【武田信玄の西上野侵攻】信濃国の次のターゲットとなった上野国・箕輪城攻防戦

 

信濃国のほぼ全域を支配下に置いた武田信玄は、10年に亘る上杉謙信との戦いを繰り返したのですが、大きな成果を挙げられませんでした。

このとき、武田信玄は、同時に西上野への侵攻作戦を展開しており、北進を諦めた武田信玄はその代わりに西上野を獲得しています。

本稿では、上杉謙信との川中島の戦いの裏で繰り広げていた西上野侵攻戦について紹介していきたいと思います。

なお、本稿がどの段階の話であるかよくわからない場合には、別稿【武田信玄の領土拡大の軌跡】をご参照ください。

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【野良田の戦い】六角家からの独立と北近江支配を確立させた浅井長政の大勝利

野良田の戦い(のらだのたたかい)は、永禄3年(1560年)8月中旬に近江国・野良田一帯で行なわれた北近江の浅井長政軍と南近江の六角承禎軍との合戦です。

浅井長政が、初陣として指揮し、倍を超える兵を要した六角軍を起死回生の一手で打ち破っています。

浅井長政が、浅井家内での信頼を得ると共に、北近江の戦国大名として揺るぎない地歩を固めることとなったターニングポイントとなる戦いです。 “【野良田の戦い】六角家からの独立と北近江支配を確立させた浅井長政の大勝利” の続きを読む

【三増峠の戦い】武田信玄が待ち伏せする北条軍を破った戦国最大規模の山岳戦

三増峠の戦い(みませとうげのたたかい)は、永禄12年(1569年)10月8日、小田原城の包囲を解いて甲斐国へ退しようとする武田信玄とこれを殲滅しようとした北条氏との間で行われた戦国最大規模の山岳戦です。

同時に行っていた武田家による第3次駿河侵攻作戦の一環として、北条軍を相模国に止めて駿河国の援軍に向かわせないために行われた一連の武蔵国・相模国侵攻の総仕上げです。

戦術的に見ても武田軍の勝利なのですが、北条・上杉間に亀裂を生じさせ駿河への影響力を強めたという戦略的に見ても極めて大きな意味を持つ勝利です。

なお、本稿がどの段階の話であるについては、別稿【武田信玄の領土拡大の軌跡】をご参照ください。

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【廿里の戦い】北条氏照が滝山城から八王子城に本拠を移すきっかけとなった戦い

廿里合戦(とどりかっせん)・廿里の戦い(とどりのたたかい)をご存知ですか。

武蔵国に侵攻してくる武田軍と、これを防ごうとする北条軍とが、1569年(永禄12年)10月1日に高尾山麗の廿里(現在の八王子市廿里町・廿里古戦場近辺:JR高尾駅の約400m北側付近)で激突した戦いです。

有名な三増峠の戦いの前哨戦として扱われ、ぶっちゃけマイナーな戦いです。

ただ、この戦いは八王子城築城のきっかけとなった重要なターニングポイントでもありますので、紹介させていただきたいと思います。 “【廿里の戦い】北条氏照が滝山城から八王子城に本拠を移すきっかけとなった戦い” の続きを読む

【人取橋の戦い】伊達政宗が敗れ伊達家の洞支配が終わった二本松城をめぐる戦い

人取橋の戦い(ひととりばしのたたかい)は、天正13年11月17日(1586年1月6日)に、若き伊達政宗が、佐竹氏を始めとする南奥諸大名連合軍に大敗し、伊達氏の洞による南奥支配の終焉となった戦いです。

奥州の覇者・伊達政宗が死の一歩手前まで追い詰められた敗戦ですが、最終的には二本松城を獲得して勢力拡大のきっかけとなった戦いでもあります。

本稿では、伊達家による奥州支配体制を一変させた若き伊達政宗の大敗北について、その発生機序から順に見て行きたいと思います。 “【人取橋の戦い】伊達政宗が敗れ伊達家の洞支配が終わった二本松城をめぐる戦い” の続きを読む

【村木砦の戦い】今川義元から緒川城を防衛するための戦い

尾張国では、織田信秀の代から織田弾正忠家の尾張国内での勢力拡大と今川義元との間での熾烈な尾張・三河領土争奪戦が繰り広げられていました。

これらの戦いは、織田信秀が死亡して織田弾正忠家の家督を織田信長が引き継いだ後も、織田信長の尾張国統一戦として約7年間も繰り広げられます。

織田・今川の一進一退の攻防は、鳴海城・大高城・沓掛城を獲得した今川義元が優位に進め、今川義元がさらに知多半島に勢力を及ぼすべく緒川城の攻略を目指して前線基地である村木砦を建築します。

このとき、この脅威を取り除くため、緒川城主・水野信元が、21歳の若き織田信長に対して村木砦の攻略を依頼して起きたのが村木砦の戦い(むらきとりでのたたかい)です。 “【村木砦の戦い】今川義元から緒川城を防衛するための戦い” の続きを読む

【三木合戦(三木の干殺し)】羽柴秀吉の別所長治に対する兵糧攻め

攻城戦の名手として知られる羽柴秀吉の攻城戦歴の中でも、トップクラスに知名度があるのが、三木合戦です。

三木の干殺し(みきのひごろし/ほしごろし)と言われる約1年10ヶ月もの長い兵糧攻めが行われたことで有名です。第2次鳥取城の戦い(鳥取城の飢え殺し)の前哨戦でもあります。

本稿では、この悲惨な兵糧攻めとなった三木合戦について、その発生経緯から見ていきます。 “【三木合戦(三木の干殺し)】羽柴秀吉の別所長治に対する兵糧攻め” の続きを読む

【壇ノ浦の戦い】平家滅亡に至った治承寿永の乱のクライマックス

長きに亘って繰り広げられた源氏と平氏の戦い(治承・寿永の乱)のクライマックスは誰もが知っている壇ノ浦の戦いです。

数年前まで平家にあらずんば人にあらずと唄うほど栄華を極めた平家が、屋島を追われて海上に追い込まれ、遂には次々に海に飛び込んで死んでいった悲しい最期を迎えた戦いでもあります。

本稿では、この平家が滅亡することとなった壇ノ浦の戦いについて見ていきましょう。 “【壇ノ浦の戦い】平家滅亡に至った治承寿永の乱のクライマックス” の続きを読む

【志度合戦】屋島の戦い直後の平家が四国を失った戦い

志度合戦(しどかっせん)は、屋島の戦いに敗れて屋島を失った平家が、一旦東側に逃れて四国での再起を試みた戦いです。

もっとも、志度合戦の決着はあっけなく、度重なる敗戦と屋島の陥落により士気の下がった平家軍は、源義経率いる源氏軍に対し、本格的な戦いをするまでもなく敗退し、結果として四国を源氏に明け渡す結果に至りました。

本稿では、そんな屋島の戦いと壇ノ浦の戦いの架け橋となった志度合戦について見ていきたいと思います。 “【志度合戦】屋島の戦い直後の平家が四国を失った戦い” の続きを読む

【屋島の戦い】源義経率いる150騎の奇襲での平家拠点陥落

屋島の戦い(やしまのたたかい)は、平安時代の末期の元暦2年/寿永4年(1185年)2月19日に起こった、源頼朝方(源義経)と平家との直接対決の1つです。

平家が滅んだ壇ノ浦の戦いの直前の戦いでもあり、何と言っても「那須与一の扇の的」が有名です。

本稿では、そんな屋島の戦いについて、当時の情勢を追いつつ見ていきたいと思います。 “【屋島の戦い】源義経率いる150騎の奇襲での平家拠点陥落” の続きを読む