【乙巳の変】中大兄皇子・中臣鎌足によるクーデター

乙巳の変(いっしのへん)は、皇極天皇4年(645年)に大極殿の中かつ天皇の面前で起こった暗殺劇です。

中大兄皇子・中臣鎌足らが蘇我入鹿を暗殺して蘇我宗家を滅ぼした政変として余りにも有名ですが、起きた理由や首謀者については諸説あり、古代ロマンを掻き立てるクーデター劇です。

乙巳の変の後に、中大兄皇子が体制を刷新して大化の改新と呼ばれる改革を断行していますので、大化の改新の第一段階とも言えるかもしれません。 “【乙巳の変】中大兄皇子・中臣鎌足によるクーデター” の続きを読む

【堀川夜討ち】失敗に終わった源義経暗殺未遂事件

堀川夜討ちは、文治元年(1185年)10月17日、源頼朝が、刺客を放って源義経の暗殺を試みたが失敗し、対する源義経が源頼朝に敵対することを決めるに至った暗殺未遂事件です。

政治の天才・源頼朝が、源平合戦の英雄である源義経を粛清するという名目で守護・地頭を設置するきっかけとなり、関東を治める地方武士から全国を治める武家の棟梁に駆け上がる最初のステップとなった歴史の転換期の事件でもあります。

本稿では、そんな大事件である堀川夜討ちについて、その発生経緯から見ていきたいと思います。 “【堀川夜討ち】失敗に終わった源義経暗殺未遂事件” の続きを読む

【豊臣秀吉の居城遍歴】秀吉が大坂城にいたのは僅か3~4年

低い身分に生まれながら天下人にまで上り詰めた豊臣秀吉。

織田信長に仕えて初めて城を得てから亡くなるまでの間、その時々の必要性に応じて何度もその居城を移しています。

豊臣秀吉の居城として大坂城が突出して有名ですが、実は豊臣秀吉が初めて城を得てから死ぬまでの約25年の間で主として大坂城に在城していたのはほんの僅かです。3~4年に過ぎません。

羽柴秀吉は、人生のほとんどを別の城で過ごしています。

本稿では、そんな豊臣秀吉の居城遍歴を追っていきたいと思います。 “【豊臣秀吉の居城遍歴】秀吉が大坂城にいたのは僅か3~4年” の続きを読む

【徳川家康の改名・名字変更の歴史】

戦国武将の中で最も成功した人物と言えば徳川家康。

余りにも有名な武将・徳川家康ですが、その生涯において何度も名を変えていることをご存知ですか。

「徳川家康」というのは、元服後4つ目の名です。

以下、徳川家康の改名・改姓の歴史を見ていきましょう。なお、徳川家康とは短縮名であって最終的な正式名は「徳川次郎三郎源朝臣家康」といい、「徳川」は名字、「次郎三郎」は通称、「源」は姓(かばね)、「朝臣」は家格を表す姓、「家康」は名前です。 “【徳川家康の改名・名字変更の歴史】” の続きを読む

【甲相駿三国同盟】今川義元・武田信玄・北条氏康の巨大軍事同盟

甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい)をご存知ですか。

戦国期の巨大3勢力である、今川義元・武田信玄・北条氏康において結ばれ、三者三様のそれぞれの思惑を吸い上げて天文23年(1554年)に完成し、多大な成果を上げたものの、新勢力の台頭に翻弄され永禄10年(1567年)の今川家による塩止めにて破綻した同盟です。

本稿では、そんな戦国の巨大軍事について、その成立に至る経緯からみていきたいと思います。

なお、本稿がどの段階の話であるかよくわからない場合には、別稿【武田信玄の領土拡大の軌跡】をご参照ください。

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【曾我兄弟の仇討ち】源頼朝暗殺未遂事件にまで発展した日本三大仇討ちの1つ

曾我兄弟の仇討ち事件をご存知ですか。

曾我兄弟の仇討ちは、建久4年(1193年)5月28日、源頼朝が行った富士の巻狩りの際に、曾我十郎祐成(そがすけなり)と曾我五郎時致(そがときむね)の兄弟が父親の仇である工藤祐経(くどうすけつね)を討ちとった事件です。

伊賀越えの仇討ち(寛永11年・1634年)・赤穂浪士の討ち入り(元禄15年・1703年)と並ぶ、日本三大仇討ちの一つに数えられている大事件です。

曾我兄弟の仇討ちは、後に武士社会において、仇討ちの模範とされて能・浄瑠璃・歌舞伎・浮世絵などの題材に取り上げられ、民衆の人気を得ています。 “【曾我兄弟の仇討ち】源頼朝暗殺未遂事件にまで発展した日本三大仇討ちの1つ” の続きを読む

【源範頼の山陽道・九州遠征】平家本拠地・彦島を孤立させた行軍

一ノ谷の戦いに勝利して福原から平家を追い払った源氏方でしたが、その後も水軍力により瀬戸内に勢力を維持する平家に悩まされ続けます。

困った源頼朝は、瀬戸内の平家の力を削ぐべく、山陽道及び九州の平氏勢力の討伐を決断します。

この山陽道及び九州討伐を任されたのが源範頼でした。

源義経の陰に隠れ認知度が必ずしも高いと言えない源範頼ですが、陸路を通って山陽道を制圧し、九州の平氏勢力と平家本拠地である彦島との分断を成功させ、壇ノ浦の戦いの下準備を整える功績を挙げています(もっとも、少し遅れたタイミングで屋島を華々しく攻略した源義経にスポットが当たりがちですが。)。

本稿では、そんな源範頼の山陽道・九州遠征について見ていきましょう。 “【源範頼の山陽道・九州遠征】平家本拠地・彦島を孤立させた行軍” の続きを読む

【平家都落ち】大宰府に逃れた平家が再度京を狙うまで

木曾義仲に京を追われた平家は、九州に落ち延びるのですが、そこも追われなんとか讃岐国・屋島にたどり着きます。

屋島で勢力を蓄えて福原に入り、いよいよ京を目指そうというところから源平の戦いのクライマックスに入っていきます。

本稿では、そんなクライマックスの前哨戦となる平家都落ちから水島の戦いまでの流れ、言うなれば一ノ谷の戦いのお膳立てについて見ていきたいと思います。 “【平家都落ち】大宰府に逃れた平家が再度京を狙うまで” の続きを読む

【奥州の南北朝の戦い・初期編】鎮守府将軍北畠顕家vs奥州総大将斯波家長

室町時代の初期頃に60年もの長きに及ぶ内乱期となったことで有名な南北朝時代ですが、その争いは中央(京や吉野付近)だけで起こっていたわけではありません。

中央で起こった朝廷の分裂は全国に伝播し、全国各地の諸勢力が南朝側と北朝側とに分かれて紛争が頻発するようになりました。

この南北朝の争いは、東北地方でも起きており、初期の段階では鎮守府将軍北畠顕家vs奥州総大将斯波家長という構図で繰り広げられていきます。

本稿では、東北地方で起きた南北朝の初期の争いについて見て行きたいと思います。 “【奥州の南北朝の戦い・初期編】鎮守府将軍北畠顕家vs奥州総大将斯波家長” の続きを読む

【鎌倉幕府滅亡】新田義貞の挙兵から鎌倉攻めまで

元弘3年(1333年)5月22日、源頼朝が開き、北条氏が権力を奪取して150年続いた鎌倉幕府が滅亡します。

鎌倉幕府滅亡のきっかけは、後醍醐天皇の隠岐脱出に呼応した足利尊氏による六波羅探題攻略だったのですが、トドメを刺したは新田義貞による鎌倉攻略です。

前者は以前解説済みですので、本稿は後者の新田義貞による鎌倉攻めについて見ていきたいと思います。 “【鎌倉幕府滅亡】新田義貞の挙兵から鎌倉攻めまで” の続きを読む