【武田信玄の伊那盆地侵攻】諏訪攻略後の標的となった北伊那攻略戦

東に北条、南に今川という超大国がある甲斐国・武田家としては、領土を拡大するためには北西の信濃国に向かうほかはありません。

この点、信濃国は山地で平野部が遮られているために超大国が成立することはなく、伊那・諏訪・佐久・善光寺平・上田・松本という6つの盆地に国人衆が群雄割拠している状態でした。

そこで、武田信玄は、これらの小勢力を各個撃破していけば国力の増強が図れると考え、本拠地である甲斐国に近い場所から順に攻略作戦を展開していきます。

天文11年(1542年)9月に信濃国・諏訪郡を攻略した武田信玄は、続いて伊那獲得を目指すのですが、伊那盆地への侵攻は諏訪盆地から行うこととなりますので、まず攻略対象となるのは伊那郡北部(上伊那)となり、具体的には藤沢頼親が治める福与城と高遠頼継が治める高遠城に決まります。

なお、本稿がどの段階の話であるかについては、別稿【武田信玄の領土拡大の軌跡】をご参照ください。

第1次上伊那侵攻作戦

武田側の伊那侵攻準備

天文12年(1543年)、信濃国・小県郡の長窪城を攻略して大井貞隆を自害に追い込み、同城をもって信濃国北部・中部の防衛を図ります。

また、天文12年(1543年)5月、上原城を修築し、信濃国侵攻のための拠点として整備し、板垣信方を諏訪郡代として在城させます。

これらの準備を整えた上、武田信玄はいよいよ上伊那への本格的な侵攻を開始します。

上伊那衆の対抗策

以上の武田方の準備に対し、上伊那衆も手をこまねいていたわけではありません。

特に、福与城を治める藤沢頼親は、武田軍が諏訪・上原城から有賀峠を越えて上伊那に侵攻してくることを想定し、福与城の北側の備えとなる地である天竜川東岸の丘陵地(諏訪からの街道沿い)に荒神山に砦を築いて福与城の支城とし、武田軍の侵攻に備えます。

荒神山城攻め(1544年11月1日)

以上の状況下において、いよいよ武田軍が動きます。

天文13年(1544年)11月、武田信玄の弟である武田信繁を総大将とする侵攻軍が諏訪・上原城の板垣信方を従えて出陣し、有賀峠を越えて上伊那に進入します。

そして、山を越えて伊那盆地に抜けた武田軍は、そのまま藤沢頼親が新たに築いた荒神山城に向かい、天文13年(1544年)11月1日、同城を攻撃します。

城兵は、侵攻してくる武田軍に必死に抵抗しますが荒神山城はわずかな時間で陥落します。

松島原の戦い(1544年11月2日)

荒神山城を攻略した武田信繁率いる武田軍は、そのまま南下し、藤沢頼親の守る福与城に迫ります。

このとき、藤沢頼親は、福与城から迎撃の兵を出したため、天文13年(1544年)11月2日、福与城の北側にある松島原で武田軍と対峙して合戦となります。

松島原の戦いでは決定的な勝敗はつかず、合戦後に藤沢頼親軍が松島原の陣を払って福与城に撤退したため、武田軍はそれを追って福与城を囲みます。

福与城攻め(1544年11月)

福与城を囲んだ武田軍は、福与城攻撃を続けますが、攻略は難航し、月日だけがいたずらに経過するだけで福与城は一向に落ちませんでした。

このとき、武田軍が福与城に足止めされているのを見て、高遠城主・高遠頼継が軍を率いて手薄となった諏訪・上原城を狙います。

この高遠頼継の動きに危険を感じた武田信繁は、直ちに福与城の包囲を解いて、急ぎ諏訪・上原城に向かって撤退します。

武田信繁軍は、なんとか高遠軍が諏訪に到達する前に諏訪に帰り着くことができたため、高遠軍に諏訪を攻略されることはありませんでした。

もっとも、この武田軍の諏訪帰還により、天文13年(1544年)の武田軍の第1次上伊那侵攻は失敗に終わります。

なお、武田信繁が戻ったために上原城攻略ができないと判断した高遠頼継は、諏訪領内に火を放って散々に荒らしまわった後、高遠城に帰還しています。

第2次上伊那侵攻作戦

高遠城攻め(1545年4月)

前年の上伊那侵攻作戦が失敗に終わった武田信玄は、雪解けを待ち、天文14年(1545年)4月、再度上伊那侵攻作戦を開始します。

同年4月11日、穴山信友や小山田信有らを主力とする7000人の兵を率いて甲府・躑躅ヶ崎館を出陣し、同年4月14日に諏訪・上原城に入ります。

今度の狙いは福与城ではなく高遠城でした。

そこで、上原城を出陣した武田軍は、そのまま杖突峠を抜けて、翌同年4月15日に高遠城を奇襲します。

高遠頼継は直ちに福与城に後詰の依頼を出しましたが、その到着前に高遠城は落城し、高遠頼継は城を捨てて逃走します(なお、高遠頼継は、その後、武田信玄に降って臣従しています。)。

福与城攻め(1545年4月)

(1)今川義元への援軍要請

高遠城を攻略した武田信玄は、前年に攻略を逃した福与城攻略のため、武田軍を率いて高遠城を出て北進し福与城を目指します。

福与城に取りついた武田軍は、天文14年(1545年)4月20日から福与城を包囲して攻撃を開始します。

もっとも、福与城の守りは固く、またしても1ヶ月以上もの期間が経過しても城は落ちません。

しかも悪いことに、城を囲んでいる間に、藤沢頼親の後詰要請に応じ、北の林城から小笠原長時軍が、南の松尾城から小笠原信定の援軍が迫ります。

危機が迫る武田信玄は、武田軍単独での福与城攻略が困難であると判断し、駿河国・遠江国を治める今川義元に援軍を要請します。

(2)龍ヶ崎城の戦い(1545年6月)

武田信玄からの援軍要請に応じて、今川義元は援軍を派遣し、まずは福与城の北側からの後詰の軍である小笠原長時軍を討つべく上伊那に向かい、竜ケ崎城手前で武田軍の板垣信方と合流します。

そして、竜ケ崎城に入った小笠原長時軍を、今川義元軍と板垣信方軍が攻撃して同年6月1日龍ヶ崎城を陥落させ、小笠原長時を本拠地・林城に撤退させます。

次に、南側から後詰の軍である小笠原信定に対しては、武田信玄が、福与城を囲む兵から牽制軍を割き、福与城に近づけさせないこととしました。

(3)藤沢頼親の降伏と福与城陥落(1545年6月11日)

北からの小笠原長時軍が撤退し、南からの小笠原信定軍が進軍できない状況となり、福与城への後詰の可能性が失われます。

後詰の望みがないことが明らかとなった福与城では、士気が一気に低下します。当然です。

福与城の士気が下がったのを見て取った武田信玄は、福与城主・藤沢頼親に降伏を勧告します。

城を囲まれて50日が経過した同年6月11日、これ以上の抵抗は不可能と判断した藤沢頼親は、弟である権次郎を人質に出し、かつ起請文を提出することによって武田信玄に降伏し、福与城を明け渡します。

城を受け取った武田信玄は、福与城に火を放って破却し、藤沢頼親は流浪の身となります。

以上の高遠城と福与城の攻略をもって、天文14年(1545年)の第2次上伊那侵攻により、武田信玄は信濃国・上伊那を獲得します。

上伊那獲得後

以上の経過を経て上伊那を獲得した武田信玄でしたが、武田軍の損害も大きく、そのまま下伊那まで攻略することはできませんでした。

そこで、武田信玄は、高遠城を下伊那攻略のための拠点とすべく、天文16年(1547年)に山本勘助・秋山虎繁に大規模改修させます。

上伊那を平定した武田信玄は、下伊那より先に佐久盆地を獲得するため、天文16年(1547年)7月より佐久侵攻作戦を開始します。

そして、佐久・小県を獲得した後、天文23年(1554年)に下伊那を平定した後の弘治2年(1556年)に、秋山虎繁を高遠城代して入れ、上伊那を治めさせます。

そして、永禄5年(1562年)、武田信玄の庶子である武田勝頼が諏訪氏を継承した際、高遠城が与えられ上伊那郡代(郡司)に就任しています。

“【武田信玄の伊那盆地侵攻】諏訪攻略後の標的となった北伊那攻略戦” への2件の返信

    1. 柴徳昭 様

      コメントありがとうございます。
      励みになります。
      また,ご紹介いただきましたホームページも参考にさせていただきます。
      ありがとうございました。

日本史勉強中。 へ返信する コメントをキャンセル

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