【島津の退き口】捨て奸を駆使した前進敵中突破による撤退戦

島津の退き口(しまずののきぐち)は、慶長5年(1600年)9月15日に起こった関ケ原合戦で、島津義弘が味方した西軍が敗れ総崩れとなる中、最後まで戦場に残っていた島津義弘隊が、突然行った敵中突破による前進退却です。

戦場からの退却は、通常、敵の最も少ない場所を狙って行われるものなのですが、島津の退き口では、敵が最も多い徳川家康本陣に向かって突撃する形で始まるという極めて異質な作戦でした。

しかも、多大な犠牲を払いながらも大将の島津義弘を薩摩に帰国させることに成功したこと、その途中で「捨て奸(すてがまり)」や「座禅陣」と呼ばれる足止め隊の活躍があったことなどから、現在にまで語り継がれる退却劇となっています。

本稿では、世に名高い「島津の退き口」について、その発生に至る経緯から説明していきたいと思います。

島津の退き口に至る経緯

徳川家康による会津征伐軍出陣

慶長3年(1598年)8月18日に天下人・豊臣秀吉が死亡したことにより、一旦泰平の世となった世界が、織田信長・豊臣秀吉の下でひたすら耐え忍んでいた徳川家康が動き始めたことをきっかけとして動き始め、徳川家康は、各大名と縁戚関係を結ぶなどして味方となりそうな各大名の取り込みを始めます。

他方、徳川家康は、敵対する大名に対しては、豊臣秀吉の遺児である豊臣秀頼の後見と称して武力で脅し、服従を強いていきます。

そして、徳川家康は、同じく豊臣政権で五大老の一員を担っていた上杉景勝に対して謀反の疑いありとし、その釈明をするために上洛するよう求めるとの形式で、徳川家康への臣従を迫ったのですが、上杉景勝は、有名な「直江状」を送り付けて徳川家康の提案をはねつけます。

直江状を見た徳川家康は激怒し、会津征伐の兵を興して大坂を離れます。

石田三成挙兵(1600年7月)

大坂を離れた徳川家康が大坂を離れたことにより、その影響力が失われたと判断した反徳川家康派の大名は勢い付き、徳川家康と入れ替わる形で、慶長5年(1600年)7月19日、前田玄以、増田長盛、長束正家の三奉行の要請の下で、毛利輝元を大坂城に迎え入れます。

毛利家の助力を得た石田三成は、毛利輝元を総大将・石田三成を実質的指揮官とする対徳川家康連合軍が組織し、三奉行連署からなる家康の罪状13か条を書き連ねた弾劾状(内府ちがいの条々)を記して諸大名に発送すると共に、このとき集まった兵を率いて挙兵し、東に向かって進軍していきます(最初の目的地は、鳥居元忠が守る伏見城でした。)。

こうして、反徳川家康派と、親徳川家康派とが分かれて争う形が出来上がり、さらにこの争いが全国に波及していきます。

東軍の伏見城への入城を断られる

このとき島津家では、豊臣秀吉による、島津家臣の所領入れ替え、島津義久を冷遇して島津義弘を当主と扱うことによる家中分離策、朝鮮出兵による疲弊により、弱体化が進んでいました。

もっとも、関ヶ原の戦いが始まる気配を見せると、そんな島津家にあて島津義弘が、「徳川家康に味方するために」義勇兵を集めて薩摩国を出立し、大坂にいた1000人ほどの兵も吸収します。

ここで、島津義弘は、徳川家康からの参戦要請を受けて、徳川方の鳥居元忠が守る伏見城への入城を試みたのですが、島津義弘の参戦を聞かされていなかった鳥居元忠は、島津義弘の入城を拒否します(このエピソードの真偽は不明ですが)。

行きがかりから西軍に参戦

兵を集めて参集したにもかかわらず東軍への参加を許されなかった島津義弘は、やむなく石田三成率いる西軍への参加を決めます。

もっとも、行きがかりとはいえ、参加した側の勝利を望む島津義弘は、徳川家康軍に対する夜襲策などの複数の策を石田三成に献策します。

ところが、島津義弘が率いる軍が1500人程度であったことなどから、石田三成は島津義弘を軽視します。

それどころか、関ヶ原の戦いの前日、その前哨戦として墨俣川(長良川)を挟んで両軍が対峙していたのですが、石田三成は、両軍の戦いが関ヶ原において行うことと決め、これを島津義弘に伝えることなく西に下がってしまいます。

その結果、島津義弘隊が、美濃国・墨俣において取り残されるという結果となり、決戦前夜に石田三成と島津義弘との間に亀裂が生じることとなったのです。

関ヶ原の戦い(1600年9月15日)

そして、慶長5年(1600年)9月15日午前10時ころ、関ヶ原一帯にて、石田三成率いる西軍と徳川家康率いる東軍との決戦が始まります(関ヶ原の戦い)。

もっとも、事前の確執もあって、戦いが始まっても島津義弘は、攻め込んでくる東軍の兵を撃退はするものの、率いる1500人の兵を動かそうとはせず沈黙を続けます。

そして、当初は互角の戦いを続けていた両軍でしたが、西軍の小早川秀秋・脇阪安治・小川祐忠らの裏切りにより戦局が大きく動き、同日午後0時ころには、西軍が総崩れとなって東軍の勝利が確定します。

島津の退き口

島津義弘の決断

敗北を悟った西軍諸将が次々と西に向かって退却していきます。北側・東側・南側には徳川軍がひしめいていますので、当然の退却路です。

ところが、そんな中でも島津義弘は、陣形を維持したまま関ヶ原の地にとどまり続けます。敗北を悟った島津義弘が、切腹をして果てることを考えたからです。

もっとも、島津義弘は、島津豊久らの説得により切腹を思いとどまります。

死なないのであれば撤退しかありません。

ここでついに、島津義弘は残る兵に撤退のための陣形に変更する指示を出します。

後に島津の退き口として語り継がれる前代未聞の退却劇の始まりです。

なお、このとき、敗れた西軍の中で唯一陣形を維持する島津義弘隊に合流しようとして西軍各隊から多くの兵が群がってきましたが、撤退戦を行う上では士気の低い兵は足手まといでしかないと考えた島津義弘は、自隊の秩序を維持するために群がってくる兵を全て追い払います。

敵中突破(1600年9月15日午後2時)

そして、島津義弘は、徳川家康がすぐ東側にいることを知ると、率いる数百人の兵に対し、東側にいる徳川家康本隊に向かって突撃するよう命を下します。

通常、負けが決まった戦において寡兵で敵本隊に突撃する行為は玉砕です。死ぬまで戦うという死兵となるということを意味します。少なくとも、徳川方からはそう見えます。

勝ちが決まった徳川軍の将兵からすると、死兵の相手などしたくはないのが人情です。

中山道を東進して徳川家康本陣をめがけて突撃していく島津義弘軍に対し、これを避けるように徳川軍の将兵は道を空けます。

ところが、徳川家康本隊に突撃をしかけるように見えた島津義弘軍は、突然進路を南に変えて伊勢街道に入り、猛スピードで伊勢街道を南進していきます。

徳川家康本隊への突撃と見せかけたのは、伊勢街道を用いた退却だったのです。

完全に裏をかかれた徳川軍の将兵はいきり立ち、直ちに島津義弘軍への追撃を始めます。

このときの追撃軍の先行隊は、井伊直政隊、松平忠吉隊、本多忠勝隊などでした。

捨て奸1(島津豊久討死)

伊勢街道に入った島津義弘軍でしたが、関ヶ原には東軍(徳川軍)がひしめいており、次々と追撃軍が追いかけてきますので簡単に逃げ切れるはずがありません。

そこで、島津義弘隊が伊勢街道に入り切った後、島津豊久が、鳥頭坂近辺に殿として残り、島津義弘が退却するための時間を稼ぐこととします。

当然ですが、鳥頭坂に残った島津豊久の前に、島津義弘を追う井伊直政隊・松平忠吉隊・本多忠勝隊などの徳川軍が次々と押し寄せてきます。

これに対し、島津豊久は、松平忠吉を負傷させ、本多忠勝の愛馬を仕留めてその足を止めるなど、獅子奮迅の活躍を見せます。

もっとも、多勢に無勢であったために間もなく島津豊久も力尽き、最期を悟った島津豊久は、付き従う中村源助・上原貞右衛門・冨山庄太夫ら13騎と共に追いかけてくる徳川方の大軍の中へ駆け入り、島津義弘の身代わり(捨て奸)となって壮絶な討ち死にを遂げたと言われています(もっとも、討ち死にしたと言われる島津豊久ですが、その首級が挙げられていないため、正確な最期は不明です。)。

なお、徳川軍は、退却する島津義弘を追って、井伊直政を先頭として追撃していったのですが、このときの井伊直政の猛追に護衛の配下が追い付けず、単騎駆けのような状態であったといわれており、島津軍の柏木源藤に足を狙撃されて落馬したため、ここで井伊直政隊は脱落しています。

捨て奸2(長寿院盛淳が影武者となる)

島津豊久が討ち死にし、追撃の徳川軍が迫ってきたため、現在の大垣市上石津町牧田上野辺りに達した島津義弘隊からさらに殿として、長寿院盛淳が残ります。

このとき、長寿院盛淳は、剛力の家臣である玉林坊に島津義弘を背負って山中突破するように命じた後、島津義弘から拝領した陣羽織と、石田三成から拝領した軍配を身につけ、島津義弘と名乗って影武者として徳川軍をひきつけます。

そして、影武者の務めを果たした長寿院盛淳は、乱戦の末に供をした家臣18名と共に壮絶な最期を遂げたと言われています。なお、長寿院盛淳を討ち取ったのは松倉重政の家臣の山本義純といわれていますが(薩摩藩旧伝集)、その最後については諸説ありますので、実際のところは不明です。

島津の退き口の後

鈴鹿峠から伊賀を抜け大坂へ

島津の退き口と呼ばれる退却劇によって関ケ原からの撤退を成功させた島津義弘でしたが、まだまだ本拠地・薩摩国まではとてつもなく遠い道のりです。

関ケ原を抜けたとはいえ、山に分け入ってしまった以上、今度は落ち武者狩り等の危険にさらされます。

そのため、関ケ原を突破した島津義弘は、大垣城に入って合戦をしようと考えます。

もっとも、同じく西軍の将として敗退した長束正家の助言により、鈴鹿峠から伊賀へ抜ける道を選択します。

そして、島津義弘は、いつ裏切るかもしれない兵を引き連れ、同中で襲ってくる落ち武者狩りをする農民たちを振り払いながら、慶長5年(1600年)9月15日午後10時ころに駒野峠に入って夜を明かし、同年9月16日朝に田辺に到達します。

その後、関を経て、同年9月16日夜に信楽に到達します(信楽へのルートとして、鈴鹿峠・水口を越えたとする説【上図黄色矢印】と、大山田から伊賀を超えたとする説【上図橙矢印・東軍が水口を占領していたため引き返したとする説】があります。)。

そして、信楽で宿泊した後出立し、なんとか命からがらにたどり着きます。

ここで、堺から船を出せば当面の危機を脱することができるのですが、このまま船を出せば、西軍に対する忠誠の証として大坂に残してきた人質(島津義弘の継室である宰相殿や、島津義久の娘であり島津忠恒の正室である亀寿など)が、やがて大坂城に入るであろう東軍に確保されてしまい、その後の交渉において著しく不利な立場に立たされることとなるからです。

そのため、島津義弘は、同年9月22日、危険を冒してまで堺から大坂に向かって船を出し、人質や島津家の系図・家宝を回収します。

そして、このとき、島津義弘は、心強い味方を得ます。

同じく西軍に属しながら、京極高次が守る大津城攻略戦(大津城の戦い)に時間を費やしたために関ケ原の戦いに間に合わず、関ケ原の戦いに参加できなかった立花宗茂と合流できたのです。もっとも、立花宗茂からすると、父・高橋紹運の仇ともいえる島津家の人間と行動を共にすることに複雑な思いを抱いていたと思われます。

大坂から船で九州へ

島津義弘は、立花宗茂と共に船で大坂を出立し、瀬戸内海を西に向かって進んでいきます。

ところが、慶長5年(1600年)9月28日、島津義弘や立花宗茂が乗る船団が豊後沖を通過しようとした際、石垣原の戦いで大友義統に勝利して豊後国の掃討戦を展開していた黒田官兵衛に発見されます。

このとき、黒田官兵衛が、これらの船団に攻撃を仕掛けたため、島津義弘・立花宗茂らの船団の一部が沈没させられる被害に遭っています。

九州上陸後本国へ(1600年10月3日)

なんとか黒田官兵衛軍の攻撃を交わした船団は、慶長5年(1600年)9月29日、日向国・細島にたどり着き、九州への帰還を果たします。

ここで、島津義弘と立花宗茂は分かれることとし、立花宗茂は本拠地である柳川城に向かっていきます。

また、島津義弘は、日向国・細島から南下を開始し、同年10月1日に佐土原城に、同年10月3日にこのときの島津家の本拠地であった富隈城に帰り着きます。

このとき、無事に薩摩国に帰り着いた兵は、わずか80人であったそうです。

徳川と島津との終戦交渉

島津義弘は、帰国後、西軍に味方した責めを問われて桜島で謹慎処分となります。

そこで、以降、島津義久と徳川家康との間で終戦交渉が行われます。

この交渉は、島津家存続をかけたものとなったため、1年半もの時間をかけた長期に亘る交渉となります。

このとき、謹慎しているはずの島津義弘が国境を封鎖して防御を固め、抵抗の意思を示します。

こうなると、徳川家康としても、江戸から遠く離れた場所での島津を刺激することにより、自らの下でまとまりつつある天下が再び乱れることを恐れたため、やむなく島津家の三州の本領安堵を認め、一度奪った佐土原城まで返還します。

こうして、島津家は、西軍に加担しつつも、唯一本領安堵を認められ、以降も徳川家の最大の障壁として残されます。

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