【戦国時代の足軽】合戦の主戦力となった下級兵士

戦国時代における集団戦闘の主戦力と言えば足軽です。

足軽と聞くと古くから合戦の主力となっていたようなイメージを持ちがちなのですが、実は違います。

足軽は、元々武士同士の一騎打ちの場であった合戦の常識を根本からひっくり返した存在なのです。

某有名アニメででいうところのザクやジムのようなイメージであり、合戦を個人の武の勝負から物量戦に変化させるに至った存在です。すなわち、同アニメの某キャラクターが言った「戦争は数だよ」という名言を体現した存在です。

本稿では、戦の概念を一変させた足軽について、主にその成り立ちから戦国期までの役割について簡単に説明したいと思います。

足軽の成り立ち 

朝廷による治安維持のほころび 

古代の日本の統治者は朝廷であり、その統治実働者として、朝廷が全国から兵員を徴兵して、国の防備や治安維持に使用していました。言うなれば、徴兵制により自衛官兼警察官を集めて使っていたのです。

奈良時代では防人令、平安時代初期では健児の令などが有名です。

もっとも、時代が下るに従って朝廷の力が衰えてくると、治安維持制度が形骸化し、朝廷が兵を動員できなくなり、朝廷は徴兵制を廃止してしまいます。

地方豪族の武装化と武士の誕生 

朝廷による治安維持を当てにできなくなった地方豪族は、地位・財産を守るため、自ら人を雇って自衛を始めます。

国が守ってくれないなら自分で守るしかありません。

全国に荘園を持つ藤原氏などが、いち早く武装化を進めます。 

そして、平安時代の中期頃になると、守る者と守られる者の逆転現象が起きます。

力を失った朝廷が、治安維持のために地方豪族の力を借りるようになっていきます。

これがいわゆる武士階級の始まりです。武装化を進めた地方豪族が武士階級となり、力を蓄えていくようになります。

そして、地方豪族同士の縄張り争いが始まります。武士と武士との合戦の始まりです。 

武士勢力誕生期の戦闘 

もっとも、武士が自然発生したころの合戦は、比較的小規模なものでしたので、騎馬武者同士の一騎打ちを原則としており、いわゆる足軽・雑兵による集団戦闘ではありませんでした。

もっとも、このころの武士による戦闘に際しても、兵站(武器・兵糧の補給線)が必要となり、これらを運ぶ下働きの者(当初は下人などと呼ばれていました。)を従えて戦に向かいました。

そして、下人は、戦場では主人の戦の補助をしました。

具体的には、鎧兜に身を包んだために身動きがとりにくい武士に代わり、身軽ないでたちで陣屋の設営や、物資の運搬、馬の世話などの後方支援を行いました。

もっとも、下人は兵士ではなく、下人が武器をとって先頭に加わることはありませんでした。 

集団戦闘による足軽の戦闘員化 

ところが、時代を経るに従い、合戦がだんだんと大規模化していきます。

そして、戦が大規模化してくるにつれ一騎打ちのような戦闘ではらちが明かなくなり、だんだんと混戦(集団戦)の様を呈してきます。

集団戦となる以上は、頭数が必要となってきますので、それまでは戦力に挙げられていなかった下人が戦闘員として組み入れられることとなります。 

なお、鎌倉時代の軍記物に「足軽」の名称が出てきますので、鎌倉時代頃から足軽という名が使われ始めたものと思われます。

当時の足軽は、馬に乗ることなく自分の足で走る上、その装備が、折烏帽子に胴丸、手には薙刀、足は裸足という軽装備であったため、この身軽に動ける(足が軽い)歩兵という意味から、足軽と名付けられました。 

その後、鎌倉時代末期から南北朝期になると、ほぼ完全に武士の一騎打ち自体が廃れ、軍の構成自体が、数が多い足軽中心のものとなります。なお、余談ですが、一騎討ちの戦闘スタイルが廃れた理由は、元寇の際に集団戦闘を仕掛けてくるモンゴル軍に通用しなかったからと言われています。

どれほど戦闘訓練を経たものであっても、個人の力で集団歩兵にかなうわけないからです。 その結果、戦術自体の改革も進み、まとまった兵数の足軽を集められる者の力が増していきます。 

足軽の徴用方法 

戦の集団化が始まったことにより、戦いが数での勝負となっていきます。

そのため、足軽の供給元が、武士の下人のみでは兵数が足りなくなっていきます。

その結果、志願兵・傭兵をかき集めて足軽として使用するようになっていきます。 

他方、テレビドラマ等では、領主が領内の領民を強制徴用して戦場に送り出しているような描かれ方をしているのを散見しますが、食料生産者の死亡は直ちに国力低下につながりますので、よほど切迫でもしない限りやみくもに領民を強制徴用することは少なかったようです。

足軽の問題点 

戦闘の方法が集団戦に変わったことによる数字合わせのために足軽のすそ野が広がったことにより、武士と足軽との主従関係も希薄となり、足軽が戦のときだけ金で雇われる傭兵化していきます。

また、武士としての教育を受けず、忠誠心もないいないいわゆるゴロツキが足軽となって次々と軍の主力となって戦に加わるようになったため、足軽に対する武士の統制がも及ばなくなっていきます。

そのため、足軽達は、戦場でしばしば暴徒化して、先々で略奪・強盗・殺人・放火・強姦などやりたい放題やらかすようになります。

忠誠心もなく、勝手な逃亡や寝返りは当たり前の世界ですので、足軽をキツく縛って言うことを聞かせることなどできません。

むしろ、そればかりか、武士の側でも、足軽となるのは農民が多く、食料の配給や戦地での掠奪目的の自主的参加が見られ、もそれら乱暴狼藉を黙過したり、場合によっては褒美として自由にやらせることが常套化していました(これを、乱取りといいます。)。

名のある武将を討ち取る武功を挙げたところで大きな論功を得られる訳でもありませんので、戦勝後の足軽による乱取りは、命を掛けて戦った足軽への褒美であり、その狼藉は悪事ではないと考えられていました。

やられる方からするとたまったもんじゃありません。

足軽による集団戦闘の常態化と足軽の用法

室町時代の足軽

室町期頃になると、戦の際には、双方が多数の足軽を動員することが常態化するようになります。

そして、このころになると、足軽部隊のみで、斥候・奇襲なども行うようになり、戦の主力部隊となっていきます。

そうすると、必然的に足軽にもグループが出来てきますので、その統率者が必要となってきます。

もっとも、この時期の足軽は、まだまだ自然発生的に集まったゴロツキ等の集団に過ぎず、まだまだ足軽を組織的に統率することはなく、足軽の中から自然発生的に出てきた統率者によって指揮されるにとどまりました。

応仁の乱のときに初めて名の残る足軽(室町幕府の最下級役人である盗賊改)である「骨皮道賢」が現れ、細川勝元に与して洛南・稲荷山を占領して西軍に対してゲリラ戦で戦ったと記録されていますが、1週間程度で鎮圧されてしまったため詳細な情報は不明です。

戦国時代の足軽

時代が進んで戦国時代になると、支配者層の淘汰が進み、生き残った者が巨大な経済力・軍事力を有するようになります。

その結果、戦国期になると、戦の際に動員する足軽の数もそれまでとは比べ物にならない位に多数化し、戦が大規模化し、足軽による集団戦が本格化していきます。

そして、足軽による集団戦では、それまでのようにそれぞれが独自の武器を持って戦うのではなく、隊に分けて隊ごとに長槍(長柄足軽)・弓(弓足軽)・鉄砲(鉄砲足軽)に分けられた足軽隊が組織され、小頭の指揮に従って戦うようになりました。

これにより、足軽隊の攻撃力が大幅に増加し、足軽隊が主要部隊として活躍するようになります。

戦の開戦直後は、鉄砲足軽の乱射や弓足軽の弓衾で大雑把に相手方の戦力を削ぎ、その後乱戦になると長柄足軽の槍衾で相手方を叩き潰すというのがオーソドックス流れとなります。

結果、戦では足軽の数のみならず、これを使いこなす指揮官の指揮能力が戦を大きく分けるようになります。

そこで、足軽を統率するために統率者を武士が家臣団の中級武士階級中から任命し(侍大将・足軽大将・足軽小頭などと呼ばれました。)、200石〜500石程度の家禄を与えて足軽隊を組織・運用するようになっていきます。

また、戦国期には戦が恒常化するようになり、一定数の兵をすぐに動員できる体制が必要となったことから、足軽の身分も、雑兵のような臨時の傭兵ではなく、臨時雇い・期限付ではあるものの正式な下級武士として一定の禄を得るなどするようになります。

このころになると、足軽の装備も重装備化が進み、大型の手盾をもたないことを除けば重装歩兵とも比較できる装備を整えるようになります。

また、兵卒の身分の中からも功を認められて、立身出世するものも現れます(その際たる例は、天下人まで上り詰めた豊臣秀吉です。)。

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