【北条氏邦】小田原征伐のきっかけを作った猛将

北条氏邦・藤田氏邦(ほうじょううじくに・ふじたうじくに)は、北条氏康の四男として生まれ、上野国方面の軍事を任されるなどして北関東の最前線で活躍し、いくつもの武功を挙げて北条家の領土拡大に大きく貢献した武将です。

他方で、北条家滅亡に繋がる小田原征伐のきっかけを作った人物であり、その意味では評価が分かれるかもしれません。

最終的には、生まれ故郷から遠く離れた加賀国・金沢で最期を迎えるという数奇な人生の終え方をした人物でもあります。

北条氏邦の出自

出生(1548年)

北条氏邦は、天文17年(1548年)、後北条氏第3代当主・北条氏康の四男として生まれます。幼名は乙千代丸といいました。

この点、元亀2年(1571年)時点での北条家の序列において北条氏邦が四男の北条氏規や北条氏康の養子(実際は甥)である北条氏忠よりも下に置かれていたことなどから、四男の氏規よりも年下であり、なおかつ妾の子ではないかと考えられ五男であったとする説もありますが、本稿では従来の通説に従っておきます。

藤田康邦の養子となる(1558年)

北条氏康は、引き継いだ家督を更に発展させ、関東一円にその勢力を拡大させていくのですが、勢力の拡大に際して、積極的に在地国衆を取り込んでいきます。

特に、大きな勢力を持つ国衆には、息子を養子に出して家ごと取り込んでしまいます。戦国時代によくあるお家乗っ取りです。

北条氏康は、三男・北条氏照を、滝山城を治める大石定久の養子とした後、同家を乗っ取ってしまいます。

また、北条家が武蔵国に進出した際、武蔵国北部までその影響力を及ぼすとともにさらには上野国への侵攻を果たすため、四男・北条氏邦を武蔵国北部の有力国衆であった藤田氏15代目・藤田康邦の養子として藤田家に入れます。

藤田家に養子に入った北条氏邦は、以降藤田氏邦を名乗ります(便宜上、本稿での表記は北条氏邦で統一します。)。

鉢形領を任される

鉢形城入城(1564年)

その後、北条氏邦は、元服を待って、永禄7年(1564年)に藤田康邦の娘(後の大福御前)と結婚し、藤田家を継ぎます。お家乗っ取り完了です。

そして、永禄11年(1568年)ころ、北条氏邦は、武蔵国北部の要衝・鉢形城(埼玉県寄居町)に入り、北条家の北部戦線(対武田・対上杉)を担うこととなります。

北条氏邦は、鉢形城に入ると、直ちに鉢形城を中心とする支城群を整備して防衛網を構築していきます。

これにより、北条氏邦の領国は、鉢形領と称されるようになります。

また、軍備のみでなく、領内の農業・林業・産業の発展にも着手します。

具体的には、暴れ川と言われた荒川から領内を守るために堤防を整備していきます(現在の熊谷市星溪園などに残る熊谷堤跡は天正年間に北条氏邦が築堤したとされており、北条堤の名が残っています。)。

また、養蚕を主要産業とすべく奨励し、生糸産業の一大拠点を築き上げてもいます。

越相同盟締結(1569年)

永禄9年(1566年)に武田信玄が西上野を攻略し領地化したため、鉢形城が対武田の最前線となります。

武田軍の侵攻に危機を感じる北条家では、越後国・上杉謙信との同盟を模索し、かつて上杉家に従属経験のある由良成繁と由良成繁への指南役を務める北条氏邦が中心となって交渉を進め、永禄12年(1569年)、遂に北条家と上杉家との間に、対武田軍事同盟である越相同盟が締結されます。

そして、この越相同盟の証として、北条氏康の七男・北条三郎が上杉謙信の養子に迎えられることとなり、上杉謙信の初名を与えられて上杉景虎と名乗ります。

鉢形城包囲戦と三増峠の戦い(1569年)

武田信玄は、永禄12年(1569年)、3度目の駿河侵攻作戦を展開していたのですが、駿河国に出てくる北条軍の援軍を牽制しこれを排除するため、東関東の反北条勢力と同盟を結んで北条領への侵攻と小田原城攻めを行います。

この小田原攻めは、武田信玄が、2万人を率いて信濃国・佐久郡から碓氷峠を越えて西上野に侵攻し、相模国・小田原城を目指し、途中にある北条方の支城を攻撃しながら南下をしていくことから始まります。

西上野に入った武田軍は、永禄12年(1569年)9月9日に御岳城を、また翌同年9月10日には、北条氏邦の守る鉢形城を包囲します。

このとき、北条方では、越相同盟に基づいて上杉謙信に対して何度も援軍要請をしたのですが、越中攻めに謀殺されていたこと、上杉謙信が同年7月に将軍足利義昭の命により武田氏との和議である「甲越和与」を締結していたことから、上杉謙信からの援軍はついに得られませんでした。

他方、御岳城・鉢形城を囲む武田軍としても、早期にこれらの城を攻略できるメドが立たなかったため、これらの城の攻略は諦め、進軍を優先します。

その後、武田軍は、滝山城包囲戦、廿里合戦(廿里の戦い)を経てわずか4日間小田原城を包囲した後、同年10月5日、小田原城下に火を放った上で、小田原城の包囲を解き甲斐国への撤退を開始します。

このとき、武田軍が小田原城から引き上げるのを見た北条方では、一方的に進軍してきた武田軍への恨みの追撃戦を敢行します。

鉢形城の北条氏邦・滝山城の北条氏照が率いる2万人を高所となる三増峠(相模原市緑区根小屋 – 愛甲郡愛川町三増)に布陣させ、少し遅れて小田原城から出陣した北条氏政率いる2万人とで武田軍を挟撃する作戦でした。

もっとも、この戦い(三増峠の戦い)は、北条氏政軍が到着する前に、北条氏邦・北条氏照軍が武田軍の遊軍の攻撃を受けて大混乱に陥り、戦線が崩壊したことによって北条軍の敗北に終わっています。

上野国領国化

元亀2年(1571年)10月3日、越相同盟を主導していた北条氏康が死去すると、後を継いだ北条氏政は、越相同盟を解消して同年に武田信玄と再び同盟を締結します(第二次甲相同盟)。もっとも、越相同盟の証として越後国に送られた上杉景虎(北条三郎)は、そのまま越後に残されることとなりました。

この頃の武田信玄は死期が迫りその目が織田信長・徳川家康のいる西に向いていましたので、北条氏邦は、第二次甲相同盟の下で、武田信玄の支配地である西上野以外の上野国の領国化を進めていきます。

そして、天正4年(1576年)になると、北条氏邦は、安房守を名乗るようになります。

安房守は、かつて上野守護職を歴任した山内上杉氏歴代の名乗りであり、北条氏邦がこれを名乗ることは山内上杉家に代わって上野国・国主になることを表明するものと言えます。

御館の乱(1578年)

天正6年(1578年)3月13日、上杉謙信が後継者を指名することなく死没すると、上杉景虎(北条三郎)と義兄弟の上杉景勝との間で上杉家の家督を巡るい内紛に発展します(御館の乱)。

北条氏邦は、北条氏照と共に、北条氏政の名代として三国峠を越えて越後国に進入し、弟・上杉景虎(北条三郎)の支援に動きます。

このとき、北条氏邦は、上杉家の傘下にあった沼田城を奪取します(その後、北条氏邦は、義兄弟の藤田信吉を沼田城代に任じたのですが、藤田信吉が真田昌幸の調略によって武田勝頼に下ったため沼田城を失っています。)。

当初は戦力が拮抗した戦いであったのですが、冬が近づいてきたために北条方は兵の大多数を本国へ戻さざるを得なくなり、その結果攻勢を強めた上杉景勝に押された上杉景虎が自害して御館の乱は終わっています。

天正壬午の乱(1582年)

織田信長の勢力が関東方面に及んでくると、北条家は織田家への従属を表明し、北条氏邦も黄金3枚を負担しています。

そして、天正10年(1582年)6月に織田信長が本能寺で横死すると、北条家は、織田方の諸将が治め切れていない武田旧領を押さえるべく軍を派遣し、北条氏邦は、若き当主・北条氏直を補佐して武蔵国賀美郡周辺で滝川一益と戦いこれを壊走させています(神流川の戦い、天正壬午の乱)。

なお、北条氏邦は、このころまでは藤田姓(藤田氏邦)を称していたのですが、天正15年(1587年)11月までのどこかの時期に北条姓にぶ復姓しています。

小田原征伐

沼田裁定(1589年)

天正壬午の乱の際、その際に徳川家康が和睦条件として真田昌幸に無断で北条氏政に沼田領全域を割譲することを約束し、徳川と北条とが和睦に至ります。

もっとも、この話は、真田昌幸としては寝耳に水の話であり、徳川家康が勝手に決めた沼田領割譲など認められませんので北条家への沼田割譲を拒否します。

これにより、メンツを潰された徳川家も真田家との関係が急速に悪化します(その結果、第一次上田合戦に繋がっていきます。)。また、沼田領を得られると約束した北条家と真田家との関係も冷え込みます。

この徳川家と北条家の沼田割譲合意とそれを拒否する真田昌幸の対応により、真田家・徳川家・北条家の三者で沼田領を巡って泥沼の争いが始まります。

困った三家は、当時最大勢力となった豊臣秀吉に裁定を依頼し、豊臣秀吉が、真田家の「祖先墳墓の地」である名胡桃城を含む3分の1を真田領のものにし、北条家当主が上洛するという条件の下でその他沼田領の3分の2を北条領とするとの裁定を行います。

この裁定に対して北条氏側において北条氏政の上洛の方向で調整がされたため、先行して沼田城が北条に引き渡されます。

天正17年(1589年)7月24日頃、沼田領の請取が行われました。

北条氏政は、北条氏邦に沼田領を管轄させ、北条氏邦はさらに宿老かつ沼田城代の経験もある猪俣邦憲(北条氏邦が偏諱を与えるほど信頼していた武将です。)に管轄させることにしました。

名胡桃城事件(1589年11月)

ところが、ここで大問題が起こります。

天正17年(1589年)11月3日、沼田城代となった北条家家臣・猪俣邦憲が、調略によって真田領と決められたはずの名胡桃城を奪取してしまったのです。

北条家としては、沼田城を得ても沼田城攻略のための城である名胡桃城が真田家の下にあれば喉元に刃が突き付けられている形となり安心できなかったからです。

沼田城だけでなく名胡桃城まで奪われた真田昌幸は激怒し、寄親である徳川家康を通して豊臣秀吉に訴え出ます。

約定違反を聞かされてメンツをつぶされた豊臣秀吉は、北条氏政に対して、関係者の引き渡しと処罰を求めたのですが北条氏政はこれを拒否します。

これに対し、豊臣秀吉は、天正7年(1589年)11月中に北条氏政が上洛しなければ翌年春に北条討伐を行うとの最後通牒を突き付けましたが北条氏政はこれも無視します。

小田原征伐の始まり

豊臣秀吉は、20万人とも言われる大軍を準備し、これを3軍に分け、北側から上杉景勝・真田昌幸ら、東側から豊臣秀次・徳川家康ら、海路から九鬼嘉隆らに命じて北条家の居城・小田原城に向かわせます。

この豊臣軍の進軍に対し、北条氏邦は、駿河国に進出して大規模な野戦をするよう進言したのですが採用されず、やむなく小田原城を退去して居城の鉢形城に籠城して単独抗戦することとなりました。

鉢形城包囲戦(1590年5月)

ところが、北国軍・東海道軍・水軍の3軍に分かれて進軍してくる豊臣軍は、いずれもが圧倒的な大軍であり、北条方になすすべはありませんでした。

北条氏邦が指揮する鉢形城が迎え撃ったのは、前田利家・上杉景勝・真田昌幸ら率いる3万5000人もの大軍であり、これらの大軍が天正8年(1590年)5月13日、北条氏邦ら3000人が籠る鉢形城を包囲します。なお、このとき、北条氏邦の義兄弟である藤田信吉が上杉景勝傘下の武将として鉢形城攻撃に参加しています。

北条氏邦らは鉢形城にて1カ月耐えましたが、城内の被害も甚大となったため、城兵の助命を条件として同年6月14日に降伏勧告を受け入れて開城しています。

鉢形城開城後、北条氏邦は、出家姿になって藤田家の菩提寺正竜寺に蟄居し、沙汰を待ちます。

北条氏邦の最期

前田利家に仕える

切腹を待つ北条氏邦でしたが、鉢形城攻将であった前田利家が豊臣秀吉に対してその助命嘆願を行い認められたため、北条氏邦は剃髪することを条件として一命を許されます。

そして、小田原征伐の後、北条氏邦の身柄は前田家預かりとなり、加賀国に渡ります。

その後、北条氏邦は、前田家の家臣となり、前田領内の能登国・津向(現在の石川県七尾市)に知行1000石を得ます。なお、妻の大福御前は北条氏邦に同行することなく鉢形に残り、文禄2年(1593年)5月10日に病死したとも自害したとも言われています。

北条氏邦死去(1597年8月8日)

そして、北条氏邦は、慶長2年(1597年)8月8日、加賀国・金沢にて病没します。享年50歳でした。

北条氏邦の遺体は金沢で荼毘に付された後に、その遺骨は後北条家の菩提寺であった正竜寺(現在の埼玉県大里郡寄居町)に移されたのですが、このとき正竜寺で行われた大法要にはひと山を越える長さに及ぶほどの参列者が訪れたと言われています。

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