【織田信房(御坊丸)】幼くして武田家の人質となった織田信長の五男

織田信房(津田源三郎信房)は、織田信長の五男として生まれた武将です。

幼くして武田家の人質となって甲斐で元服しており、武田家の戦略・戦術等を記した軍学書である甲陽軍鑑では、織田勝長(おだかつなが)と標記されています。

父である織田信長の命により武田家との最前線となる東美濃・岩村城を取り込むために幼くして遠山家に養子に出されたのですが、武田軍に岩村城を陥落させられた際に武田への人質となり、その前半生を武田家で過ごすこととなります。

その後、織田家に戻ることが出来たのですが、その僅か1年後に本能寺の変に巻き込まれて若い命を散らしています。 “【織田信房(御坊丸)】幼くして武田家の人質となった織田信長の五男” の続きを読む

【本多忠真】三方ヶ原の戦いで殿を務めて散った本多忠勝の叔父

本多忠真(ほんだただざね)は、徳川四天王となる本多忠勝を育てた武将です。

本多家当主であった父・兄を立て続けに失ったため、本多家当主となる機会があったにも関わらず、甥である本多忠勝にそれを譲り、さらに本多忠勝を後見して東国無双と言われるまでに育てあげています。

その最期は壮絶であり、三方ヶ原の戦いで大敗した徳川家康の退却時間を稼ぐために殿を務め、迫り来る武田軍と戦い討死を果たしています。 “【本多忠真】三方ヶ原の戦いで殿を務めて散った本多忠勝の叔父” の続きを読む

【督姫】北条氏直・池田輝政の室となって5男4女を儲けた徳川家康の次女

督姫(とくひめ)は、徳川家康の二女として、徳川家康の側室であった西郡局との間に生まれた女性です。

北条家との同盟の証として若くして北条氏直の室となり、北条家滅亡・北条氏直死亡後には豊臣秀吉の仲介により池田輝政の継室となりました。

生涯で9人(北条氏直との間に2女、池田輝政との間に5男2女)もの子を産んだ上、その子らを偏愛して、徳川家康の子と言う立場を存分に利用して5人の子をいずれも藩主に据えることに成功した政治手腕も注目されます。 “【督姫】北条氏直・池田輝政の室となって5男4女を儲けた徳川家康の次女” の続きを読む

【徳姫(五徳)】信康事件のきっかけとなったとされる松平信康の正室

徳姫(とくひめ)は、織田信長の長女として生まれ、徳川家康の嫡男であった松平信康の正室となった女性です。

松平信康との間に2女を儲けたものの男子ができず、それもあって松平信康との関係が悪化して松平信康自刃事件に繋がったと言われています。

もっとも、松平信康の自刃に徳姫が関わったかどうかは不明であり、謎多き人物でもあります。 “【徳姫(五徳)】信康事件のきっかけとなったとされる松平信康の正室” の続きを読む

【松平信康】父の命令により切腹して果てた徳川家康の嫡男

松平信康(まつだいらのぶやす)は、徳川家康の嫡男であり、本来であれば徳川家康の後を継いで江戸幕府第2代将軍となってしかるべき人物です。

父親譲りの軍才を発揮して数々の戦いで武功を挙げるなど能力も申し分ありませんでした。

ところが、天正7年(1579年)8月3日に居城であった岡崎城から追放された後、同年9月15日には徳川家康の命により21歳の若さで切腹して果てるに至っています。

徳川家の後を継ぐはずだった嫡男の切腹については、その理由が必ずしも明らかとなっていませんので現在まで喧々諤々様々な説が唱えられています。

本稿では、明らかとなっている事実を前提としつつ悲劇のプリンスである松平信康の人生について振り返っていきたいと思います。 “【松平信康】父の命令により切腹して果てた徳川家康の嫡男” の続きを読む

【お愛の方(西郷局)】徳川秀忠の生母である徳川家康の側室

お愛の方は(おあいのかた)は、徳川家康の側室となって江戸幕府第2代将軍となる徳川秀忠を産んだ女性です。

実父や夫を相次いで戦で失うなどのつらい前半生を送った後、徳川家康に見初められて側室となり、武田家との戦いに明け暮れていた時期の徳川家康を公私ともに支えました。

徳川家康の側室となる前は「お愛の方」と呼ばれ、側室となった後は「西郷局」と呼ばれていますので、西郷局という名称の方が有名かもしれません。 “【お愛の方(西郷局)】徳川秀忠の生母である徳川家康の側室” の続きを読む

【徳川家康の妻一覧】判明している22人の神君の正室・側室

徳川家康には、判明しているだけで22人の妻(正室・側室)がいます。また、判明していない者も含めると40人近くいたとも言われています。

これらの妻のうち、正室は、今川家主導で選定された築山殿(先妻)と、豊臣秀吉から押し付けられた朝日姫(継室)の2人だけであり、その他は全て側室となります。

徳川家康が多くの側室を迎えた理由の1つとしては、この時代に南蛮船の来航により梅毒が日本に入ってきていたため、その罹患を恐れて遊女を買うことをしなかったためと考えらます。

また、側室を迎えることにより周辺国衆や敵対家臣団の娘などを迎えて領土保全を図ったり、既に子供を産んだ経験のある未亡人を選んで子供を儲けることを第一に考えて「徳川家」の存続を図っていたことも理由の1つとして挙げられます。

他方で、勢力が大きくなってお家が安定して来ると、「徳川家康個人」の欲を優先させて10代を中心とした若い女性を選んでいるところも注目されます。

本稿では、徳川家康の妻の遍歴について、貰い受けた時代背景もあわせて紹介していきたいと思います。 “【徳川家康の妻一覧】判明している22人の神君の正室・側室” の続きを読む

【石川家成】三備の軍制で西三河旗頭を任された徳川家康の従兄弟

石川家成(いしかわいえなり)は、徳川家康の従兄弟の立場として幼少期からこれを支えた古参家臣です。

甥にあたる石川数正の陰に隠れてマイナー扱いをされていますが、実は、今川家から独立した頃の徳川家康の家臣団の中では、最高位に位置したといえる人物です。

三河国を平定した後に徳川家康が行った軍制改革では、西三河旗頭に任命されて徳川軍の3分の1を指揮する権限を持っていました。

また、徳川家康が遠江国を平定すると、その後の今川・武田との戦いの最前線となる掛川城を任されるほどの絶大な信頼を得ていました。

本稿では、石川数正の陰に隠れた名将・石川家成の生涯について振り返っていきたいと思います。 “【石川家成】三備の軍制で西三河旗頭を任された徳川家康の従兄弟” の続きを読む

【結城秀康】江戸幕府第2代将軍になれなかった徳川家康の次男

結城秀康(ゆうきひでやす)は、徳川家康が正室であった築山殿の侍女にお手付きをして生まれた武将です。

徳川家康の嫡男であった松平信康の生後16年も経ってから生まれた男子(次男)ですので大歓迎で迎えられてしかるべきだったのですが、その出生を正室の築山殿が承認しなかったために徳川家康に認知されることなく家臣の下で育てられます。

その後も、徳川家康から自身の子として扱われることなく、小牧長久手の戦い後には、宿敵ともいえる豊臣秀吉の下に養子(人質)として差し出されてしまいます。

ところが、養父となった豊臣秀吉からも、老いて生まれた実子・鶴松に対する禍根を残さないようにするためとの理由で、今度は結城家に養子に出されてしまいます。

この結果、母の身分の低さと他家に養子に出されたという経緯から徳川家康の後継者となることはできなかったのですが、自らの才覚で越前国をもらい受けるなどの活躍を果たしたのですが、34歳の若さで病没するという悲運に見舞われています。 “【結城秀康】江戸幕府第2代将軍になれなかった徳川家康の次男” の続きを読む