【稲生の戦い】織田信長が織田弾正忠家を完全掌握するに至った合戦

稲生の戦い(いのうのたたかい)は、斎藤道三が敗死したことにより美濃国・斎藤家を敵にまわしてしまったことで四面楚歌状態となった織田弾正忠家において、当主・織田信長の指導力に疑問を持った宿老らにより担ぎ出された弟・織田信行(信勝)がクーデターを起こして勃発した合戦です。

稲生合戦、稲生原合戦とも呼ばれます。

織田信長が、織田弾正忠家の絶対的当主となった転機となった戦いでもあります。

稲生の戦いに至る経緯

織田弾正忠家で求心力を得る

織田弾正忠家の家督を継いだのですが、その直後、その器量に疑問を抱いた鳴海城主・山口教継が、今川義元に寝返ります。

織田信長は、家中への示しのため、裏切者の山口教継を討伐するため、天文21年(1552年)4月17日、800人の兵を率いて那古野城から出陣し、尾張国・赤塚で山口軍と戦闘になりますが、勝利に至ることができずに引き分けに終わってしまいます。

この織田弾正忠家のゴタゴタを見た清洲織田家(織田大和守家)に仕える坂井大膳が、織田信長方の松葉城と深田城に乗り込んで松葉城主織田伊賀守と深田城主織田信次(信秀の弟で信長の叔父)を人質を取って、両城を取り込んでしまいます。

「うつけ」と評価されていた織田信長が、家督相続直後に、鳴海城・松葉城・深田城を立て続けに失ったため、織田弾正忠家内での織田信長の評価は地に落ちます。

この辺りが織田信長の最も苦しい時期となります。

その後、松葉城・深田城を奪還戦であった萱津の戦いに勝利した織田信長は、その評価をそれまでの「うつけ」か、一変させ、尾張国内及び織田弾正忠家内でにおいて求心力を高めていきます。

清洲織田家(織田大和守家)を滅ぼす

(1)尾張国守護・斯波義統暗殺(1554年7月12日)

松葉城・深田城を簒奪したとはいえ、清洲織田家(織田大和守家)は織田弾正忠家からすると主家に当たります。

そのため、織田信長からは、簡単に清洲織田家(織田大和守家)に攻め入ることはできません。

ところが、ここで織田信長は絶好の口実を手に入れます。

清洲織田家では、家臣の坂井大膳らが尾張国守護代・織田信友を操り、またその織田信友を使って尾張国守護の斯波義統を操っている状態だったのですが、その坂井大膳が、天文23年(1554年)7月12日、河尻左馬丞・織田三位らと示し合わせて、斯波義統を襲撃し一門数十人もろとも死に追いやるという事件を起こしたのです。

父が暗殺されたとの報を聞いた斯波義銀は、那古野城へ逃げて織田信長に保護されます。

この尾張国守護・斯波義統暗殺と遺児を保護により、織田信長は、主殺しの清洲織田家(織田大和守家)討伐という大義名分を得ます。

こうして、織田信長は、萱津の戦いに勝利して得た求心力を基礎として、いよいよ主家・清洲織田家(織田大和守家)の討伐に動きだしたのです。

(2)中市場の戦い(1554年7月18日)

天文23年(1554年)7月18日、織田信長は、手始めに柴田勝家に清洲城攻撃を命じます。

そして、この柴田勝家軍と清洲織田軍とが三王口で戦闘となったのですが柴田勝家軍が勝利し、その後、後退した清洲織田軍は乞食村(春日井郡安食村)、誓願寺でも全て敗退し、町口大堀の中まで追い入れられてしまう大敗北を喫します。

このとき、清洲織田軍では、河尻左馬丞・織田三位以下三十騎が討ち死にして大きく勢力を落とすこととなりました。

(3)清洲織田家の滅亡と清洲城接収

勢力を落とした清洲織田家・織田信友は、坂井大膳が提案した起死回生の策である織田弾正忠家の重鎮・織田信光の調略を試みます。

ところが、この策は逆に織田信長に利用されます。

清洲織田家から内応の提案を受けた織田信光は、これに応じるふりをして、天文24年(1555年)4月19日に清洲城に入城し、翌同年4月20日、森可成に命じて主殺しの咎によってこれを討ち取ったのです(坂井大膳は、命からがら逃亡し、駿河国・今川義元を頼って落ちて行きました。)。

この織田信友の死により清洲織田家は滅亡し、織田信長が清洲城を接収し、織田弾正忠家の本拠地を清洲城に移します。

そして、それまでの本拠地であった那古野城を最大の功労者である叔父の織田信光に譲ります(この結果、それまでの織田信光の本拠地・守山城は織田信次に譲られました。)。

清洲城は、尾張国の中心であり、その後の討伐対象となる岩倉具視織田家との前線に近い城ですので、その勢力を尾張国に広げていこうという織田信長の意思が見て取れます。

斎藤道三敗死(1556年4月20日)

ところが、順調に進んでいた織田信長の尾張国統一戦に水を差す事件が隣国の美濃国で起こります。

弘治2年(1556年)4月20日、織田信長の義父であり後ろ盾でもあった斎藤道三が、嫡男斎藤義龍と争って敗れて敗死したのです(長良川の戦い)。

このとき、織田信長は、自ら援軍として斎藤道三救援に向かっていたのですが合戦には間に合いませんでした。

大良河原の戦い

長良川での勝利で士気の上がった斎藤義龍軍は、斎藤道三の首実検を終えたあと織田信長が陣所にしていた大良口にも兵を差し向けます。

その結果、織田信長軍と斎藤義龍軍が、大良河原で激突し、織田信長側が山口取手介と土方彦三郎が討ち死にし、森可成は千石又一が膝を斬られて退くという敗北を喫します。

織田弾正忠家の混乱

斎藤道三の死は、織田信長に大きな影響を及ぼします。

斎藤道三の死により後ろ盾を失っただけではなく、それまで同盟国であった美濃国・斎藤家を敵国にしてしまったからです。

尾張国の統一もままならない状況で、東からの今川軍をも牽制しなければならない上に、さらに北側の美濃国・斎藤家まで敵にしたのですから、織田弾正忠家は四面楚歌状態となります。

しかも、ここで尾張国・上四郡を治める岩倉織田家が斎藤義龍と結び、織田信長が治める清洲近くの下之郷村に放火するなどして織田弾正忠家への敵対姿勢を明確化させます。

こうなってしまうと、織田弾正忠家における家臣達は動揺し、周囲を全て敵にしてしまった織田信長では織田弾正忠家を守れないと考え、斎藤義龍や織田信安(岩倉織田家)と呼応して織田信長を排除しようという不穏な動きが起こり始めます。

このとき、織田弾正忠家の重鎮であり、実質上織田信長の後見的な役割であった織田信光が存命であれば、この混乱を納めた可能性があるのですが、織田信光が弘治元年11月26日(1556年1月7日)に不慮の死を遂げていることから、家中の混乱が納まりませんでした。

織田信行・林秀貞らによるクーデター

そして、織田弾正忠家の宿老であった林秀貞(林通勝・一番家老)とその弟・林通具(林美作守)、柴田勝家らは、遂に、織田信長を廃して弟の織田信行に織田弾正忠家の家督を継がせようと考え動き始めます。

これに織田信行自身も同調し、織田信行までも織田家代々の名乗りである弾正忠を自称し、かつ織田信長の直轄領である篠木三郷(正確な場所不明)を横領して砦を構えるなどして反乱の準備をしていきます。

このときの織田信行に付いたのは、織田信行(末森城)、林秀貞(那古野城)・角田新五(守山城)、柴田勝家(下社城)、丹羽氏勝(岩崎城)らであり、その勢力は尾張国東部一帯に広がりました。

他方、佐久間信盛らの他の家老衆、織田信光・織田信房・織田秀敏・飯尾定宗ら一門衆は織田信長についたため、織田弾正忠家は庄内川を挟んで東西に分断されるような形となります。

もっとも、このとき織田信長は、このクーデターを鎮圧させるために素早く対応します。

織田信長は、即座に織田信行方へ対応ができるよう佐久間信盛を横領された篠木三郷に近い上条城に入れて吉田城とあわせて守らせた上、さらにクーデター側の勢力範囲となっていた庄内川の西側に侵攻していくために佐久間盛重に庄内川東側にある名塚に砦を築くよう命じます。

 

稲生の戦い(1556年8月24日)

名塚砦に向かう織田信行軍

名塚に砦を築かれてしまっては、のど元に刃を突き付けられることとなってしまうため、クーデター軍は、弘治2年(1556年)8月23日、名塚砦を攻撃するために、柴田勝家1000人、林通具700人が名塚砦に向かいます。

これを見た織田信長も、翌同年8月24日、清洲城から軍を出陣させ、清洲城から西に向かって小田井の渡しから庄内川を渡って織田信房・佐久間盛重が守る名塚砦に入ります。

そのため、織田信長が籠る名塚砦に、東から西進して来る柴田勝家軍1000人と、南から稲生街道を北進して来る林通具軍700人が向かってくる形となります。

砦にいるとはいえ倍以上の兵力で2方向から攻められては勝ち目がありませんので、織田信長は、砦にいた約半数の兵を織田信房に預けて東側から進軍してくる1000人の柴田勝家軍の迎撃に向かわせます。

また、自身はもう半分の兵を率いて南側から進軍してくる700人の林通具軍の迎撃に向かいます。

稲生の戦い(織田信長対林通具)

このとき、南に向かった織田信長軍が、稲生原(現在の愛知県名古屋市西区名塚町1丁目庚申塚)付近で林通具軍とぶつかります(稲生原という地名からこの戦いが稲生の戦いと呼ばれます。)。

織田信長軍は、林通具軍に比べて圧倒的に寡兵であったためすぐに劣勢となります。

苦しくなった織田信長は、森可成に別動隊を組織させて林通具軍の側面を攻撃させることとします。

この策が成功し、寡兵ながらも織田信長軍が林通具軍を挟撃する有利な体勢となります。

挟撃が成功して乱戦となった中で、織田信長軍の黒田半兵衛が林通具の下に到達し斬り合ったのですが敗れます。

もっとも、その後織田信長自らも林通具の下にたどり着き、織田信長自ら息が切れ切れとなった林通具を槍で突き伏せてその首を挙げたと言われています。

こうして、名塚砦南側の戦いは織田信長軍の勝利に終わります。

名塚砦東側の戦い(織田信房対柴田勝家)

もっとも、東に向かった織田信房軍は、柴田勝家軍に大苦戦をします。

織田信房軍は、数に劣る上、戦巧者の柴田勝家と戦術の差があったために全く歯が立たず、佐々孫介(佐々成政の兄で小豆坂七本槍の一人)ら主だった家臣が次々に討たれるなどして名塚砦の方向に向かってどんどん押し込まれていきます。

そして、いよいよ織田信房軍が崩壊の危機に達したときに、織田信長軍が援軍として加わります。

このとき、織田信房軍の兵と織田信長軍の兵を足しても柴田勝家軍の兵数には遠く及びませんでしたが、ここで織田信長が柴田勝家軍に向かて大声で怒鳴ると、身内同士の争いだったこともあり、柴田軍の兵たちは逃げていったとされる真偽不明の逸話が残されています。

こうして、名塚砦東側の戦いも織田信長軍の勝利に終わります。

稲生の戦いの決着

林通具の首を挙げ柴田勝家軍を追い払った織田信長軍は、敗走する織田信行の軍を追撃し、鎌田助丞・富野左京進・山口又次郎・橋本十蔵・角田新五・大脇虎蔵・神戸平四郎ら、織田信行方の主だった武将を含む450人余りを討ち取るという大戦果を挙げます(信長公記)。

大敗北を喫した織田信行方は、織田信行が末盛城に、林秀貞が那古野城にそれぞれ篭城することとなり、それに対して織田信長は両城に進軍してそれぞれの城下を焼き払います。

 

稲生の戦い後

もっとも、ここで織田信長と織田信行の生母である土田御前が仲介として介入し、織田信行は助命され、清洲城で織田信長と対面・謝罪して許されます。

また、クーデターを起こした中心人物である林秀貞、柴田勝家、津々木蔵人らも織田信長に謝罪、忠誠を誓うことで許されます。

こうして、織田信長は、家中のクーデターを鎮圧すると共に、もう1人の当主となる余地を残していた弟を屈服させたことにより織田弾正忠家の絶対的当主としてその地位を固めることとなりました。

なお、このとき屈服した織田信行は、後に再度謀反を企んだのですが、弘治3年(1557年)11月2日、清洲城の北櫓・天主次の間で暗殺されています。

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