【大垣城の戦い】関ヶ原の戦い本戦当日に発生した攻城戦

大垣城の戦い(おおがきじょうのたたかい)は、関ヶ原の戦い当日に、本戦のすぐそばで発生した東軍による攻城戦です。

元々は西軍主力の本陣を置いていた大垣城が主戦場となるはずだったのですが、前日に石田三成らが西軍主力の本陣を関ヶ原に移してしまったために本戦ではなくなった戦いでもあります。

関ヶ原の戦い本戦の直前に始まった大垣城の戦いですが、本戦がわずか1日で東軍勝利にて決着したため、その影響を受けた大垣城もわずか1週間余りで陥落してしまいます。 “【大垣城の戦い】関ヶ原の戦い本戦当日に発生した攻城戦” の続きを読む

【不破関】天武天皇により設けられた東山道防衛の拠点

不破関(ふわのせき)は、天智天皇の死後に皇位継承を巡って勃発した壬申の乱に勝利して即位した天武天皇により、天武天皇2年(673年)に現在の岐阜県不破郡関ケ原町に設けられた古代東山道の関所の1つです。

不破関が置かれた場所であったため、同地周辺は関ヶ原と呼ばれます。

当初は、東山道を監視することによって都(飛鳥浄御原宮)を防止する役割を担っていたのですが、次第に周囲の警察・軍事の機能を兼備するようになります。

また、律令制度の整備により、伊勢鈴鹿関(東海道)・越前愛発関(北陸道)と共に3関の1つに数えられ、関西(畿内)と関東(東国)とを分ける境目にもなっています。

もっとも、膨大な費用を要する三関の維持が困難となった朝廷は三関の廃止を決定し、延暦8年(789年)7月、不破関もまた廃止されるに至ります。 “【不破関】天武天皇により設けられた東山道防衛の拠点” の続きを読む

【岐阜城(日本100名城39番)】濃尾平野を牛耳る織田家3代の居城

岐阜城(ぎふじょう)は、現在の岐阜市金華山(かつての美濃国井之口山・稲葉山)を利用して築かれた戦国山城です。

築城当初は東国にあった鎌倉幕府による、西国の朝廷に対する抑えとして築かれた砦(井口砦)にすぎなかったのですが、戦国時代に美濃国を治めることとなった斎藤家によって大改修がなされて稲葉山城となりました。

その後、同城に拠点を移した織田信長が、大規模改修を行うと共に岐阜城に名を改めたことで有名です(なお、このとき城下町も井口から岐阜に改名しています。)。

急峻な山に築かれた城であったことから山頂部に十分な平坦を確保できず、城郭防衛部のみを山頂部に設け、居館部は西麓の槻谷(けやきだに)に設けるという戦国期山城によく見られる二次元分離構造となっています。

織田信長が居城としたこともあって堅城と考えられがちな岐阜城ですが、急峻な山に築かれた城であるために平坦部が少なく籠ることのできる兵数が少ないこと、山自体が岩盤で構成されていることから井戸がなく水の確保が困難であったことなどからその防御力は高くなく、何度も落城している問題点の多い城でもありました。 “【岐阜城(日本100名城39番)】濃尾平野を牛耳る織田家3代の居城” の続きを読む

【杭瀬川の戦い】関ヶ原の戦いの前日に西軍が勝利した局地戦

杭瀬川の戦い(くいせがわのたたかい)は、関ヶ原の戦いの前日である慶長5年(1600年)9月14日に、本来戦場となるはずであった大垣城の北西で勃発した前哨戦です。

西軍の士気が、東軍に徳川家康本隊が合流したことにより低下したため、これを鼓舞するために行われました。

この戦いは、島左近と明石全登の活躍によって西軍が勝利したのですが、小さな戦いであったこと、翌日に石田三成らが場所的優位性のある大垣城を出てしまったことから関ヶ原の戦い本戦について西軍勝利に導くまでの効果をあげるには至りませんでした。 “【杭瀬川の戦い】関ヶ原の戦いの前日に西軍が勝利した局地戦” の続きを読む

【大垣城(続日本100名城144番)】関ヶ原合戦の西軍本拠となるはずだった平城

大垣城(おおがきじょう)は、美濃国と尾張国との間に位置する現在の岐阜県大垣市郭町にあった戦国平城です。麋城(びじょう)または巨鹿城(きょろくじょう)とも呼ばれます。

立地の重要性から、美濃国斎藤家と尾張国織田家との間で激しい争奪戦が繰り広げられ、その後の関ヶ原の戦いの際には、合戦前日まで西軍の本拠地とされており、本戦で西軍が敗れた後は激しい攻城戦の舞台となった城でもあります(大垣城の戦い)。

最終的には内堀・中堀・外堀の三重の堀とその中に並郭式に本丸と二ノ丸を並べてその周囲を三ノ丸で囲い、更にその外周に外曲輪を配置した惣堀構造を持った堅城に仕上がっています。

もっとも、廃城後の宅地開発や戦災によって城域の大部分が失われ、現在では門や石垣跡(及び、後に再建された復元建築物)などがわずかに残されているのみとなっています。 “【大垣城(続日本100名城144番)】関ヶ原合戦の西軍本拠となるはずだった平城” の続きを読む

【豊臣秀長】豊臣政権の潤滑油であった豊臣秀吉の実弟

豊臣秀長(とよとみひでなが) は、豊臣秀吉の実弟です。

短期間で異例の出世を遂げる豊臣秀吉の傍らにあって、軍事・政治面で天下統一事業に大きく貢献しただけではなく、温厚な人柄によって家臣団や諸大名との調整役を務めるなど豊臣政権にとってなくてはならない立場にあった人物です。

また、豊臣秀吉に異を唱え、その制動を制御できる唯一の人物でもありました。

最終的には、大和国・紀伊国・和泉国と河内国の一部に及ぶ110万石を超える石高を領する大大名となり、また従二位権大納言となって大和大納言と尊称される出世を遂げています。 “【豊臣秀長】豊臣政権の潤滑油であった豊臣秀吉の実弟” の続きを読む

【天正壬午の乱】織田信長死後に起こった武田旧領争奪戦

天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)は、織田信長が本能寺の変で横死した後、旧武田領で勃発した一連の争乱です。

織田信長の死亡により武田旧臣などが一斉に反乱を起こし、織田氏の領国支配体制が固まっていなかった旧武田領国(甲斐・信濃・上野西部)は混乱し、権力の空白状態となります。

この権力空白地帯となった旧武田領国をめぐって、隣接する北条家・徳川家・上杉家が争奪戦を繰り広げ、そこに武田氏の傘下に入っていた木曽家や真田家らの国衆などの動きが絡んで大きな起きた争いとなりました。

この一連の争乱のうち、どの範囲を天正壬午の乱と呼ぶのかについて諸説あるのですが、本稿ではその定義付けは無視して一連の争乱の概略について見ていきたいと思います。 “【天正壬午の乱】織田信長死後に起こった武田旧領争奪戦” の続きを読む

【小早川秀秋】関ヶ原の戦いのキーマンとなった豊臣秀吉の義甥

小早川秀秋(こばやかわひであき)は、豊臣秀吉の正室「おね」の兄の5男として生まれた豊臣秀吉の義甥です。

幼くして豊臣秀吉・おねの養子となり、子宝に恵まれなかった豊臣秀吉の後継者候補筆頭として大事に育てられたのですが、文禄2年(1593年)8月3日に豊臣秀吉の子である豊臣秀頼が誕生したことにより人生が一変するという数奇な人生を歩んだ人物です。

それまでの後継者候補の立場から、新たに正当後継者となった豊臣秀頼の地位を脅かす可能性のある人物として邪魔者扱いされた上、他家(小早川家)に養子に出されてしまった上、その後も、豊臣家から冷遇されたことが、有名な関ヶ原の戦いでの寝返りに繋がっています。

寝返りにより東軍勝利の契機を作ったため、戦後に備前国岡山藩51万石を有することとなったものの、幼い頃からの飲酒によって体を壊し、21歳の若さで死去し、牽制を誇った小早川家を改易させています。 “【小早川秀秋】関ヶ原の戦いのキーマンとなった豊臣秀吉の義甥” の続きを読む

【五十七次に延伸された東海道】京街道と大津街道を歩く

五十三次として有名な東海道は整備された当初は江戸の日本橋と京の三条大橋との間を繋ぐ街道だったのですが、江戸時代初期に京から大坂まで延伸されて五十七次となっています。

このとき延伸されたのが伏見までの大津街道と伏見から大坂までの京街道の合計約54kmです(なお、大坂と京を結んだ街道については、京側からは京街道、大坂側からは大坂街道と言われました。)。

一般的には京街道とは京へ向かう街道の総称なのですが、そのなかでも後に東海道として延伸された大津街道及び京街道が特に有名ですので、本稿では、この延伸東海道(京街道・大津街道)についてその概略を説明したいとます。 “【五十七次に延伸された東海道】京街道と大津街道を歩く” の続きを読む

【野田城の戦い】武田信玄の人生最後の戦い

野田城の戦い(のだじょうのたたかい)は、三方ヶ原の戦いに勝利しつつも浜松城を攻略しきれなかった武田軍がその攻略を諦めて西進し、奥三河に向かって攻めるに至った攻城戦です。

武田信玄の西上作戦の一環として元亀4年(1573年)1月から始まり、概ね1ヶ月の攻城戦を経て野田城が武田家に下っています。

もっとも、野田城陥落直後に武田信玄の体調が悪化して死去しておりますので、武田信玄の人生最後の戦いでもあります。

本稿では、この野田城の戦いについて説明していきたいと思いますが、西上作戦の一環として行われていますので、前提を少し長めに紹介した後で野田城の戦いを説明することとします。 “【野田城の戦い】武田信玄の人生最後の戦い” の続きを読む