【大姫】父の源頼朝に許婚の木曾義高を殺された悲劇のプリンセス

大姫(おおひめ)は、初代鎌倉殿である源頼朝と、尼将軍と呼ばれる北条政子との間に生まれたプリンセスです。

プリンセスではあったのですが、その人生は悲劇でしかありませんでした。

6歳のときに和睦の証として木曾義仲から鎌倉に送られてきた木曾義高と婚約するも、夫となるはずの木曾義高が父・源頼朝に殺害されるというけど悲劇に見舞われます。

その後も、源頼朝から政略結婚の駒として扱われ、心の傷が癒えることなく僅か20歳で悲しい生涯を終えています。

本稿では、そんな悲劇のプリンセス、大姫の生涯について見ていきたいと思います。 “【大姫】父の源頼朝に許婚の木曾義高を殺された悲劇のプリンセス” の続きを読む

【千葉常胤】源頼朝に父と言われた鎌倉幕府創立の立役者

千葉常胤(ちばつねたね)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけて、下総国の有力在庁官人として、下総国・千葉荘を本拠地として勢力を誇った武将です。官途名は千葉介(ちばのすけ)です。

千葉家の家督相続後に、相馬御厨・橘庄を失い、一時は千葉荘のみを有するに至るまで落ちながら、源頼朝の挙兵を援け、鎌倉幕府有力御家人となって20か所以上の所領を有するまでに勢力を拡大させた千葉家中興の祖でもあります。

本稿では、安房国に逃れた源頼朝をいち早く援け、源頼朝から師父とまで評された千葉常胤の生涯について見ていきたいと思います。 “【千葉常胤】源頼朝に父と言われた鎌倉幕府創立の立役者” の続きを読む

【上総広常】源頼朝の窮地を救うも最初に粛清された房総平氏総領

上総広常(かずさひろつね)は、平安時代末期に房総半島一帯に大きな勢力を誇ったいわゆる房総平氏です。上総介広常(かずさのすけひろつね)とも言われます。

石橋山の戦いに敗れて安房国に流れ着いた源頼朝の下に2万騎とも言われる兵を引き連れて参陣し、その再起のきっかけを作った人物でもあります。

もっとも、鎌倉幕府御家人の中で突出した力を持っていたために、猜疑心の強い源頼朝に警戒され、ついには暗殺されるという悲しい最期を遂げています。

本稿では、そんな源頼朝再起のキーマンとなった上総広常の生涯について見ていきたいと思います。 “【上総広常】源頼朝の窮地を救うも最初に粛清された房総平氏総領” の続きを読む

【木曾義高(源義高・清水冠者)】悲劇的な死を遂げた大姫の許婚

木曾義高(きそよしたか)は、平家を都から追放し、一時は武家勢力の頂点に立つまでに至った木曾義仲の嫡男です。

もっとも、木曾義高の人生は悲惨であり、木曾義仲に源頼朝の機嫌取りのために鎌倉に人質に出され、木曾義仲がクーデターに失敗したことに連座して12歳の若さで暗殺害されるという悲しい最後を迎えています。

本稿では、そんな若きプリンス・木曾義高の人生について振り返ってみたいと思います。 “【木曾義高(源義高・清水冠者)】悲劇的な死を遂げた大姫の許婚” の続きを読む

【源平墨俣川の戦い】尾張・三河に進出した源行家が平家に大敗した合戦

墨俣川の戦いは、治承5年(1181年)4月ごろに現在の岐阜県羽島市小熊町と大垣市墨俣町の間を流れる長良川(当時は墨俣川と言っていました)近辺で起こった、源行家軍と平重衡軍との戦いです。

治承・寿永の乱の戦いの1つであり、富士川の戦いに敗れて勢いを失いつつあった平家が、源氏軍を打ち破り勢いを取り戻そうとするきっかけとなった戦いでもあります。 “【源平墨俣川の戦い】尾張・三河に進出した源行家が平家に大敗した合戦” の続きを読む

【源頼朝の墓】勘違いしがちな初代鎌倉殿の墓の場所(観光用)

源頼朝公の墓を観光された方は相当数おられると思うのですが、その大部分の方は場所を間違っておられます。

その原因は明らかです。

ネットで「源頼朝の墓」と検索すると誤った情報があふれ出てくるからです。

グーグルマップの記載も誤っています。

本稿では、この誤りを正し、観光に際してきちんと源頼朝の墓に参ることができるよう、本当の源頼朝の墓がどれなのかについて、その理由もあわせて説明したいと思います。 “【源頼朝の墓】勘違いしがちな初代鎌倉殿の墓の場所(観光用)” の続きを読む

【鎌倉幕府は3つある】大倉幕府・宇津宮辻子幕府・若宮大路幕府について

鎌倉幕府というと何を思い浮かべますか。

源頼朝が開いた武家政権としての国家機関を思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。

幕府というのが武家政権であると考えられるのは、後世の室町幕府・江戸幕府のことであり、鎌倉幕府とは単に鎌倉殿(鎌倉幕府将軍)本陣、そしてそこから派生して邸宅・政庁というを意味するにすぎません。

すなわち、鎌倉幕府とは、「鎌倉殿が生活する建物」を意味しているにすぎないのです。

そして、この鎌倉幕府(鎌倉殿の政庁)は、時代により3か所存在しています(仮御所を含めると4か所)。

そこで、本稿では、この鎌倉幕府の変遷について簡単に説明したいと思います。 “【鎌倉幕府は3つある】大倉幕府・宇津宮辻子幕府・若宮大路幕府について” の続きを読む

【北条宗時】源頼朝の挙兵を主導した北条時政の嫡男

北条宗時(ほうじょうむねとき)は、北条時政の嫡男であり、北条義時の兄でもあります。

伊豆に流された源頼朝に付き従い、その挙兵を主導した人物でもあります。

挙兵直後の石橋山の戦いに敗れて逃亡中に討ち取られたため、あまり記録が残されていないのですが、源平争乱の端緒として大きな役割を果たした人物ですので、残された記録を基に北条宗時の人生についてできる限りわかりやすく紹介したいと思います。 “【北条宗時】源頼朝の挙兵を主導した北条時政の嫡男” の続きを読む

【三善康信】誤報で源頼朝を挙兵させた初代問注所執事

三善康信(みよしのやすのぶ)は、初代問注所執事として鎌倉幕府内での裁判実務を一手に引き受けた有能な文官です。

有能ではあったのですが、性格はおっちょこちょいであり、京で下級役人をしていた時代に、早とちりのせいで源頼朝に誤報を届け、対平家の挙兵を決定させるという歴史的一大事件の引き金を引いた人物としても有名です。 “【三善康信】誤報で源頼朝を挙兵させた初代問注所執事” の続きを読む

【安達盛長(小野田盛長)】伊豆に流された源頼朝の最初の家人

安達盛長(あだちもりなが)は、伊豆国に流された源頼朝の最初の家人となった人物です。

比企尼の命により、罪人として家臣を持つことを許されなかった源頼朝の事実上の世話回りをし、後に鎌倉幕府の上位御家人となっています。

本稿では、最終的には13人の合議制の1人になるにまでに出世をし、鎌倉時代に繁栄した安達氏の祖となった人物となった安達盛長の生涯について見ていきたいと思います。 “【安達盛長(小野田盛長)】伊豆に流された源頼朝の最初の家人” の続きを読む