墨俣川の戦いは、治承5年(1181年)4月ごろに現在の岐阜県羽島市小熊町と大垣市墨俣町の間を流れる長良川(当時は墨俣川と言っていました)近辺で起こった、源行家軍と平重衡軍との戦いです。
治承・寿永の乱の戦いの1つであり、富士川の戦いに敗れて勢いを失いつつあった平家が、源氏軍を打ち破り勢いを取り戻そうとするきっかけとなった戦いでもあります。
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墨俣川の戦いに至る経緯
源行家が三河国・尾張国に進出
源行家が以仁王の令旨を配り歩いたことにより、全国各地で源氏勢力が反平家を唱えて立ち上がります。
そして、治承4年(1180年)10月の富士川の戦いで源頼朝・武田信義連合軍に敗れて勢いを失ったことから、全国各地で平家の求心力が低下していきます。
ここで、令旨を配った源行家も動き始めます。
源行家は、いずれかの源氏勢力に与することはなく三河国、尾張国に入り、勢力が低下した平氏勢力に代わって同地にて独立勢力として勢力を高めて行きます。
なお、この頃に源行家は、五井城址(愛知県蒲郡市)を築いたらしいのですが、その遺構は現存していません。
源行家討伐軍出陣(1181年閏2月15日)
全国各地で頻発する反平家の動きに対しては、平家方も手をこまねいてたわけではなく、平家本拠地の福原に遷都した上で、総官の制度構築などの対策を重ね、まずは畿内の反乱や反平氏の動きを取った南都寺社勢力や美濃の反乱を制圧していきます。
その上で、畿内隣接地の制圧を考えます。
平家の次のターゲットは、尾張国に勢力を及ぼしている源行家でした。
ところが、治承5年(1181年)閏2月4日、平家が源行家討伐軍を出陣させようとしたところで平清盛が急死したため、源行家討伐軍の出発が一時中断されます。
その後、平家は、平清盛の葬儀を滞りなく済ませ、同年閏2月15日、再度源行家討伐軍を編成し、平重衡を将として3万人を率いて尾張国に向かって進軍して行きます(平家物語)。
墨俣川の戦い(1181年3月10日)
源行家軍の布陣
平家軍出陣の報を聞いた源行家は、直ちに兵をかき集めます(平家物語によると6000人、玉葉によると5000人)。
また、このとき、源頼朝から、源義円(源義朝の八男・源頼朝の異母弟)が援軍として送られてきたため、これを軍に組み込みます。なお、吾妻鏡には源義円が源頼朝の下に赴いた記述がないため源義円が直接源行家の下に参陣した可能性もあり、その経緯は不明です。
源行家は、墨俣川東岸(尾張国側)の墨俣の渡し周辺の寺院を焼いて地均をし、現在の一乗寺の庫裏と本堂付近を中心に、かき集めた6000人の兵を配置する形で陣を敷きます。
平家軍の布陣
墨俣川東岸に布陣した源行家軍を見た平家は、墨俣川西岸(現在の大垣市墨俣町下宿付近)に布陣します。
こうして、治承5年(1181年) 3月10日、源行家軍と平重衡軍が墨俣川(現在の長良川)を挟んで対峙します。
源義円の奇襲失敗(1181年3月10日夜)
墨俣川を挟んで布陣した両軍でしたが、3万人対6000人という戦力差があり、源行家方の劣勢は明らかでした。
まともに戦って勝てるはずがないと考えた源行家は、奇襲作戦を考えます。
そして、治承5年(1181年)3月10日夜、平家を混乱に陥らせようとして、源義円を墨俣川の上流に向かわせて墨俣川を渡河させて平家の陣に侵入させます。
ところが、平家方に、陣に入った源義円の兵がもれなく濡れていることに気づかれたために奇襲がすぐに露見します。
そして、猛反撃を受けた源義円隊はすぐに壊滅し、指揮官であった源義円も平家方に打ち取られてしまいます。
平家軍による源行家軍への総攻撃
そして、源義円隊を殲滅した平家軍は、その勢いのまま墨俣川を渡り、対岸に陣を敷いていた源行家軍を強襲します。
3万人の兵で強襲された源行家軍は大混乱に陥り、敗走する兵が続出します。
そして、ここで源重光(泉重光・山田重満とも言われる尾張源氏)・源頼元・源頼康(共に大和源氏)ら源氏一門衆が次々と戦死し、源行家の次男である源行頼も敵軍の捕虜となります。
また、総大将の源行家は敗走し、一旦は熱田に篭ったのですが、そこも攻撃を受けたため、東海道に沿って三河の矢作川を越えてそのまま逃亡し、墨俣川の戦いが終わります。
墨俣川の戦い後
墨俣川の戦い後の平家の動き
源行家を打ち負かした平家方でしたが、飢饉により兵糧が不足していたこと、東国に勢力基盤を築いていた源頼朝に対する警戒心があったこと、後白河法皇が不穏な動きをする可能性があったことなどから、源行家追撃のためにさらに東国に兵を進めることについての慎重論が出たため、それ以上東国へ進出せずに京に撤退しています。
墨俣川の戦い後の源行家の動き
他方、敗戦後に東に向かった源行家は、関東で勢力を高めつつあった源頼朝に接近を図り、相模国松田に住み着いて叔父・甥の関係性を縁として所領を求めたのですが拒否され対立します。
やむなく、源行家は、次善の策として、北陸経由で京を目指していたもう1人の甥である木曾義仲の下に赴き、行動を共にすることとします。
そして、源行家は、その後、木曾義仲の幕下にて上洛戦を戦っていくこととなります。