【源頼朝の墓】勘違いしがちな初代鎌倉殿の墓の場所(観光用)

源頼朝公の墓を観光された方は相当数おられると思うのですが、その大部分の方は場所を間違っておられます。

その原因は明らかです。

ネットで「源頼朝の墓」と検索すると誤った情報があふれ出てくるからです。

グーグルマップの記載も誤っています。

本稿では、この誤りを正し、観光に際してきちんと源頼朝の墓に参ることができるよう、本当の源頼朝の墓がどれなのかについて、その理由もあわせて説明したいと思います。

源頼朝の墓の所在場所

源頼朝の墓は、源頼朝が開いた最初の鎌倉幕府である大倉幕府(現在の清泉小学校付近)の北側にあります。

この点については、ほとんどの観光案内に誤りはありません。

大倉幕府跡地からまっすぐ北に行くと、源頼朝を祀った白旗神社があり、ここは、元々は大倉幕府の北隅に位置する、源頼朝が石橋山の戦いの際に髷の中に納めて戦ったとする銀製の小観音(守りの本尊として常に身辺に置き信仰する仏像=持仏)を安置していた持仏堂でした。

なお、源頼朝は、石橋山の戦いで自らの救ってくれたこの持仏(小観音)を生涯崇拝しており、自分が死亡した後は、この持仏堂に葬るようにと述べていました。

そのため、正治元年(1199年)1月13日に53歳で源頼朝がなくなると、源頼朝はこの持仏堂に葬られ、そのために、以降この持仏堂が法華堂(法華堂には明治維新以前の有力者の墓所として建てられるお堂という意味もあります。)と呼ばれることとなりました。

すなわち、源頼朝の墓は、この持仏堂=法華堂の跡地なのです。

このことは、白旗神社の説明板の記載を見ていただいても明らかです。

源頼朝が葬られた結果、以降、この法華堂が、源頼朝の墓所として鎌倉御家人たちの厚い信仰の対象となったのです。

ところが、その後、時代の流れと共に、法華堂の建物は廃絶してしまったのですが、明治維新時に、当該法華堂が源頼朝を祭神とする白旗神社に改められました(現在の白旗神社の社殿は、昭和45年に造営されたものです。)。

このいきさつを知らないと、現在、現地に行っても源頼朝の墓の跡地には何も残されていないため、そこが源頼朝の墓であると認識できないのが誤りの一因となります。

さらに、この誤りを以下の供養塔の存在が助長します。

勘違いしがちな源頼朝の供養塔

さらに、ややこしいことに、この持仏堂の西側(法華堂跡に向かって左側)に、江戸時代に島津藩主・島津重家が整備した供養塔が設置されており、地図やネット上では、この供養塔が源頼朝の墓であると説明されていることが、この誤りを助長しています。

立派な石の供養塔が建てられ、さらにここが源頼朝の墓であると説明されれば、誰だってこの供養塔が源頼朝の墓であると勘違いするのは当然です。

そのため、多くの人は、この供養塔が源頼朝の墓であると勘違いし、ここにお参りをして帰ってしまうのです。

平安時代末期~鎌倉時代初期の墓の話

では、なぜこのようなややこしいことになっているのでしょうか。

それは、現在を生きる我々と、当時を生きた人たちとの文化が違うからです。

現在を生きる我々は、人が死ねば火葬され、石造りの墓に葬られるのが一般的です。

だからこそ、現在を生きる我々は、前記の石造りの供養塔が源頼朝の墓であると考えるのです。

ところが、平安時代から鎌倉時代初期の埋葬方式は現在とは違っていました。

このころの埋葬方法は風葬です。簡単に言うと放置です。

当時の文明で、死者が出るたびに薪を集めて遺体を火葬するほどの火力を出すことは困難であり、1つ1つの遺体を火葬して葬る余裕などありません。

そこで、庶民の遺体は放置され、権力者の遺体であってもせいぜい土葬されるにとどまっていました。

また、当時は、死を穢れと考えていたため、できるだけ触らないようにし、触れてしまったら精進潔斎が必要と考えていましたので、墓参りなどという文化もありませんでした。

そのため、死者のために石の墓など造りません。

このことは、初代鎌倉殿となって武士の頂点に君臨した源頼朝であっても同様で、亡くなった源頼朝に石造りの墓を作られることはなく、持仏堂=法華堂の下に葬られることとなったのです。

そのため、源頼朝の墓は、石造りの供養塔ではなく、持仏堂=法華堂という建物であったというわけです。

観光の際の参考にしていただけると幸いです。

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