【江戸幕府滅亡】徳川慶喜の政治力に屈した薩摩藩らの政治クーデターの結果

大政奉還と王政復古の大号令によって江戸幕府が滅び、戊辰戦争を経て明治新政府へと政権が移行したということはおそらくほとんどの日本人が学んだと思います。

歴史の教科書に載っている当たり前の事実経過です。

もっとも、このときの政権移行の経過について、多くの日本人が間違った理解をしています。

多くの日本人は、権威を失墜させた江戸幕府がやむなく薩摩藩ら討幕派に屈し、ときの将軍徳川慶喜が政権を手放して無位無官となったと考えていますが、真実は違います。

実は、卓越した政治力を持つ徳川慶喜に対して、政治力ではかなわないと見た薩摩藩らが武力によるクーデターを起こし、危ない橋を渡ってなんとか江戸幕府を滅ぼすことができたというのが本当のところです。

本稿では、この江戸幕府の滅亡の過程について、徳川慶喜の将軍就任時から戊辰戦争が始まる前までを中心に説明します。 “【江戸幕府滅亡】徳川慶喜の政治力に屈した薩摩藩らの政治クーデターの結果” の続きを読む

【エルトゥールル号遭難事故】トルコが親日国である理由

エルトゥールル号遭難事件・事故は、明治23年(1890年)9月16日、オスマン帝国(現在のトルコ)の軍艦エルトゥールル号 が、現在の和歌山県の串本町沖で遭難し、587人もの乗員乗客が犠牲者となって大事故です。

もっとも、この事故は、その後日本とトルコとの友好の証となりました。

トルコの人にとっては有名な事故ですが、日本人にはあまり知られていませんので、本稿で紹介したいと思います。 “【エルトゥールル号遭難事故】トルコが親日国である理由” の続きを読む

【室町幕府の成立】1336年の建武式目制定により成立した足利尊氏政権

後醍醐天皇と袂を分かった足利尊氏は、九州で再起を果たし、京を目指して進軍していきます。

なお、建武の新政の成立及び足利尊氏と建武政権の対立(建武政権が勝っていた序盤戦足利尊氏が逆転した終盤戦)については、別稿をご参照ください。

京に攻め上った足利尊氏は、後醍醐天皇を追い払った上で光明天皇を擁立し、その下で室町幕府を開きます。

本稿では、この足利尊氏入京から室町幕府の成立について見ていきましょう。 “【室町幕府の成立】1336年の建武式目制定により成立した足利尊氏政権” の続きを読む

【以仁王の令旨】平家滅亡のきっかけとなった御教書

源氏が蜂起し、平家打倒のきっかけとなったのが、有名な以仁王の令旨です。

以仁王は、「平氏方の武将であった」源頼政に担がれて平家打倒に立ち上がったのですが、打倒計画の杜撰さと準備不足から早々に計画が露見し、両人とも宇治・平等院で敗死します。

もっとも、以仁王が挙兵の際に出した令旨が、平氏打倒の契機となって諸国の反平家勢力が兵を挙げ、全国的な動乱である治承・寿永の乱が始まるのです。

以下、以仁王の令旨について、以仁王と源頼政の反平家計画の経過を追いながら見ていきましょう。 “【以仁王の令旨】平家滅亡のきっかけとなった御教書” の続きを読む

源頼朝による東国支配と鎌倉幕府政治構造

源頼朝による武家政権樹立は、源頼朝挙兵→東国私兵団として成立→公認東国私兵団→守護地頭設置権獲得→東北支配権→恒久的守護設置権→征夷大将軍任命という流れで確立していきます(完成は、承久の乱勝利後です。)。

この間、源頼朝はそのほとんどを鎌倉にて政治を行い鎌倉を離れていません。

すなわち、源頼朝の武家政権の樹立は、鎌倉で始まり,その後配下をうまく使って全国に拡大させていったのです。

本稿では、そんな源頼朝による武家政権の樹立のうちの初期の段階である鎌倉の開拓と東国支配に至るまでの流れについて見ていきたいと思います。 “源頼朝による東国支配と鎌倉幕府政治構造” の続きを読む

【近江国・国友】機能美を極めた鉄砲・火縄銃の里

戦国時代に合戦のやり方から、城の構造まで、武士の作法の全てを一変させた新兵器があります。鉄砲(火縄銃)です。

その伝来場所から種子島とも言われます。

そして、その鉄砲の一大生産地として有名なのが近江国坂田郡国友(現在の滋賀県長浜市国友町)です。

では、なぜ種子島から遠く離れた国友が鉄砲の一大生産地となったのでしょうか。

以下、鉄砲の里・国友の歴史について簡単に説明したいと思います。 “【近江国・国友】機能美を極めた鉄砲・火縄銃の里” の続きを読む

【建武の新政】3年で瓦解した後醍醐天皇の建武政権

鎌倉幕府を滅亡させた後醍醐天皇は、自身を神に擬えて天皇親政の「建武の新政」(建武の中興ともいいます。)をはじめます。

生粋のお坊ちゃんで人の話を聞かない後醍醐天皇は、市井で生きる人の生活など考慮することなく自身の理想を追い求めた政治を追及します。

ところが、この後醍醐天皇の政治は公家・武士・庶民の全てから反目され、わずか3年で建武政権は崩壊し、足利尊氏が開く室町幕府の時代に入っていきます。

そんな、鎌倉幕府と室町幕府の過渡期に生まれた天皇親政政治、建武の親政の概略について、以下簡単に説明します。 “【建武の新政】3年で瓦解した後醍醐天皇の建武政権” の続きを読む

【足利尊氏旗揚げ】六波羅探題陥落に繋がった鎌倉幕府軍主力の離反

源頼朝によってひらかれた初の武家政権である鎌倉幕府でしたが、その支配権を確立した北条得宗家による横暴が目立つようになり、成立後150年ほどたつとその支配は限界を迎えていきます。

そして、後醍醐天皇の挙兵とそれに伴う全国各地の武士の蜂起によって始まった「元弘の乱」により、元弘元年(1333年)5月7日に足利尊氏によって六波羅探題が、同年5月22日に新田義貞によって鎌倉が陥落し、同日鎌倉幕府が滅亡します。

本稿では、この元弘の乱のうち、戦局が大きく動く一大事件となった鎌倉幕府軍主力・足利尊氏離反と、その後の鎌倉幕府の西国統治機関である六波羅探題の陥落について紹介していきたいと思います。 “【足利尊氏旗揚げ】六波羅探題陥落に繋がった鎌倉幕府軍主力の離反” の続きを読む

【神君伊賀越え】徳川家康が九死に一生を得た三河国への逃避行

天下統一を果たして太平の世を築いた徳川家康。

もっとも、徳川家康の天下統一は決して順風満帆であったわけではなく、生涯何度も命の危機に晒されています。

絶体絶命だったと言われるものだけでも3つもあります。

三河一向一揆三方ヶ原の戦い、神君伊賀越えです。

本稿では、このうち、神君伊賀越えについて見ていきます。 “【神君伊賀越え】徳川家康が九死に一生を得た三河国への逃避行” の続きを読む

【守護・地頭の設置】源義経追討名目で鎌倉幕府による西国支配権を確立した政治の天才源頼朝

源頼朝による武家政権樹立は、源頼朝挙兵・富士川の戦い東国支配木曽義仲追討→平家追討→西国支配→東北支配→征夷大将軍任命という過程を経て完成されます。

この中で、源頼朝の東国支配の経緯は従前説明しましたが、今回は平家追討後の西国支配の流れについて説明します。

源頼朝は、びっくり仰天の方法により西国支配を確立します。それは、鎌倉時代を学ぶ上で外すことができない「守護」と「地頭」の設置です。

学校では、守護は主に軍事力・警察力をもって治安維持を担い、地頭は主に土地を管理して年貢の徴収を行ったと学ばれた方が多いと思いますが、その詳細についてはあまり知られていないように思います。

そこで、本稿では、なぜ源頼朝が守護と地頭任命権を得たのか、またその任命権を得たことがどうして源頼朝(鎌倉幕府)の西国支配につながったのかについて簡単に説明します。 “【守護・地頭の設置】源義経追討名目で鎌倉幕府による西国支配権を確立した政治の天才源頼朝” の続きを読む