【静御前】日本一の白拍子と言われた源義経の愛妾

静御前(しずかごぜん)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した女性白拍子であり、源義経の愛妾として有名です。

吉野山で源義経と別れた後、源頼朝の前で源義経を慕う舞を舞わされ、生まれてきた子を源頼朝に殺されるという悲しい人生を送ります。

また、その人生の最期についての記録はないことから、哀れを誘う人生を偲んで全国各地に静御前の民間伝承や静御前のものと言われる墓が点在するなど現在においてなおミステリアスな女性です。

本稿では、数奇な人生を歩んだ静御前の生涯について見ていきたいと思います。

静御前の出自

静御前の前半生(生年不詳)

静御前の母は、白拍子(平安時代末期ころの歌舞の一種であり、主に男装の遊女や子供が今様や朗詠を歌いながら舞うもの)の磯禅師とされていますが、その他の静御前の前半生についてはほとんどわかっていません。生年や父も不明です。

源義経に見初められる

以仁王の令旨が全国に伝播し、源頼朝らが挙兵した治承4年(1180年)は、畿内を中心として、北陸・西国まで日照りによる甚大な農産物被害がでていました。

鴨長明が記した方丈記によると、春・夏は日照り、秋は大風と洪水によって五穀が実らず、2年間に亘って食べ物がない状況となって数え切れない死者が出たとされています。

そこで、後白河法皇が、寿永元年(1182年)、平安京の南に位置する神泉苑(雨乞いの儀式に使われる場所であり、また灌漑用水として使われる池でもありました。)に100人の僧を集めて雨乞いの読経させたのですが効果はでず、続けて100人の容顔美麗な白拍子に舞わせ雨を祈らせることとなりました。

このとき、99人の白拍子の舞では変化は起きなかったのですが、100人目に登場した静御前が舞を舞うとたちまち黒雲が現れ、3日間に亘って雨が降り続きます(義経記)。

これにより、静御前は、後白河法皇から「日本一」と評されて、一気に京中に名が知れるようになります。

その後、雨乞いの舞を各地で舞うようになった静御前は、住吉で雨乞いの舞を舞っていた際に源義経に見初められ、その愛妾となったと言われています。

なお、白拍子を舞う女性は、遊女であったものの貴族の屋敷に出入りすることも多かったために見識の高い人が多く、貴紳に愛されて愛妾となる場合も多くありました。

源義経との逃避行

源義経の九州落ち失敗(1185年11月)

壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼす大金星を挙げた源義経でしたが、その後すぐに鎌倉の源頼朝と対立し、その命を狙われ続けます。戦果を報告するために鎌倉に向かっても鎌倉入りを許されず、京に戻ると源頼朝からの刺客に襲われます(堀川夜討ち)。

そして、文治元年(1185年)10月29日、源頼朝自ら軍を率いて源義経討伐に向かっているとの報を受けた源義経は、そのときの戦力では源頼朝とは戦えないと判断したために九州に落ち延びて勢力を整えようと考え、同年11月8日、大物浦(現在の兵庫県尼崎市)から船に乗って西へ向かったのですが、途中で暴風雨に見舞われて乗っていた船が難破し、供をしていた仲間ともちりじりになってしまいます。

このとき、静御前は、源義経のそばで随行していたため、源義経と共に摂津国・天王寺近辺に戻されます。

吉野に逃れる

摂津国に戻された源義経は、郎党、正妻である郷御前、愛妾である静御前らを連れて大和国・吉野に身を隠します。

ところが、吉野にも源頼朝方の軍が攻め寄せます。

そこで、源義経は、吉野からさらに南東へ入っていき、大峰山(現在の奈良県吉野郡天川村付近)に逃れようとします。

もっとも、当時の大峰山は女人禁制であったため、源義経は、やむなく連れていた静御前に雑男と呼ばれる従者を付け、また金銭等を持たせて京に戻すこととし、自らは雪深い山中に入っていきます。

なお、室町時代初期に書かれた義経記では、このときに義経四天王であった佐藤忠信が、源義経の身代わりとなって吉野から静御前を連れて都に戻って奮戦して壮絶な自害をしたとされていますが、おそらく創作です(歌舞伎や人形浄瑠璃の演目として名高い、義経千本桜の狐忠信こと源九郎狐のモデルとなっています。)。

鎌倉方に捕らえられる

吉野で捕まる(1185年11月17日)

吉野で源義経と別れ、京に戻ることとなった静御前でしたが、源義経によって静御前に付けられた従者が、渡された金銭等を持って逃亡をしたため途方にくれます。

そうしたところ、文治元年(1185年)11月17日、静御前が、5日間の放浪を経て蔵王堂に辿り着きます。

このとき、蔵王堂にいた僧兵から質問を受けた静御前は、自分が源義経の妾であること、源義経が雑色男を付けて自分を京に送ろうとしていたこと、雑色男達が金銀を奪って逃亡してしまったことなど、それまでのいきさつを順に説明します。

雪山をさまよっていた静御前は衰弱していたため、体力の回復を待ってから鎌倉方へ送られることとなりました。

北条時政の下へ(1185年12月8日)

静御前は、体力の回復のために3週間程度の間、吉野に滞在した後、文治元年(1185年)12月8日、京の北条時政の屋敷に送り届けられます。

静御前から源義経が吉野にいることを聞いた北条時政は、源義経捜索のための兵を吉野山に差し向け、山中の大捜索が始まります。

また、北条時政は、静御前の取り調べ結果を鎌倉に送ったところ、静御前を鎌倉へ送るようにとの返書が届きます。

その結果、文治2年(1186年)2月13日、北条時政は、静御前を鎌倉に送るとの返書を再度鎌倉に送り届けます。

鎌倉に届けられる(1186年3月1日)

母である磯禅師と共に京を発った静御前は、文治2年(1186年)3月1日に鎌倉に到着し、安達清常の屋敷に入ります。

そして、同年3月6日から、問注所において、源義経の所在を聞き出すべく静御前の取り調べが始まったのですが、静御前は頑として口を割りませんでした。

鎌倉・鶴岡八幡宮で舞う

源頼朝の前で舞うこととなる

源頼朝と北条政子が鶴岡八幡宮に参拝したのですが、このとき北条政子が、京で一番といわれる静御前の舞を見たいと言い出します。

これに対し、静御前は、病気と称したり、源義経と妾として晴の場に出るのは恥辱であると言ったりして断っていたのですが、鶴岡八幡宮の社頭において神前に奉納する(八幡大菩薩に供える)という形となったため、静御前もやむなくこれを了承し、文治2年(1186年)4月8日に鶴岡八幡宮の社頭にて舞を舞うこととなります。

鶴岡八幡宮で舞う(1186年4月8日)

そして、文治2年(1186年)4月8日、静御前は、鶴岡八幡宮において、工藤祐経の鼓、畠山重忠の銅拍子によって舞を舞い始めます。

このとき静御前が歌い上げて舞った内容は、以下のような源義経を慕うものでした。

①吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき

(吉野山の白雪を踏み分けて山深く入っていった源義経が恋しい )

②しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな

(静、静と繰り返し私の名を呼んだ源義経の輝かしかった頃にもう一度戻りたい)

源頼朝を激怒させる

この静御前の舞を見て、参列したほとんどの者が心を動かされ憐みの情を覚えたのですが、源頼朝は、罪人となった源義経を慕う歌をうたったことに激怒します。

これを見た北条政子は、自分が静御前の立場であってもあのように舞うはずであり、非難すべきことではないと源頼朝をなだめたと言われています。

何とか鎮まった源頼朝でしたが、このとき妊娠していた静御前に対し、生まれてくる子が女子なら助けるが、男子なら殺すようにと断じます。

御家人にからまれる(1186年5月14日)

鶴岡八幡宮での舞を終え、出産までの時間を過ごして静御前でしたが、文治2年(1186年)5月14日、そんな静御前の下に、工藤祐経・梶原景茂・千葉常秀・八田朝重・藤原邦通ら御家人が酒を持ってやってきて宴会を催します。

この宴会では、静御前の母・磯禅師が舞を舞うなどしていたのですが、ここで静御前は、酒に酔った景茂から口説かれます。

このとき、静午前は、自分は鎌倉殿の弟である源義経の愛妾である、御家人の身分で艶言を投げかけられるなど失礼だと言い返したと言われています。

その後の静御前

男児を出産(1186年閏7月29日)

静御前は、文治2年(1186年)7月29日、源義経の子を出産したのですが、生まれた子は男児でした。

生れてくる子が女児であれば許されるものの、男児であれば将来に禍根を残す恐れを絶つため赤子のうちに殺害すると決められていました。

そこで、安達清常が、殺害するために赤子を受け取りに行き、泣き叫ぶ静御前から赤子を取り上げていきます。

そして、その後、静御前が生んだ子は、由比ヶ浜に沈められて殺されます。

京に戻る(1186年9月16日)

静御前本人は、出産を待ってから京に帰されることになっていたため、文治2年(1186年)9月16日、静御前は、憐れんだ北条政子と大姫から多くの宝物を渡され、母・磯禅師と共に京に向かいます。

そして、この後の静御前の消息は不明です。

京・嵯峨野で尼となったという説が有力ではないかと思うのですが、全国各地に静御前の民間伝承や静御前のものと言われる墓が点在していますので、その他の経過を辿った可能性も否定できません。

余談

なお、以上、静御前についての紹介をしてきましたが、実は、静御前についての記録は主に北条家礼賛のために編纂された「吾妻鏡」によるものであるであり、源氏政権の否定・北条政子礼賛のための政治的な曲筆という見方もあります。

また、細かいエピソードは、鎌倉時代に成立した軍記物語である「平家物語」や室町時代初期に書かれた「義経記」による創作ですので、、実はその真偽は明らかではありません。

あくまでも、当時を振り返る際の参考程度にとらえていただけると幸いです。

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