金ヶ崎の退き口(かねがさきののきくち)は、越前国を治める朝倉義景を討伐するために越前国に侵攻していた織田・徳川連合軍が、北近江を治める浅井長政の裏切りによって窮地に陥り、命からがら越前国から京まで逃げ帰るという撤退戦です。金ヶ崎の戦い(かねがさきのたたかい)とも言われます。
織田信長の生涯の中で、最も死ぬ危険が高まった戦いでもあります。
敵地であった越前国からの撤退戦は困難を極めたのですが、後に天下人となった木下秀吉や、後に織田家筆頭となった明智光秀などの活躍により何とか作戦を成功させています。
なお、越前国攻略戦に徳川軍が参戦していたことは間違いないのですが、殿戦に徳川家康が加わっていたのかについては必ずしも明らかとなっておりません。
本稿では、この困難な撤退戦となった金ヶ崎の退き口について、その発生に至る経緯から順に見ていきたいと思います。
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金ヶ崎の退き口に至る経緯
足利義昭の将軍就任(1568年10月)
観音寺城の戦いに勝利して先行して入京した織田信長が、そのまま畿内を平定したことにより安全が確保されたため、足利義昭が、永禄11年(1568年)10月14日、織田信長の供奉を受けて芥川山城を出て入京し本圀寺に入ります。
その後、同年10月18日に朝廷から将軍宣下を受け、足利義昭が室町幕府第15代将軍に就任します。
織田信長と足利義昭の蜜月
織田信長の全面協力によって上洛・征夷大将軍就任を果たした足利義昭は、永禄11年(1568年) 10月24日、最大の功労者である織田信長に対し、「天下武勇第一」・「室町殿御父(むろまちどのおんちち)」と称えた上で、足利家の家紋である桐紋と二引両の使用を許可します。なお、同年10月24日付の足利義昭の感状に「御父織田弾正忠(信長)殿」と記されていることはあまりにも有名です。
本圀寺の変(1569年1月5日)
京に入った織田信長と足利義昭でしたが、まだ畿内周辺には三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・石成友通)をはじめとする対抗勢力が多数残っており、抵抗を続けている状況でした。
永禄12年(1569年)1月5日には、三好三人衆らが下京郊外の六条本国寺(江戸時代以降は本圀寺)に入っていた足利義昭を襲撃する事件が起こります(本圀寺の変)。
このときは、明智光秀や援軍として駆け付けた将軍直属の細川藤孝、三好本家の三好義継・摂津国衆の伊丹親興・池田勝正・荒木村重らの奮戦により、三好三人衆の撃退に成功します。
もっとも、神輿として足利義昭を担ぐ織田信長としては、この時点ではまだ足利義昭を失うわけにはいきませんでしたので、急ぎ本圀寺の建築物を解体・移築する方法で本圀寺に代わる将軍の在所となる二条城の築城を開始します。
また、織田信長は、足利義昭の権限の範囲を画定させるため、同月14日に「殿中御掟」を定め足利義昭に承認させます。
朝倉義景の上洛命令無視
その後、織田信長は、さらなる勢力拡大のため、征夷大将軍・足利義昭の名を使って周囲の大名に上洛を促していきます。
各大名に対する、織田信長への事実上の臣従圧力です。
当然各大名は反発します。
名門大名が、尾張の田舎侍に過ぎない織田信長の要請になど従えません。特に、朝倉宗滴以降、強大な経済力・軍事力をもって越前を治める朝倉義景に至っては、完全無視を決め込みます。
この朝倉義景の対応に織田信長は激怒したのですが、いきなり越前国を攻撃する理由がありません。
そこで、織田信長は、まず足利義昭からの命令を受けて、朝倉義景が若狭国守であった武田元明(足利義昭の甥)を越前に連行して武藤家を通じて傀儡としていた若狭国を解放するという名目で、若狭国武藤家を討伐するために兵を挙げることしたのです。
なお、当時作成された文書上も、「越前へ手遣い(多聞院日記)」、「若州へ罷り越す(言継卿記)」、「若狭国武藤を成敗する(毛利家文書・織田信長から毛利元就宛の文書)」とされており、このときの織田信長出陣の口実が若狭攻めであったことは間違いありません。
織田軍出陣(1570年4月20日)
兵を動員した織田信長は、永禄13年(1570年)4月20日、友軍として徳川家康軍の他、池田勝正・松永久秀などの畿内武将、公家である日野輝資・飛鳥井雅敦などの公家をも引き連れ、総勢3万人とも言われる大軍を率いて京を出陣し若狭国に向かって進んでいきます。
そして、坂本を経て和邇に入り、同年4月21日に田中城で1泊した後、今津を通過した後に九里半街道を経て、同年4月22日に若狭国熊川宿に入ります。
この若狭国に入った織田信長の動きに対して朝倉義景が武藤家の救援の兵を向かわせたため、この時点で織田信長が越前国攻撃の口実を得ます。
これにより織田方(幕府軍)対朝倉方の対決となります。
そこで、織田信長は、攻略目標を越前国に変更し、翌同年4月23日に若狭国佐柿(現在の福井県三方上郡美浜町)の国吉城に入ります。
なお、足利義昭が、将軍権威の復活を周知するために自らが将軍に就任したことをきっかけとして元号を「元亀」と改元するべく朝廷に奏請したため(言継卿記・永禄12年4月8日条ほか)、同年4月23日に元号が「元亀」に改元されています。
若狭国から越前国へ侵攻
越前侵攻の名目を得た織田信長は、敦賀に侵入して妙顕寺に布陣した後、元亀元年(1570年)4月25日に天筒山城(現在の敦賀市)を攻撃してこれを陥落させます。
その上で、翌日に天筒山と尾根続きの構造となっている金ヶ崎城に攻め込む予定としたのですが、翌同年4月26日に金ヶ崎城を守る朝倉景恒が金ヶ崎城を開城して府中に撤退したため、織田信長は戦うことなく金ヶ崎城を手にします。
他方で、以上の織田軍の動きに対し、朝倉方では敦賀郡での防衛を諦め、狭い戦線を構築できる防衛に向いた木ノ芽峠一帯で織田軍を待ち受ける作戦を取り、近江越前の国境に位置する疋檀城から兵を引き上げて織田軍を越前国内に引き入れることとしたため次の戦線が木ノ芽峠に決まります。
金ヶ崎城改修に着手
織田信長は、戦線が木ノ芽峠となったため、その最前線の城となる金ヶ崎城を改修するために職人を呼び寄せると共に、同城に池田勝正・明智光秀・木下秀吉などを同城に入れます。
そして、その上で先発隊を木ノ芽峠に向かわせます。
金ヶ崎の退き口
浅井長政の裏切り
ところが、ここで越前侵攻作戦を順調に進めていた織田軍に驚愕の事態が起こります。
織田信長の義弟である北近江の浅井長政が織田軍を裏切り、織田軍を挟撃するために迫っているとの報が届いたのです。
この報を聞いた織田信長は、浅井長政が義弟であること、形式的には織田信長が攻撃することとなっている若狭国と浅井家が無関係であることなどから、当初は虚報であるとして取り合わなかったのですが(信長公記)、次々と同様の報が届けられたために浅井長政裏切りの事実が真実であると認めざるを得なくなります。なお、浅井長政に嫁いでいた織田信長の妹であるお市の方が、織田信長への陣中見舞いとして袋の両端を縛った「小豆の袋」を送り、挟み撃ちの危機を伝えたという逸話があるのですが(朝倉家記)、これは後世の創作とされています。
こうなると、順調な作戦行動を取っていたはずの織田軍は、一転して危機に陥ります。
越前国の朝倉軍(北側)と北近江の浅井軍(南側)によって挟撃される危険が生じたためです。
このときの兵は朝倉・浅井連合軍が2万人であったのに対し、織田軍が3万人であったため兵数では織田軍が圧倒しているのですが、兵站が断たれてしまっては戦えません。
挟撃を受けると士気を失った大軍の利はなくなり、下手をすると殲滅されて討ち取られる危険もあるからです。
撤退を決断(1570年4月28日)
そこで、織田信長は、越前国・朝倉攻めを中止し、京に撤退するとの決断を下します。
そして、その撤退作戦としては、木ノ芽峠に向かって北上させていた軍を南下させて一旦金ヶ崎城に入れ、殿として池田勝正・明智光秀・木下秀吉を残した上、残りを京に向かって全軍撤退させることなります。
なお、通説では、このときに木下秀吉が名乗り出て殿軍の大将を務めることとなったとされているのですが、摂津守護の池田勝正や幕府奉公衆の明智光秀がいた中で、身分の低い木下秀吉が大将を務めたとする説には強い疑問が残ります。
また、このときの殿に徳川家康も加わったとの説もありますが(寛永諸家系図伝・徳川実紀)、一次史料にその名が記録されていないこと、織田信長と同格の大将が殿として残ることなど考えにくいことなどから疑問が残ります。
朽木越え(1570年4月29日)
いずれにせよ、金ヶ崎城からの撤退を決断した織田信長は、浅井長政から攻撃を受ける可能性が高い進軍時のルートを避け、朽木谷を越えた京に戻るルートを選択して京に向かうこととします。
敦賀を経由して朽木谷近くまで到達した織田信長は、洞窟に身を隠して家臣を同地を治める朽木元綱の下に遣わし、朽木元綱に敵意がないことを確認した後に朽木谷に入ります。
そして、
元亀元年(1570年)4月29日に朽木谷に入った織田信長は、朽木元綱の屋敷で一泊することとなります。
このとき、朽木元綱は織田信長を殺すつもりだったのですが、松永久秀が朽木家と浅井家と関係が悪かった点をうまく使って朽木元綱を説得し、翻意させたと言われています(朝倉記)。
織田信長の京到着(1570年4月30日)
そして、朽木谷を出た織田信長は、朽木元綱の手引きによって京に向かい、元亀元年(1570年)4月30日、遂に京への撤退を成功させます。
織田信長があまりに急いで撤退したため、その道中で次々と供の者が脱落し、織田信長が京に到着した際に伴っていたのはわずか10人程度となっていたと言われています(継芥記)。
殿隊の京到着
織田信長が撤退した後に金ヶ崎城に残った織田軍諸将は、統率を維持したまま、攻め寄せてくる朝倉軍を退けては撤退を進め、また攻め寄せてくればこれを打ち払うを繰り返し、最小限ともいえる被害で京に向かいます。
そして、織田信長に遅れ、殿隊もまた京への撤退を成功させます。
金ヶ崎の退き口の後
織田信長が岐阜へ向かう
命からがら京にたどり着いた織田信長は、その後体勢を立て直すため、岐阜に戻ることとします。
この点、京から岐阜に戻るには、現在の彦根・米原の辺りから東へ向かうルート(現在の東海道新幹線が走るルート)が最短・最楽な一般的ルートなのですが、この辺りは北近江を支配する裏切者の浅井長政が通してくれるはずもありません。
実際、浅井長政は、鯰江城(滋賀県東近江市)に兵を配置したり、市原(同)の一揆勢を扇動したりするなどして織田信長の岐阜帰還の妨害工作を行っています。
そこで、織田信長は、日野の蒲生賢秀、布施の布施公保、香津畑の菅秀政らの協力の下、伊勢方面へ抜ける南側の千草峠を越えるルート(千草街道)を通る道を選択します。
前記最短ルートよりも30kmほど遠回りになるものの、浅井長政に妨害されない安全なルートであると織田信長は判断しました。
織田信長狙撃(1570年5月19日)
ところが、このときに金ヶ崎の退き口で命からがら京に逃れた織田信長が、本拠地岐阜に帰還する際に必ず千草峠を越えると踏んだ人物がいました。六角義賢です。
六角義賢は、急ぎ杉谷善住坊という鉄砲の名手を雇い、千草峠で織田信長を狙撃して暗殺するという計画を立て、杉谷善住坊に千草峠内で隠れて織田信長を待たせます。
織田信長は、軍勢を立て直し長政討伐の準備にとりかかるため元亀元年(1570年)5月9日に京を出て岐阜へ向かったのですが、同年5月19日、六角義賢の予想通り織田信長が千草峠にやってきたところで、杉谷善住坊に2発狙撃されます。
もっとも、この2発とも織田信長に致命傷を与えることはできず、かすり傷を負っただけの織田信長は、同年5月21日に無事岐阜に帰還し、ここから浅井長政・朝倉義景との長い戦いに入っていくこととなります。