【第41代・持統天皇】飛鳥浄御原令施行と藤原京遷都を成功させた女帝

持統天皇(じとうてんのう)は、皇室史上3人目の女性天皇として第41代天皇となった女性です。

強権を誇った天智天皇の娘として生まれ、叔父である天武天皇の皇后となり、壬申の乱では異母兄弟である弘文天皇を滅ぼして夫を即位させるという複雑な家庭環境下での生活を強いられました。

夫である天武天皇崩御・子である草壁皇子薨去後に、孫である軽皇子が成長するまでの中継ぎ天皇として即位したのですが、その他の女性天皇とは異なり、形式的即位ではなく、実権を持って政治を行なった女性天皇です。

政治的にも相当優秀であったと考えられ、飛鳥浄御原令施行・庚寅年籍編纂・藤原京遷都など数々の大事業を成功させています。

また、譲位後にも政治に関与し、大宝律令完成や日本への国号変更にも携わったと考えられています。

持統天皇即位

出生(645年)

持統天皇は、大化元年(645年)、天智天皇(中大兄皇子)の娘として生まれます。

諱は鸕野讚良(うののさらら、うののささら)といい、母は、乙巳の変の際に天智天皇に協力した蘇我倉山田石川麻呂の娘である蘇我遠智娘(おちのいらつめ)であり、同母姉弟として大田皇女と建皇子がいます。

叔父である大海人皇子に嫁ぐ(657年)

斉明天皇3年(657年)、父である天智天皇の指示により、13歳であった持統天皇が、同人の姉妹である大田皇女・大江皇女・新田部皇女と共に叔父の大海人皇子(後の天武天皇)に嫁ぎます。

斉明天皇7年(661年)には、ヤマト政権に救援を求めてきた百済の援軍として朝鮮半島に派兵するため、天武天皇とともにときの斉明天皇に随行し、北九州に下向しています。

そして、鸕野讃良は、天智天皇元年(662年)、戦争準備中であったに筑紫国娜大津にて、大海人皇子の子である草壁皇子を儲けます(なお、翌年には、大田皇女が大津皇子を産んでいます。)。

その後、天智天皇6年(667年)2月頃に同母姉である大田皇女が死去したため、鸕野讃良が大海人皇子の妻の中で最も高い身分の妻となりました。

大海人皇子に従い吉野に下向(671年)

その後、病に倒れた天智天皇が、自身の皇子である大友皇子を太政大臣につけて後継とする意思を見せ、大海人皇子の野心を試すため、病の床に大海人皇子を呼んで天皇の地位を譲りたいと申し出ます(これは、天智天皇の本心ではなく、大海人皇子が同意すれば、野心ありとして大海人皇子を殺すつもりでした。)。

天智天皇の本心を察知し身の危険を感じた大海人皇子は、天智天皇10年(671年)、蘇我安麻呂の忠告に従って、天智天皇の申し出を断って皇太子として大友皇子を推挙し、自らは出家して吉野宮(現在の奈良県吉野町)に下向して隠棲します。

鸕野讃良は、まだ幼い草壁皇子を連れてこれに従い、大海人皇子と共に吉野に下ります。

なお、文献上では、大海人皇子の妻の中で、鸕野讃良の他に大海人皇子と共に吉野に下った人物は記録されていません。

壬申の乱(672年)

天智天皇が崩御されると、大海人皇子は、大友皇子と戦うことを決め、吉野を出て自身の有する領地である美濃国への脱出を図ります。

なお、日本書紀に、大海人皇子と「ともに謀を定め」たと記されていることから、鸕野讃良が乱の積極的にこの反乱計画に関与していたことがわかっています。

大海人皇子は、まず村国男依を先遣隊として美濃国に派遣して先行して兵を集めさせた上、鸕野讃良・草壁皇子・忍壁皇子を連れて吉野を出ます。なお、鸕野讃良は、疲労により途中で大海人一行と別れて伊勢国桑名にとどまっています。

その後、本拠地に戻った大海人皇子が蜂起して不破関を封鎖した上で近江に攻め上がり、壬申の乱に勝利します。

皇后となって天武天皇を支える(673年)

壬申の乱に勝利した大海人皇子は、天武天皇2年(673年)2月に天武天皇として即位し、鸕野讃良は皇后に立てられます。

天武天皇は、即位前の白村江の戦いの敗戦による唐との悪関係を改善し、万一唐から攻撃を受けた場合にこれを跳ね返すことができる国力をつけることに注力されます。

そこで、天武天皇は、中央集権化を指向し、大臣を1人も置くことはせず、皇子達と共に皇族による政治体制を作り上げていきます。

そして、天武天皇は、鸕野讃良の支えにより、次々と以下のような政治政策を進めていきます。

① 天智天皇の戸籍編纂作業を引き継ぐ

天智天皇が始めた戸籍編纂作業は、671年に天智天皇が崩御した後も続けられ、壬申の乱に即位した天武天皇・持統天皇に引き継がれます。

武力をもって政権を獲得した天武天皇は、政治における武力の重要性を痛感して軍事体制の整備に注力し、軍事力の基礎を豪族という将ではなく、その支配下にあった農民にその基盤を求めました。

そこで、天武天皇は、首長や豪族の支配下にある農民を含めた全ての階層の農民を把握するため、兵士1人を徴兵する単位として3~4人からなる「戸」を編成し、これを1単位として徴兵がなされる仕組みとなりました(これにより成人男子3~4人に1人の割合で徴兵されることとなりました。)。

② 飛鳥浄御原律令の制定作業開始(681年)

天武天皇は、681年、天智天皇が施行した近江令を廃し、新たな律令である飛鳥浄御原(あすかきよみはら)律令の制定作業を始めます。

③ 八色の姓(684年)

天武天皇は、684年に八色の姓を定め、旧来の臣・連・伴造・国造という身分秩序にのうち、臣・連の中から天皇一族と関係の深いものだけを抽出し、真人・朝臣・宿禰の姓を与え、新しい身分秩序を作り出し、皇族の地位を高めました。

また、天武天皇14年(685年)1月、それまでの冠位二十六階を改訂し、冠位四十八階が制定されました。

これらは、優秀な皇族がいるからこそ行いえた氏族制度の再編策だったのですが、鸕野讃良が常に天武天皇を助けていたということが大きかったと考えられます。

天武天皇の特別な妻となる(679年)

その後、天武天皇は、「卑母拝礼禁止の詔の発令」を発して、皇子達は自分の母親であっても王の名を称していない者への拝礼をしてはならず、これに違反すれば罰すると定め、妻の中で鸕野讚良とその他の間に明確な身分差を設けます。

その上で、天武天皇は、天武天皇8年(679年)、天武天皇と持統天皇が6人の皇子(天武天皇の子である草壁皇子・大津皇子・高市皇子・忍壁皇子と、天智天皇の子である川島皇子・志貴皇子)を集め、皇子達が互いに争わずに協力することを約束させ、鸕野讚良が産んだ草壁皇子を天武天皇の後継者とすることを皇子達に周知します(吉野の盟約)。

なお、天武天皇による鸕野讚良への信頼・寵愛は別格といえ、天武天皇9年(680年)ころに鸕野讚良が病を患うと、これを心配した天武天皇が、鸕野讚良の病気平癒を祈願し、百僧を得度(出家)させて薬師寺の建立を発願したほどでした(「日本書紀」天武天皇9年11月12日条)。もっとも、天武天皇は薬師寺の完成前に崩御されたため、薬師寺の伽藍整備は持統天皇・文武天皇の代に引き継がれて完成しています。

草壁皇子が次期天皇候補者となる(685年)

天武天皇8年(679年)、草壁皇子は、1歳年上の叔母(鸕野讚良の異母妹)である阿閇皇女を妻に迎えます。

その後、草壁皇子が、天武天皇14年(685年)1月に制定された新たな皇親冠位制(冠位四十八階)において、諸王十二階の6位である浄広壱に叙されます。

この官位は、大津皇子の浄大弐(同7位)・高市皇子の浄広弐(同8位)より高いこのときの筆頭位であっことから、事実上、草壁皇子が次期天皇候補者とされていたことがわかります。

なお、飛鳥浄御原令が施行された689年までは皇太子制度はありませんでした。

天武天皇崩御(686年9月9日)

天武天皇14年(685年)ころ、天武天皇が体調を崩したため、その皇后であった鸕野讚良と、次期天皇候補者であった草壁皇子の共同で政務が執られるようになります。

そして、朱鳥元年(686年)7月に天武天皇が重態に陥いると、鸕野讚良と草壁皇子が天武天皇から大権を委任されます。

その後、朱鳥元年(686年)9月9日、天武天皇が崩御されます。

大津皇子を自害させる(686年10月3日)

もっとも、ここで鸕野讚良が、我が子の草壁皇子を確実に次期天皇とするために大胆な行動に出ます。

天武天皇崩御間もなくである朱鳥元年(686年)10月3日に、草壁皇子に次ぐ皇位継承権者と考えられていた大津皇子を謀反の罪により自害に追い込んだのです。

これは、大津皇子が、草壁皇子より1歳年下であったものの、母の身分は草壁皇子と同じであり、天武天皇に愛され、才学あり、詩賦の興りは大津より始まる、立ち居振る舞いと言葉遣いが優れると称されるなど(日本書紀)、明らかに草壁皇子よりも優れた能力を持っていたと考えられていたことから、これを鸕野讚良が危惧したことによるものと考えられています(大津皇子のクーデター計画の有無・内容は不明です)。

理由はともあれ、天武天皇と自分の子である草壁皇子の障害となり得る大津皇子を速やかに排除した鸕野讚良の政治的手腕があまりにも卓越していたことがわかります。

草壁皇子薨去(689年4月13日)

天武天皇の崩御により事実上皇位を継承した草壁皇子でしたが、まだ年が若かったこと、大津皇子の手段に消極的意見も多かったことなどから、草壁皇子がすぐに天皇として即位することはできませんでした。

そこで、2年3ヶ月にも亘る皇族・臣下をたびたび列席させる一連の葬礼が繰り返されて時間が稼がれ、その間に鸕野讚良の指導の下で草壁皇子のイメージアップ活動が行われます。

具体的には、持統元年(687年)正月に都には住む老人・病人・貧民に絁綿を施し、同年6月には罪人を赦し、同年7月には天武14年以前の負債の利子を免除し、持統天皇2年(688年)6月にはふたたび罪人の赦免と全国の調半減を令しするなど、なりふり構わないご機嫌取り政策が繰り返されます。

こうして、草壁皇子に対するイメージ改善がなったと判断した鸕野讚良は、ようやく天武天皇を葬ることとして、草壁皇子の即位に向けて動き始めます。

ところが、ここで鸕野讚良の予期せぬ事態が起こります。

いよいよ即位秒読みとなった段階である持統天皇3年(689年)4月13日、草壁皇子が27歳の若さで薨去してしまったのです。

持統天皇即位(690年1月1日)

皇太子であった草壁皇子薨去により深く悲しんだ鸕野讚良は、草壁皇子の子(天武天皇と鸕野讚良の孫)である軽皇子に皇位を継がせようとしたのですが、この時点での軽皇子はまだ7歳であり、天皇として即位させるのははばかられる年齢でした。

そこで、持統天皇(690年)1月1日、やむなく鸕野讚良が、軽皇子が成長するまでの中継ぎとして、第41代・持統天皇として即位することとなりました。

同年に行われた即位式は、天武天皇の葬礼とあわせて日本書紀に詳しく記されています。

持統天皇の治世

女性天皇として即した持統天皇ですが、名目天皇に過ぎなかった他の女性天皇とは異なり実際に権力を持って自ら政権を担当した天皇(女帝)でした。

もっとも、天武天皇治世ではこれを補佐した実績ある有能な人物であるとはいえ(日本書紀・「後漢書」明徳馬皇后紀)、女性ですのでその統治には困難さも伴います。

そこで、持統天皇は、ついに1人の大臣も任命することなく行った天武天皇時代の皇親政治を改め、天武天皇の長男である高市皇子を太政大臣に、多治比島を右大臣に任命して補佐をさせた上で、まずは自らの権威を高める施策を行った上、高めた権威を基に政治を行っていくこととしました。

持統天皇の権威を高める施策

(1)吉野行幸により天武天皇の権威を借り受ける

持統天皇は、在位期間中に頻繁に吉野に行幸しています。

その理由としては、天智天皇治世に出家した夫・天武天皇(大海人皇子時代)に伴われて過ごした思い出の地を巡るという意図もあったでしょうが、その主目的は、豪族たちに天武天皇の権威を意識させてその権威を借りるたものであったと考えられます。

また、その他、紀伊国や近江国にも行幸した記録が残されています。

(2)柿本人麻呂に賛仰する歌を作らせる

また、持統天皇は、「宮廷詩人」として柿本人麻呂を庇護し、自身を賛仰する歌を数多く作らせます。

その中でも特に有名なのが、「大君(おほきみ)は 神にしませば 天雲の 雷(いかづち)の上に 廬(いほ)りせるかも」です。

律令国家確立

① 飛鳥浄御原令施行(689年)

天智天皇が始めた律令整備作業(近江令)は、一旦これを廃して新たな律令編纂作業を行う形で天武天皇に引き継がれ、その後さらに持統天皇に引き継がれます。

そして、持統天皇の代の持統天皇3年(689年)6月、飛鳥浄御原令として諸官司に頒布されました。

もっとも、律は制定されておらず令のみが唐突に頒布されるという形で行われていることから、草壁皇子の死による政府内の動揺を抑えて天武天皇の施策を継承したことを明示するために、完成を待たずして令のみを急遽公布したと考えられています。

そのため、飛鳥浄御原令施行後も律令の編纂作業は継続され、最終的に大宝元年(701年)の大宝律令完成によってようやく律令編纂事業が完成するに至っています。

② 庚寅年籍編纂(690年)

また、持統天皇は、天智天皇が始め、天武天皇が引き継いだ戸籍編纂事業を引き継ぎ、首長や豪族の支配下にある農民を含めた全ての階層の農民を把握する庚寅年籍を完成させます。

そして、持統天皇6年(692年)、完成した庚寅年籍に基づいて農民に対する口分田の班給が開始され、豪族を介した間接支配を脱し、ヤマト政権による令に則った戸籍を介しての直接農民支配が始ました。

藤原京遷都(694年)

古代倭国の都とは、ときの大王の邸宅を意味しており、その周囲に設けられた皇族・有力豪族の邸宅とに分散し、その周囲に一般庶民の家が集まることにより構成されていました。

また、国の職務は、これらの皇族・有力豪族によって、各担当者の邸宅で行われ、これら一体となった政治組織の場所(都)は、大王の代替わりごとに異なる場所に移されていきました。

その後、推古天皇時代頃になると、大王や豪族の邸宅の他に、官庁としての朝堂・朝庭が設けられるようになりましたが、代替わり毎に遷都する都のあり方については変化ありませんでした。

これに対し、持統天皇は、このあり方を変更し、中央集権化を図るため、都の構造を大きく変化させます。

まずは、中国王朝の王都を模して、都城制を採用し、694年に恒久的な都とするべく藤原京を造営して遷都します。

そして、都城の中心に大王(文武天皇以降は「天皇」)の宮城(内裏)が設けられ、その周囲に政治を行う官庁となる施設を集中配置しました(儀式を行う大極殿、政務や儀式を行う朝堂院など)。

さらに、これらの周囲に条坊制に基づいて東西南北に整然と区画した京を設け、そこに町が形成されていきました。

また、豪族らにも朝廷から邸宅が支給されてそこに住むように強い、さらにこれに対して大王(天皇)から位階を授けてそれに応じた官職に任じて宮城にある官庁に勤務する体制を整えていった結果、氏族制から官僚制への政治的転換が行われていきました。

この結果、藤原京は、それまでの一代限りの都としてではなく、恒久的宮都として使用されることが指向され、文武天皇に譲位された後(持統天皇崩御後)も継続使用がなされました。

文武天皇へ譲位

譲位して上皇となる(697年8月1日)

前記のとおり、持統天皇は、高市皇子を太政大臣に任じてその補佐をさせた上で、ヤマト政権の統治を行っていたのですが、その高市皇子が持統天皇10年(696年)7月10日に薨去します。

その後、皇族・有力豪族が集まって持統天皇の次の天皇を誰に定めるかの協議が行われ、持統天皇11年(697年)2月、葛野王の発言を決め手として軽皇子が皇太子とされることとなりました(懐風藻)。なお、軽皇子の立太子については持統天皇によるクーデター説もあります。

そして、持統天皇11年(697年)8月1日、持統天皇は、15歳となった軽皇子に譲位し、文武天皇として即位させました。

この結果、持統天皇は初の太上天皇(持統上皇)となりました。なお、存命中の天皇が譲位したのは皇極天皇に次ぐ史上2番目のことでした。

もっとも、持統上皇は、譲位後も政治に関与し続け、続日本紀にも持統上皇が文武天皇と並んで政務をとったと記載されています。

大宝律令完成(701年)

持統上皇は、文武天皇に譲位した後も、同天皇と並び座して政務を執ったとされています。

そのため、文武天皇時代の最大の業績といわれる大宝律令の制定・施行についても持統天皇の意思が関わっていたと考えられています。

また、この頃に国号を倭国を改めて「日本」に定めていますので、これも持統上皇によるものであると推測されます。

持統上皇の最期

崩御(702年12月22日)

持統天皇は、大宝2年(702年)の12月13日に病を発し、同年12月22日に崩御されました。宝算は58歳でした。

崩御後、淡海三船によって「継体持統」という言葉から「持統天皇」という漢風諡号が付けられました。

持統上皇の遺体は1年間の殯(もがり)に付された後、継続使用されることとなった藤原京に死の穢れを及ぼさないよう、大化2年(646年)に発布されていた薄葬令に基づき火葬されて天武天皇陵に合葬されました。なお、これが天皇経験者の火葬の最初です。

持統上皇が合葬された天武天皇陵は、宮内庁により、奈良県高市郡明日香村大字野口にある上円下方(八角)形式の檜隈大内陵(桧隈大内陵:ひのくまのおおうちのみささぎ・遺跡名は「野口王墓古墳」)と治定されています。

そこに、天武天皇の棺に寄り添うように、銀の骨壺に入れられ収められました。

なお、宮内庁が治定した多くの天皇陵は、古くは江戸時代(元禄~文久年間)からその当時の学問水準を基にして行われており、今日の水準からすると疑問点の多いものとなっています。

もっとも、天武・持統陵についての宮内庁の治定はほぼ間違いがないと言われています。

なぜなら、天武・持統陵は文暦2年(1235年)に盗掘に遭って骨壺が奪われて持統上皇の遺骨は近くに捨てられるという事件があったのですが(明月記)、その際に、定真という僧によって調査が行われて内部の石室等の様子が記録されていることからです(阿木幾乃山陵記)。

その後の天武天皇・持統天皇の血統

前記のとおり、持統上皇には、子は草壁皇子1人しかいなかったのですが、その子である文武天皇・元正天皇・吉備内親王らが、以降の天皇家の嫡流となります(天武系)。

もっとも、近親婚を繰り返した結果、天武天皇と持統天皇の男系子孫の多くは病弱で短命でした。

そのため、この健康上の理由が皇位継承に関する様々な紛争発生要因となって永くその皇統を維持することはできず、持統上皇の玄孫であった基王と孝謙・称徳天皇が亡くなった後に天智天皇系の光仁天皇が即位したことにより天武・持統天皇の血統の天皇は途絶えてしまいました。

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