比叡山焼き討ち(ひえいざんやきうち)は、元亀2年(1571年)9月12日、織田信長が、比叡山麓の寺内町と延暦寺に対して総攻撃をしかけてこれらを焼き払うと共に僧侶・学僧・上人・児童に至るまで虐殺し尽くしたと言われてきた戦いです。
この点については、織田信長が比叡山延暦寺を無効化したことは争いがないのですが、その規模やそこに至る合戦の経緯は諸説あり、その真偽は必ずしも明らかではありません。
そればかりか、近年の発掘調査によると、織田信長による焼き討ちの前から比叡山の施設の多くは廃絶していた可能性が指摘され、これまで伝えられていたような戦いではなかったとする説も有力になってきています。
本稿では、これらも踏まえ、織田信長によって行われた比叡山焼き討ちについて、そこに至る経緯から順に説明したいと思います。
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比叡山焼き討ちに至る経緯
金ヶ崎の戦い(1570年4月)
足利義昭を奉じて上洛した後で瞬く間に畿内を制圧した織田信長は、自分の地盤を固めていくため、征夷大将軍・足利義昭の名を使って周囲の大名に上洛を促していきます。
各大名に対する、織田信長への事実上の臣従圧力です。
これに反発した朝倉義景を討伐するため、元亀元年(1570年)4月、越前国に向かった織田信長でしたが(当初は若狭国解放目的)、越前攻略戦の途中で義弟である北近江を治める浅井長政の裏切りにあいます。
敵地越前で退路を断たれる形となった織田軍は、混乱し朝倉義景軍に大敗します。
織田信長は、池田勝正・明智光秀・木下秀吉を殿に残して、命からがら京都に撤退するという結果に追い込まれます(金ヶ崎の退き口)。
そして、命からがら京都にたどり着いた織田信長は、その後体勢を立て直すために岐阜に戻り、宇佐山城に森可成、永原城に佐久間信盛、長光寺城に柴田勝家、安土城に中川重政を配置して守りを固め、煮え湯を飲まされた浅井長政・朝倉義景に対する反撃準備を開始します。
なお、このとき、観音寺城の戦いで織田信長に追われ伊賀に逃げていた六角義賢・義治父子が、金ヶ崎の戦いで織田信長敗北の報を聞き、潜伏していた甲賀郡で兵を挙げ、旧領を回復するためにかつての居城である観音寺城に向かっていきます。
これに対し、織田信長は、南近江国に配置していた柴田勝家、佐久間信盛らを差し向け、元亀元年(1570年)6月4日に野洲河原でこれを撃破しています(野洲河原の戦い)。
姉川の戦い(1570年6月28日)
そして、本拠地岐阜で軍勢を整えた織田信長は、煮え湯を飲まされた浅井長政を討伐するため、満を持して浅井長政の本拠地である小谷城に向かって進軍していきます。
そして、小谷城下町焼き討ち・横山城包囲戦を経た後、浅井軍には朝倉援軍が、織田軍には徳川援軍が到着したことにより軍が出そろったため、1570年(元亀元年)6月28日、両軍が姉川を挟んで対峙して姉川の戦いが始まります。
この戦は織田・徳川連合軍の勝利に終わったのですが、敗走した浅井・朝倉連合軍を殲滅するには至らず、織田軍もまた小谷城攻めをすることなく小谷城下に火を放っただけで本拠地である岐阜城に帰還するにとどまっています。
野田城・福島城の戦い(1570年8月)
ところが、織田信長が、浅井討伐のために領内から兵を動員して北近江に向かったため、元亀元年(1570年)6月ころから織田方の主力部隊が畿内からいなくなります。
これを好機と見た三好三人衆が、同年6月19日、摂津池田城主・池田勝政の重臣であった荒木村重をけしかけて池田城を奪取させ、同年7月21日、三好三人衆が摂津に再上陸、野田と福島に砦を築いて、これらを拠点に反織田の兵を挙げます。
この動きに、畿内の反織田勢力であった、三好康長・十河存保・細川昭元・斎藤龍興・長井道利などが次々と参加し、その勢力は8000人にまで膨れ上がり、反織田ののろしを上げた三好三人衆が、同年8月2日、まず織田方についていた三好義継率いる300人が守る古橋城を攻略して三好義継を追い払います。
姉川の戦いを終えて岐阜に戻った織田信長は、いそぎ再度軍備を整えて4万人の兵を率いて同年8月20日岐阜城を出立し、同年8月26日に天王寺に到着し本陣を置きます。
その後、織田軍は、周辺諸城を奪還し、三好三人衆が籠る野田城・福島城を取り囲み、落城寸前まで攻め立てました。
ところが、同年9月13日、石山本願寺法主顕如が三好三人衆と同調して蜂起し、多数の門徒が織田軍を攻撃し始めました(10年間に及ぶ石山合戦の始まりです。)。
本願寺勢が現れたことにより、織田軍はもはや野田城・福島城攻めどころではなくなります。
さらに、ここで織田信長が野田城福島城の戦いで摂津に釘付けとなっていることをチャンスと見た浅井長政・朝倉義景に延暦寺僧兵までもが加わって、琵琶湖西岸を南下し、京を目指して南近江に侵攻してきます。
結局、周辺の一向宗門徒の攻撃と、浅井・朝倉連合軍の南近江攻撃により、野田城・福島城攻めを維持できなくなった織田軍は、同年9月23日、柴田勝家を殿に残して野田城・福島城の包囲を解き、南近江救援(浅井・朝倉戦線)に向かいます。
こうして、野田城・福島城の戦いは、織田信長の敗北に終わります。
志賀の陣(1570年9月16日)
兵数が少なくなり手薄となった南近江への侵攻を開始した浅井・朝倉連合軍は、まず森可成が守る琵琶湖西岸方面における織田方の重要拠点・宇佐山城を攻撃します。
危険を察した織田方は、救援として織田信長の弟織田信治、近江国衆青地茂綱などが駆けつけるのですが、北から浅井・朝倉連合軍に西からの比叡山延暦寺の僧兵を加えた計3万人挟撃を受け、織田信治・森可成・青地茂綱ら3将は討死します(なお、守将を失った宇佐山城は、森可成の家臣である各務元正、肥田直勝などが中心となって抗戦し落城は免れています。)。
織田方の防衛線を破った浅井・朝倉軍は、粘る宇佐山城攻略を諦め大津へ進軍し、元亀元年(1570年)9月21日には醍醐、山科まで侵攻し、京都まで迫りました。
これに対し、前記のとおり、この報を聞いた織田信長が、京が浅井・朝倉軍に落ちた影響を考え、野田城・福島城の囲みを解いて大津方面に向かったため、不利を悟った浅井・朝倉連合軍は延暦寺の庇護の下で比叡山に篭ります。
同年9月24日、逢坂を越えて坂本に到達し比叡山を包囲した織田信長は、比叡山延暦寺に対して「織田方につくならば織田領の荘園を回復するが、それができないなら中立を保ってほしい。もし浅井・朝倉方につくならば焼き討ちにする」と通告します。
ところが、永禄12年(1569年)に織田信長が比叡山領を横領した際に天台座主応胤法親王が働きかけて朝廷が寺領回復を求める綸旨を下したにもかかわらず織田信長がこれに従わなかった経緯もあったことから、延暦寺は織田信長を恨んでおり、延暦寺側は織田信長の通告を無視します。
浅井・朝倉軍が比叡山延暦寺に篭ったことにより、織田軍は早期決戦を行うことができなくなり、比叡山を包囲するだけでいたずらに時間が過ぎていきます。
この間も織田信長が退去した摂津では三好三人衆が活動しており、長引く不利を悟った織田信長は、同年10月20日になって菅屋長頼を使者を立てて朝倉義景に決戦を促したものの黙殺されます。
さらに織田方に都合が悪いことに、織田信長が比叡山包囲のため、身動きがとれなくなっていることを知った各地の反織田勢力はこの機に一気に挙兵するに至りました。
具体的には、六角義賢が近江の一向門徒と共に南近江で挙兵して美濃と京都の交通を遮断したほか、伊勢長島では顕如の檄を受けた願証寺の門徒が一向一揆を起こしています。なお、三好三人衆は野田城・福島城から打って出て京都を窺っているが、これは和田惟政が食い止めています。
包囲後2ヶ月を経過した同年11月末になっても、依然として比叡山に籠る浅井・朝倉軍は降伏する様子を見せませんでした。
織田信長は、比叡山を取り囲んでいる間にこれ以上反織田の勢力が連なるのを問題視し、同年11月30日、朝廷と足利義昭を動かして講和を画策します。
他方の朝倉義景も豪雪により比叡山と本国の越前の連絡が断たれるという問題が出てきたために継戦に不安を持っていました。
そこで、同年12月13日になって正親町天皇と足利義昭の仲介を受け入れ、織田信長と朝倉義景が講和に同意し、志賀の陣は浅井・朝倉・延暦寺の勝利、織田信長の敗北により終結します。
足利義昭暗躍(1571年~)
志賀の陣に敗れて織田信長の勢いに陰りが出始めたと見た足利義昭は、自らに対する織田信長の影響力を相対的に弱めようとして、1571年(元亀2年)年初ころから、浅井長政・朝倉義景・三好三人衆・石山本願寺・比叡山延暦寺・六角義賢・武田信玄らに反織田信長の決起を求める御内書を下しはじめます。
この結果、足利義昭を中心として、信長包囲網が敷かれていくこととなります(第ニ次信長包囲網へ)。
他方、織田信長は、分散する織田包囲網を各個弱体化させることに力を費やしていく必要性に迫られます。
このとき、織田信長が重視したのが、本拠地岐阜と畿内との導線の障害となる、北近江の浅井長政(琵琶湖東側の障害)と比叡山延暦寺(琵琶湖西側の障害)に対する対策でした。
琵琶湖東側確保策(1571年1月)
最初に対処したのは琵琶湖東側の浅井対策でした。
織田軍にとっては岐阜と畿内の導線回復、包囲網側にとっては浅井・朝倉と三好三人衆との連絡網遮断のため、織田信長は、元亀2年(1571年)1月2日、横山城に入れていた木下秀吉に命じて大坂から越前に通じる海路・陸路を封鎖させ、越前・北近江と畿内との連絡路を遮断します(尋憲記)。
その上で、織田信長は、同年2月、小谷城と遮断されて孤立していた佐和山城主であった磯野員昌が降伏させて立ち退かせ、代わりに同城に丹羽長秀を入れて織田方の岐阜城から湖岸平野への通行路を確保します。
比叡山延暦寺焼き討ち
琵琶湖西側確保策
琵琶湖東側の遮断に成功した織田信長は、次に琵琶湖西側の確保に着手します。
このときに大きな問題となるのが比叡山延暦寺でした。
比叡山延暦寺は、北陸路と東国路の交差路に位置する上、山間の狭路である逢坂山を望み、また山上には数多い坊舎があるために数万の兵を擁することが可能な戦略的に重要な拠点となっていたからです(そのため、大軍を誇る織田軍は隊列を細長く伸ばして通過しなければならない場所となっていた一方で、比叡山側は多数の僧兵を配置できる場所となっており、織田信長にとって極めて危険なルートとなっていました。この危険性は、桶狭間の戦いの際に伸び切った隊列を襲撃して今川義元を討ち取った織田信長が誰よりも理解しています。)。
また、先の志賀の陣に際しては延暦寺が浅井・朝倉連合軍を匿ったことから織田軍大敗北の要因を作出したことから、織田信長軍は、比叡山延暦寺に対して強い恨みを持っていました。
さらに、俗世の人と同様に魚鳥を食し、女を囲い、商売にふけって堕落していた僧たちに遠慮することもありませんでした。
そこで、織田信長は、戦略的重要地にあり恨みの対象でもあった比叡山延暦寺を徹底的に破壊することに決めます。
比叡山を包囲(1571年9月11日夜半)
元亀2年(1571年)9月、織田信長は、比叡山延暦寺を殲滅するための軍を編成し、3万人という大軍を率いて創建以来比叡山と対立関係にある三井寺周辺まで進軍し、三井寺山内の山岡景猶の屋敷に本陣を置きます。
このとき織田信長率いる大軍を見た比叡山延暦寺は、急ぎ黄金の判金500枚(比叡山延暦寺から300枚・堅田から200枚)を織田信長に贈ることにより攻撃中止を嘆願しますが、織田信長はこれを拒否し、延暦寺からの使者を追い返します。
この結果、戦闘やむなしと判断した延暦寺は、坂本周辺の僧侶・僧兵・住民を山頂にある根本中堂に集合させ戦闘準備を整えます。
他方、織田信長もまた、元亀2年(1571年)9月11日夜半、率いてきた軍を総動員して比叡山を完全に包囲させ、決戦の準備が整います。
比叡山総攻撃(1571年9月12日)
そして、元亀2年(1571年)9月12日、坂本・堅田などの比叡山麓の門前町に火が放たれたのを合図として、比叡山を取り囲む織田軍による比叡山総攻撃が始まります。
この後、織田軍は、山中にある堂宇に火を放ち、敵対して来る僧を殺戮しながら延暦寺を目指して比叡山を上って行きます。
なお、かつては、このときに根本中堂を含めた山中のほとんどの堂宇が焼かれ、僧・女子供を含めて比叡山側に数千人(信長公記だと数千人・言継卿記だと3000~4000人・ルイスフロイスの書簡だと1500人)の死者が出たとされていました。
ところが、近年の東塔・西塔・横川の発掘調査によると、比叡山中に平安時代から残る遺物が相当数残っていることが明らかとなり、このときの焼き討ちにより焼失したことが明らかとなっているのは「根本中堂」と「大講堂」だけであったことが判明しました(この結果、他の堂宇はこのとき以前に廃絶されており、そのために多くの僧もまた山麓である坂本にいたとする説が有力となっています。)。
そのため、かつての織田信長が比叡山を焼き尽くし数千人を虐殺したという説は誇張が過ぎるとして、現在では消極的に解されています。
以上のとおりその規模は必ずしも不明なのですが、織田信長が、260箇所の領地や坂本の7つの港を含めた様々な利権を保持した比叡山延暦寺を無効化し、それらを手中に収めたことは間違いありません。
比叡山焼き討ち後
戦後処理(1571年9月13日)
比叡山延暦寺が焼かれていったのを見届けた織田信長は、戦後処理を明智光秀に任せ、元亀2年(1571年)9月13日午前9時頃、馬廻り衆を従えて比叡山を出立し京に入ります。
その後、比叡山周辺に展開していた織田軍は、延暦寺の次に、周囲にある日吉大社・三宅城・金森城(金森御坊)などに攻撃をしかけ、これらを攻略していき、延暦寺のみならず日吉大社をはじめとする坂本周辺の敵対仏教勢力を破却してその寺領・社領の全てを没収します。
論功行賞
織田信長は、比叡山延暦寺等から没収した土地や利権につき、論功行賞として臣下に分け与えます。
このときの配分は、明智光秀・佐久間信盛・中川重政・柴田勝家・丹羽長秀を中心として行われたのですが、その中でも特に当時宇佐山城主であった明智光秀に対するものは特別であり、明智光秀に対して織田家中で初めて知行となる近江国滋賀郡が与えられました。なお、織田家中では、このときまでに城を与えられていた家臣はいたのですが(永原城の佐久間信盛・長光寺城の柴田勝家・佐和山城の丹羽長秀・宇佐山城の森可成など)、知行を与えられたのは、記録がある中では明智光秀が初めてです。
そして、明智光秀は、元亀2年(1571年)、織田信長の命により、比叡山と京に対する抑えとして坂本城を築城して入城します(城付知行)。
延暦寺の没落
他方、比叡山を負われた僧侶は全国にちりじりに散らばります。
このうち、正覚院豪盛らが、甲斐の国に下って武田信玄の庇護を受けたことから、これにより、武田信玄が延暦寺の復興を果たす目的で京に上るという大義名分を獲得します。
なお、この後、武田信玄は織田信長に対して書状をしたためた際に自らを「天台座主」と名乗り、これ対して織田信長は自らがしたためた書状に「第六天魔王」と名乗ったと言われていますが(ルイスフロイスの書簡)、その真偽は不明です。
いずれにせよ、延暦寺の僧を取り込んだことにより大義名分を得た武田信玄が、その後に武田信玄の西上作戦を展開していくのですが、長くなりますので別稿に委ねます。
その後の比叡山復興の動き
安土桃山期の復興活動
坂本の地を与えられた明智光秀の手により坂本の町で焼失した寺(西教寺)が復興を果たします。
織田信長は、延暦寺の復興を認めませんでしたが、明智光秀による西教寺の復興に伴って延暦寺麓にある坂本の町にそれまでの人が戻ってきたため、間接的に延暦寺の復興に寄与していくこととなります。
その後、天正10年(1582年)6月2日に織田信長が、同年6月13日に明智光秀が死去すると、全国に散らばっていた延暦寺僧侶たちが続々と比叡山に戻り、復興を目指した活動をしていきます。
延暦寺僧侶たちは、織田信長の後に天下人となった豊臣秀吉に山門の復興を願い出ます。
もっとも、比叡山延暦寺焼き討ちにも関わっていた豊臣秀吉は、なかなかその願いを許しませんでした。
もっとも、豊臣秀吉は、すぐに山門の復興をすることを許さなかったのですが、詮舜とその兄賢珍の2人の僧侶に対して陣営への出入りを許し軍政や政務について相談するなどしており、少しずつその関係性は改善していきます。
そして、天正12年(1584年)5月1日、ついに僧兵を置かないことを条件として正覚院豪盛と徳雲軒全宗に対して山門再興判物が発せられ、造営費用として青銅1万貫が寄進されて山門の復興が許されるに至ります。
江戸期の復興活動
そして、江戸時代に入りると、延暦寺は本格的な復興期に入ります。
3代将軍徳川家光の時代に、江戸の町の鬼門の方向に東の比叡山という意味で東叡山寛永寺が建立されたのですが(永らく京を護った比叡山に倣って命名されました。)、それに伴い、延暦寺自体も徳川将軍家によって復興が進められてかつての姿を取り戻していくこととなったのです。
徳川家光の手によって根本中堂の復興も行われます(このとき復興された根本中堂は、その後の60年に1度の修復を経ながら現在に至っています。)。