【源義経の奥州逃避行】平家討伐の英雄が謀反人とされて奥州に落ちていくまで

壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼす大金星を挙げた源義経でしたが、その後すぐに鎌倉の源頼朝と対立し、その命を狙われ続けます。

戦果を報告するために鎌倉に向かっても鎌倉入りを許されず、京に戻ると源頼朝からの刺客に襲われます。

やむなく源頼朝討伐の挙兵をしても兵が集まらず、勢力を整えるために九州に向かおうとしても船が難破して押し戻されるなど、平家討伐後の源義経の人生は悲惨です。

その後、京にいられなくなった源義経は、かつての育ての親ともいえる藤原秀衡を頼って奥州に落ち延びていくこととなるのですが、本稿ではこの平家討伐後から奥州落ちに至る経緯を簡単に説明していきたいと思います。

平家討伐後に源義経が謀反人とされる

源義経の鎌倉入りが許されない

元暦2年/寿永4年(1185年)3月24日、壇ノ浦の戦いに勝利して平家を滅ぼした源義経は、捕縛した平宗盛親子を連行して鎌倉に向かい、平宗盛親子を連れて鎌倉に入ることを希望します。

もっとも、源頼朝は、源義経に対し、武士政権樹立を朝廷に認めさせるために、安徳天皇と天叢雲剣の確保が必須であると厳命していたにも関わらず、源義経がこれを取り戻せなかったために源義経に憤りを覚えていました。

また、これ以前に後白河法皇から勝手に検非違使という官位を得たり、また腹心である梶原景時からの讒言もあったりしたため、源頼朝は不信感を強めており、源義経が鎌倉へ入ることを許しませんでした。

源頼朝は、腰越宿に留まる源義経に対して、鎌倉へ入ることを禁じるとの使者を派遣し、源義経に対し、平宗盛親子は捕虜として預かりますが、源義経は鎌倉へ入ることは許さないと告げます。

腰越宿に取り残された源義経は、源頼朝に対して、許しを求める書状をしたためます。これが有名な腰越状です。

もっとも、源頼朝は、この源義経の嘆願を認めず、1ヶ月待たせた挙句、源義経に京に戻るよう命じます。

結果、源義経は、平氏滅亡の大功を挙げたにもかかわらず、報いられることもなく追い返されてしまいます。

源義経暗殺未遂(1185年10月17日)

京に戻った源義経は、自身の屋敷で悲嘆にくれるのですが、そんな源義経に事件が起こります。

源義経に対して、鎌倉から刺客が送られてきたのです。

刺客は土佐坊昌俊といい、83騎の軍勢を引き連れて文治元年(1185年)10月9日に鎌倉を出発し、同年10月17日に京の源義経の館であった六条室町邸を襲撃しました(堀川夜討ち)。

源義経の家人達は出払っていて手薄であったのですが、源義経自身が佐藤忠信らを伴い自ら討って出て応戦していたところ、源行家の援軍が到着したことから土佐坊昌俊らを撃退しました。なお土佐坊昌俊は鞍馬山に逃げ込んだ後捕らえられて殺され、同年10月26日、六条河原に晒されています。

源義経は、源頼朝が自らの暗殺を試みたことに激怒し、自ら兵を挙げて源頼朝を追討することを決意します。

源頼朝追討の院宣(1185年10月18日)

源義経は、襲撃に遭った翌日である文治元年(1185年)10月18日、後白河法皇の下に行き、源頼朝追討の院宣を求めます。

源頼朝と源義経とが争って源氏勢力が減退していくことを期待した後白河法皇は、直ちに、源義経に対して、源頼朝追討の院宣を与えます。

もっとも、人徳のなかった源義経の下に参集する武士はほとんどおらず、むしろ敵対勢力が大きくなっていきました。

九州落ち計画失敗(1185年11月6日)

文治元年(1185年)10月29日、源頼朝自ら軍を率いて源義経討伐に向かっているとの報を受けた源義経は、そのときの戦力では源頼朝とは戦えないと判断し、九州に落ち延びて勢力を整えようと考えます(なお、協力していた源行家は、源頼朝追討に協力すべく四国に向かうこととします。)。

そして、源義経は、同年11月3日、西国九州の緒方氏を頼るために300騎を率いて京を離れて西に向かいます。

途中、摂津源氏の多田行綱らの襲撃を受けたのですがこれを撃退し(河尻の戦い)、さらに西に向かっていきます。

こうして、源義経と源行家は、同年11月6日、大物浦(現在の兵庫県尼崎市)から船に乗って西へ向かったのですが、途中で暴風雨に見舞われて乗っていた船が難破し、供をしていた仲間ともちりじりになってしまいます。

源義経追討の院宣(1185年11月25日)

文治元年(1185年)11月7日、源義経は、検非違使伊予守従五位下兼行左衛門少尉を解任された上、同年11月25日には源義経と源行家追討の院宣までが諸国に下されるに至ります。

なお、この源義経追討の院宣発布の直後の同年12月、源頼朝は、北条時政に命じて後白河法皇に圧力をかけ、親義経派の公家を解官させた上で、源義経追捕のためとして、後白河法皇に対して西国の「守護・地頭の設置」を認めさせており(文治の勅許)、これをもって鎌倉幕府が成立したと評価されるのが一般的です。

源義経が奥州へ逃れる

吉野に逃れる

摂津国・天王寺近辺に戻された源義経は、郎党や愛妾であった静御前を連れて大和国・吉野に身を隠します。

ところが、吉野にも源頼朝方の軍が攻め寄せます。

そこで、源義経は、吉野からさらに南東へ入っていき、大峰山(現在の奈良県吉野郡天川村付近)に逃れようとします。

もっとも、当時の大峰山は女人禁制であったため、源義経は、やむなく連れていた静御前に従者を付け、また財宝を持たせて京に戻すこととし、自らは雪深い山中に入っていきます。

ところが、この後、静御前に付けられた従者が、渡された財宝を持って逃亡をしたため、静御前は鎌倉方の兵に捕えられ、京にいた北条時政の下に送られています。

なお、室町時代初期に書かれた義経記では、義経四天王であった佐藤忠信が、源義経の身代わりとなって吉野から静御前を連れて都に戻って奮戦して壮絶な自害をしたとされていますが、おそらく創作です(歌舞伎や人形浄瑠璃の演目として名高い、義経千本桜の狐忠信こと源九郎狐のモデルとなっています。)。

京で潜伏生活を送る

他方、大峰山に逃れた源義経は、反鎌倉の貴族や寺社勢力(藤原範季、藤原朝方、興福寺聖弘、鞍馬寺東光房など)に匿われながら、京周辺に潜伏します。

ところが、その後、文治2年(1186年)5月に和泉国で源行家が、同年6月に大和国で源有綱が討ち取られます。

また、各地に潜伏していた源義経の郎党達(佐藤忠信、伊勢義盛ら)も、鎌倉方に発見されては、次々に殺害されていきました。

さらに、源義経の舅となっていた河越重頼も、源頼朝によって所領没収の上、殺害されました。

極め付けは、同年11月、院や貴族が源義経を匿っていると疑い続けていた源頼朝が、院側に対し、院が源義経に味方するならば大軍を送ると恫喝したのです。

こうなると、源義経には頼るものがいなくなった京に残る理由がありません。

そこで、源義経は、かつて幼かった自分を育ててくれた藤原秀衡を頼って奥州へ落ちていく決心をします。

奥州に向かう

この後、源義経は、妻子と郎党を連れて京を発ち、皆で山伏と稚児の姿に変装して奥州に向かいます。

そして、この後、源義経一行は、無事に奥州まで辿り着くのですが、京から奥州に辿り着くまでのルートについては主に以下の3説あり、正確なルートは明らかとなっていません。

①  伊勢・美濃を経由して、東山道を北上して奥州へ辿り着いたとする説(吾妻鏡・文治3年/1187年2月10日)

② 北陸方面を海岸沿いに進んで北上して奥州へ辿り着いたとする説(義経記)

③ 太平洋側を海路で北上して奥州へ辿り着いたとする説

奥州到着後の源義経

命からがら奥州へ辿り着いた源義経は、源頼朝の勢力が奥州に及ぶことを警戒した藤原秀衡により温かく迎えられます。

これは、藤原秀衡が、かつての源義経の育ての親であったからであり、また、源頼朝に対抗する旗印として源義経が必要であったからでもありました。

ところが、文治3年(1187年)10月29日に藤原秀衡が病没し、後を継いだ藤原泰衡が、源義経を捕縛すべしとする朝廷を通じた源頼朝の圧力に屈したことから、源義経に最期のときがおとずれることとなるのですが、長くなりますので、この後の話は別稿に委ねたいと思います。

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