質上の鎌倉幕府のトップとなった若き甥・北条泰時と、ナンバー2となった長老の叔父・北条時房との関係は、ときには協力しつつもときには対立するという微妙な関係となったため、一部軋轢を生む原因ともなっていました。

本稿では、北条義時の頼れる弟であり、北条泰時の目の上のたんこぶでもあった北条時房の人生について見ていきたいと思います。 “【北条時房】北条義時の頼れる弟であり北条泰時の目の上のたんこぶであった鎌倉幕府初代連署” の続きを読む

【公暁】源実朝を暗殺した源頼家の次男

公暁(こうぎょう/こうきょう )は、第2代鎌倉殿の次男かつ嫡男として生まれ、順当に行けば第3代鎌倉殿として鎌倉幕府を統べるはずの立場にあったはずの人物です。

ところが、有力御家人間の政争に巻き込まれて若くして父・源頼家が謀殺されると、北条家の邪魔になったとして出家させられ、本来の仇であるはずの北条家ではなくその傀儡であった源実朝への恨みを募らせていきます。

そして、仇討ちの機会を得た公暁は、満を持して源実朝暗殺を実行したのですが、その責めを負って討ち取られ、20歳という若さでその生涯を終えています。 “【公暁】源実朝を暗殺した源頼家の次男” の続きを読む

【竹御所】第2代尼将軍と言われた源頼家の長女

竹御所(たけのごしょ)は、第2代鎌倉殿であった源頼家の長女です。

北条家による鎌倉幕府乗っ取り行為により、父・兄弟を次々と殺された悲しい女性です。

親族が失われていったため、祖母の北条政子に育てられ、その器量と血筋から、北条政子亡き後を継いで第2代尼将軍とまで言われた才女でもあります。

源氏の血統を絶やさないようにするために超高齢出産に挑み、最期は力尽きて激動の生涯を終えています。

本稿では、そんな波瀾万丈の人生を送った竹御所の生涯を見ていきたいと思います。 “【竹御所】第2代尼将軍と言われた源頼家の長女” の続きを読む

【源頼家の子供達の最期】北条家によって次々粛清された鎌倉殿の子

源頼家は、初代鎌倉殿であった父・源頼朝から地位の承継(鎌倉殿・征夷大将軍)を受け、若くして源氏の棟梁となります。

ところが、源頼家が鎌倉殿の地位を承継した後、有力御家人による権力争いが絡んですったもんだの大騒動が繰り広げられます。

その中で、源頼家自身とその子供たち(四男一女)が、御家人の思惑を受けて次々と粛清されていきます。

そして、鎌倉幕府の成立後50年を持たずして、源頼家の直系子孫(源頼朝の直系子孫も同じ)は断絶してしまいます。

本稿では、この源頼家の直系子孫断絶に至る経緯について説明していきたいと思います。 “【源頼家の子供達の最期】北条家によって次々粛清された鎌倉殿の子” の続きを読む

【徳川家康の人質時代】人質竹千代が清洲同盟を後ろ盾にして独立するまで

江戸幕府を創設した徳川家康は、その人生において数々の苦難に見舞われています。

三河一揆・三方原の戦い・神君伊賀越えなど数えればキリがありません。

その他にも3歳で生母と離され、6歳で人質に出され、挙句の果てに政争の駒としてたらい回しにされるなど、人生のスタートから悲惨です。

本稿では、そんな徳川家康(竹千代・松平元信・松平元康時代)の人生のスタートであった、人質時代について、そこに至る経緯から人質を脱して独立するに至るまでを紹介したいと思います。 “【徳川家康の人質時代】人質竹千代が清洲同盟を後ろ盾にして独立するまで” の続きを読む

【長州藩の4つの支藩】長州藩と仲が悪かった長府藩・徳山藩・清末藩・岩国領

毛利元就によって巨大化したものの、関ヶ原の戦いの責によって長門国・周防国に押し込められて立藩したのが毛利宗家が藩主を務める長州藩です。

明治維新の立役者となった藩として有名ですが、この長州藩には、3つ?4つ?の支藩(長府藩、清末藩、徳山藩、岩国領)があります。

本稿では、長州藩の支藩の概略について、立藩の経緯から順に見ていきたいと思います。 “【長州藩の4つの支藩】長州藩と仲が悪かった長府藩・徳山藩・清末藩・岩国領” の続きを読む