【三河一向一揆】家臣団分裂による松平家崩壊の危機と西三河平定

三河一向一揆(みかわいっこういっき)は、桶狭間の戦いのどさくさにまぎれて西三河に戻った徳川家康(当時の名は松平元康ですが、便宜上本稿では徳川家康で統一します。)が、同地で勢力を高めようとした際に浄土真宗本願寺派の守護不入特権に手を付けたことに反発して起こった一向一揆です。

徳川家康に対して立ち上がった一向衆寺院に、徳川家康(松平家)の譜代家臣までが参加したことから、松平家が敵味方に分かれて戦う大きな危機となった戦いです。

そのため、三河一向一揆は、三方ヶ原の戦い、伊賀越えと並ぶ徳川家康の三大危機の1つとも評されています。 “【三河一向一揆】家臣団分裂による松平家崩壊の危機と西三河平定” の続きを読む

【京都御所の外郭九門】公家町と市中の出入口を担った9つの御門(観光用)

京都御所(天皇がおられた内裏・禁裏)の周りにある京都御苑は、寺町通・烏丸通・丸太町通・今出川通に囲まれた東西約700m・南北約1300mの範囲の総面積約92ha内にある、京都御所の周囲に広がる約65ha(約19万7000坪)もの大苑地です。

明治維新ころまでは、皇族・貴族の邸宅が集まる公家町を構成しており、周囲を取囲む土塀と9カ所の門(高麗門・本瓦葺四脚門)で外部と仕切られていました(現在は、さらに5つの切通しが設けられています。)。

もっとも、その位置は現在の位置とは微妙に異なっており、その理由は、明治期の大内保存事業により現在の位置に移設されたからです。位置関係についてはアイキャッチ画像の左右を見比べてみてください。

本稿では、市中と公家町(京都御苑)との出入口となっていた9カ所の御門とその後に出来た5カ所の切通しについて、観光の際の参考として北側から時計回りに紹介していきたいと思います。

なお、明治2年(1869年)の東京遷都により御所の機能が東京に移転し、その周囲に住んでいた公家も土地を与えられて東京に移ったため、役目を終えた公家町は翌年に京都府の所管となって一般市街地とされて荒廃し、この公家町の荒廃ぶりを悲しんだ明治天皇の命により明治期に緑化事業が進められ、かつての公家町部分が国民公園(京都御苑)として整備されて現在に至っています。なお、この整備事業の際に御門の移築も行われ、往時の位置から現在の位置への移動がなされています。 “【京都御所の外郭九門】公家町と市中の出入口を担った9つの御門(観光用)” の続きを読む

【徳川家康独立】今川家からの独立と松平家再興

戦国時代を終わらせて天下泰平の江戸時代を築いた徳川家康ですが、その人生は苦難の連続でした。

三河国の国人領主の家に生まれ、生まれた直後から織田弾正忠家と今川家との軍拡競争に巻き込まれ、織田弾正忠家で2年、今川家で11年もの人質生活を強いられています。

その後、桶狭間の戦いで今川義元が討死したどさくさに紛れてなんとか岡崎城に入り、紆余曲折を経てなんとか独立にこぎつけています。

本稿では、この徳川家康独立について、そこに至る経緯から順に説明したいと思います。 “【徳川家康独立】今川家からの独立と松平家再興” の続きを読む

【太原雪斎】海道一の弓取り今川義元を支え今川家最盛期を築いた軍師

太原雪斎(たいげんせっさい)は、海道一の弓取りと言われた戦国大名・今川義元を支えた僧・政治家・武将です。諱は崇孚(そうふ)といいますので、実際には太原崇孚が正しいのですが、本稿では一般的な名称である雪斎と表記します。

今川家の重臣の家に生まれながら若くして僧籍に入ったものの、今川義元の養育係となったことから今川義元が今川家の家督を相続した後は、内政・外交・軍事の全てにおいてその手腕を発揮して今川家の全盛期を築き上げた人物でもあります。 “【太原雪斎】海道一の弓取り今川義元を支え今川家最盛期を築いた軍師” の続きを読む

【水野信元】知多半島に一大勢力を築いた徳川家康の伯父

水野信元(みずののぶもと)は、戦国時代に、大国である尾張国の織田弾正忠家と駿河国・遠江国・三河国の今川家の間をうまく渡り歩き、知多半島に大きな勢力を築いた戦国武将です。

異母妹に徳川家康の生母である於大の方がいるため、徳川家康の伯父にあたります。

織田信長を高く評価して若かりし頃からこれを支えながら、力を持ちすぎたとの理由で織田信長の命により滅ぼされることとなった悲しい人生でもありました。 “【水野信元】知多半島に一大勢力を築いた徳川家康の伯父” の続きを読む

【大高城兵糧入れ】徳川家康の桶狭間の戦い

大高城兵糧入れは、「海道一の弓取り」と言われた今川義元が「尾張のうつけ」と言われた織田信長の奇襲により討ち取られた桶狭間の戦いの際、今川方に属していた松平元康(後の徳川家康)が、今川方の拠点となっていた大高城に兵糧を運び入れた兵站作戦です。

単なる兵糧運搬のように見えますが、鷲津・丸根・正光寺・氷上・向山の各砦によって囲まれた織田軍を突破して足の遅い小荷駄隊を運び入れるという困難な作戦であり、若き日の松平元康の軍才にて成功させた奇跡ともいえる軍功です。

また、この困難な作戦を成功させた功績により桶狭間への参集を免除されて大高城に留まることを許されたため、松平元康が、織田信長に討ち取られることなく一命をとりとめることにつながった作戦でもあります(この作戦に失敗していれば、松平元康は桶狭間へ参集を命じられ、そこで織田信長に討ち取られていた可能性が高く、後に江戸幕府が成立することもなかったと思われます。)

本稿では、マイナーではありつつも、実は大きな歴史的意味を持つ大高城兵糧入れについて、そこに至る経緯から順に説明したいと思います。 “【大高城兵糧入れ】徳川家康の桶狭間の戦い” の続きを読む

【一乗寺下り松】宮本武蔵と吉岡一門の戦いの地(観光用)

一乗寺下り松(いちじょうじさがりまつ)は、京都市左京区一乗寺花ノ木町にある松の木です。

古くから、京と近江を結ぶ街道上の目印として親しまれた松であり、その歴史の古さから数々の逸話を持っています。

その中でも特に有名なのが、宮本武蔵と吉岡一門との戦いです。

本稿では、観光の際に有していると有用な簡単な説明として、この宮本武蔵と吉岡一門との戦いの経緯もあわせて一条寺下り松の歴史を簡単に説明したいと思います(なお、余談ですが、最も有名な宮本武蔵と吉岡一門との決闘話が、実は最も真偽が怪しい話でもありますが)。 “【一乗寺下り松】宮本武蔵と吉岡一門の戦いの地(観光用)” の続きを読む

【九条頼経(藤原頼経・三寅)】得宗家に挑んで敗れ続けた摂家将軍

九条頼経(くじょうよりつね)/藤原頼経(ふじわらのよりつね)は、源実朝が暗殺された後、第4代鎌倉殿(鎌倉幕府第4代征夷大将軍)となるべく京から迎えられた人物です。

摂政関白を歴任した藤原北家九条流の九条道家の三男であり、人臣最高位というその高貴な血筋であり、また源頼朝の遠縁という関係から白羽の矢が立ちました。

九条家の生まれですので、九条頼経とも呼ばれます。

後に源頼家の娘である竹御所を室に迎え、名目上の鎌倉殿として鎌倉幕府の神輿となっていた幼い九条頼経でしたが、その成長に伴って政治への野心が芽生え、反得宗家勢力と協力することにより鎌倉幕府内での政争に巻き込まれていきます。

複数回の反得宗家運動に失敗し、遂には第5代執権北条時頼によって京都へ追放されています(宮騒動)。

本稿では、波乱万丈の人生を歩むこととなった第4代鎌倉殿(摂家将軍)九条頼経の人生について見ていきたいと思います。 “【九条頼経(藤原頼経・三寅)】得宗家に挑んで敗れ続けた摂家将軍” の続きを読む

【三浦胤義】承久の乱で後鳥羽上皇に加担して敗れた三浦義村の弟

三浦胤義(みうらたねよし)は、鎌倉幕府のナンバー2として一大勢力を誇った三浦義村の弟です。

有力御家人である三浦一門の人間として大きな力を持ちながら、承久の乱で後鳥羽上皇に与して敗れ自刃した人物でもあります。 “【三浦胤義】承久の乱で後鳥羽上皇に加担して敗れた三浦義村の弟” の続きを読む

【北条政村】北条得宗専制政治を支えた政村流北条氏の祖

北条政村(ほうじょうまさむら)は、鎌倉幕府の独裁的権力者となった第2代執権・北条義時の五男です。

母である伊賀の方が鎌倉幕府を乗っ取ろうとしたクーデター計画した際に、北条政村を神輿として担ぎあげたために粛清の危機にさらされたのですが、兄である北条泰時に救われたことから、以降北条泰時及びその子孫(北条得宗家)に対して忠誠を誓います。

そのため、北条政村は、北条得宗家を支えるために執権・連署等の要職を歴任し、北条一門の宿老となって政村流北条氏の祖となっています。 “【北条政村】北条得宗専制政治を支えた政村流北条氏の祖” の続きを読む