【六勝寺】院政の舞台・白河に創建された6つの御願寺

六勝寺(ろくしょうじ、りくしょうじ)とは、当時の政治の中心地であった鴨東白河の地に白河天皇以降5代の天皇が建立した5つの天皇御願寺と、1つの女院御願寺をあわせた6つの寺の総称です。

6つの寺の法号にいずれも「勝」の字を持つことから、まとめて六勝寺と呼ばれています。

院政の舞台となった京の白河の地にある院政期を象徴する寺院でしたが、室町期以降その維持管理が停滞し、応仁の乱以降にほぼ廃絶しています。

現在では、石碑や町名などに面影を残すのみであり、寺域や伽藍配置などにおいて不明な点は多いため、発掘による考古学的調査および復元作業が進められています。

本稿では、六勝寺についてその建立時の政治情勢を踏まえつつ現在までに明らかとなっている点を基に説明したいと思います。 “【六勝寺】院政の舞台・白河に創建された6つの御願寺” の続きを読む

【保元の乱】摂関家が凋落し武士が台頭する契機となった朝廷内乱

保元の乱(ほうげんのらん)は、保元元年(1156年)7月に、天皇家・藤原摂関家・武士が崇徳上皇派と後白河天皇派とに分かれて争った政変です。

誤りをおそれず一言でいうと,保元の乱は、鳥羽上皇の死亡により空席となった治天の君の席を巡る崇徳上皇と後白河天皇との争いです。

院政を行うものを決めるという天皇家の争いに藤原摂関家が肩入れしたことにより複雑化し、ここに武士が参戦したことにより武力による代理戦争に発展します。

結果としては、後白河天皇派が勝利し、崇徳上皇が讃岐国に配流されて終わったのですが、藤原摂関家から謀反人を出したとしてその地位が地に落ちたこと、朝廷の政争を武力で解決したことで武士の存在感が増したことなどの結果をもたらし、後の約700年に渡る武家政権へ繋がるきっかけの1つとなった大事件です。

本稿では、そんな保元の乱について、発生に至る経緯から見て行きたいと思います。 “【保元の乱】摂関家が凋落し武士が台頭する契機となった朝廷内乱” の続きを読む

【大蔵合戦】保元の乱の前哨戦となった河内源氏の内紛

大蔵合戦(おおくらかっせん)は、久寿2年(1155年)8月16日、河内源氏の棟梁である源為義の長男である源義朝の子・源義平が、源為義の次男である源義賢の館を襲撃しこれを討ち取った戦いです。

討ち取られた源義賢の館があった場所の名をとって大蔵合戦と呼ばれます。

河内源氏内でのドロドロの親子・兄弟紛争であり、翌年の保元の乱に繋がる前哨戦ともなっています。 “【大蔵合戦】保元の乱の前哨戦となった河内源氏の内紛” の続きを読む

【堀川夜討ち】失敗に終わった源義経暗殺未遂事件

堀川夜討ちは、文治元年(1185年)10月17日、源頼朝が、刺客を放って源義経の暗殺を試みたが失敗し、対する源義経が源頼朝に敵対することを決めるに至った暗殺未遂事件です。

政治の天才・源頼朝が、源平合戦の英雄である源義経を粛清するという名目で守護・地頭を設置するきっかけとなり、関東を治める地方武士から全国を治める武家の棟梁に駆け上がる最初のステップとなった歴史の転換期の事件でもあります。

本稿では、そんな大事件である堀川夜討ちについて、その発生経緯から見ていきたいと思います。 “【堀川夜討ち】失敗に終わった源義経暗殺未遂事件” の続きを読む

【平将門の乱】平氏台頭のきっかけとなった関東武士の反乱

平将門の乱(たいらのまさかどのらん)は、平安時代中期に関東で発生した反乱で、ほぼ同時期(承平・天慶期)に瀬戸内海で発生した藤原純友の乱(ふじわらのすみとものらん)と合わせて承平天慶の乱(じょうへいてんぎょうのらん)とも呼ばれます。

平将門の乱は、単なる一武士の反乱に止まらず、藤原純友の乱と合わせて、日本の律令国家衰退と武士を誘発し、平氏(平将門の乱の方に平貞盛が参加したため)と源氏(藤原純友の乱の鎮圧に源経基が参加したため)が台頭するきっかけともなった歴史が転換するきっかけとなった事件です。 “【平将門の乱】平氏台頭のきっかけとなった関東武士の反乱” の続きを読む

【衣摺の戦い(丁未の乱)】物部氏が蘇我氏に滅ぼされた戦い

衣摺の戦い(きずりのたたかい)は、奈良時代に仏教認容を巡って大臣・蘇我馬子と大連・物部守屋が対立した結果として用明天皇2年(587年) 7月に勃発し、物部氏が滅亡した合戦です。

丁未の乱(ていびのらん)、丁未の変、丁未の役、物部守屋の変とも言われる飛鳥時代の2大豪族の権力争いです。 “【衣摺の戦い(丁未の乱)】物部氏が蘇我氏に滅ぼされた戦い” の続きを読む

【壬申の乱】大海人皇子と大友皇子が皇位を巡って争った古代日本最大の内乱

壬申の乱(じんしんのらん)は、天智天皇の死後、その弟である大海人皇子と、息子である大友皇子とが皇位継承を巡って争った古代日本最大の内乱です。

戦いがあった天武天皇元年(672年)が、干支で壬申(じんしん、みずのえさる)にあたることから壬申の乱と呼ばれます。

天智天皇の後を継いだ皇太子・大友皇子に対して、皇弟・大海人皇子が兵を挙げるという形で勃発し、反乱者である大海人皇子が勝利し天皇として即位するという、極めて珍しい結果に終わった戦いでもあります。 “【壬申の乱】大海人皇子と大友皇子が皇位を巡って争った古代日本最大の内乱” の続きを読む

【道明寺の戦い・誉田の戦い】後藤又兵衛が戦死した豊臣軍と徳川大和方面軍との合戦

道明寺の戦い(どうみょうじのたたかい)・誉田の戦い(こんだのたたかい)は、慶長20年(1615年)5月6日に発生した、徳川・大和方面軍と豊臣方迎撃隊との間で発生した野戦です。

大坂夏の陣のクライマックス直前の戦いの一つであり、後藤又兵衛(後藤基次)が戦死した戦いでもあります。

以下、道明寺の戦い・誉田の戦いについて、その発生経緯から順に説明します。 “【道明寺の戦い・誉田の戦い】後藤又兵衛が戦死した豊臣軍と徳川大和方面軍との合戦” の続きを読む

【田中吉政】近江国八幡・三河国岡崎・筑後国柳川を造った武将

田中吉政(たなかよしまさ)は、農民から出生し、宮部継潤・豊臣秀吉・豊臣秀次・徳川家康らに仕え、関ヶ原の戦いの際には石田三成を捕縛する大功を挙げて筑後国32万石の国持大名にまで上り詰めた人物です。

本稿では、そんな田中吉政について、転封の過程で行った近江国八幡(現滋賀県近江八幡市)、三河国岡崎(現愛知県岡崎市)、筑後国柳川(現福岡県柳川市)の現在につながる都市設計を紹介しながら見ていきたいと思います。 “【田中吉政】近江国八幡・三河国岡崎・筑後国柳川を造った武将” の続きを読む

【一柳直末】山中城の戦いで討死した秀吉子飼いの武将

一柳直末(ひとつやなぎなおすえ)の名を聞いたことがありますか。

一柳直末は、木下姓時代から秀吉に仕え、将来の天下人・豊臣秀次を支える立場になるほど豊臣秀吉の信頼を勝ち得た人物です。

黒田官兵衛の義兄弟でもあります。

小田原征伐の一環として行われた山中城の戦いで戦死したためにその後に名を残せなかったためマイナー扱いされているのが残念です。

本稿では、そんな埋もれたマイナー武将、一柳直末について見ていきたいと思います。 “【一柳直末】山中城の戦いで討死した秀吉子飼いの武将” の続きを読む