鳥取城の飢え殺し(とっとりじょうのかつえころし)と言われる凄惨な兵糧攻めをご存知ですか。
攻城戦の名人として名高い豊臣秀吉(この頃は羽柴秀吉)の城攻めの中でも1、2を争う残酷な戦いです。
綺麗事ではいかない戦争の怖さが集約された戦いとも言えます。
本稿では、地獄絵図となった第2次鳥取城の戦いについて見て行きましょう。
【目次(タップ可)】
第2次鳥取城の戦い勃発の経緯
羽柴秀吉による中国戦線
急激に勢力を拡大していた織田信長は、畿内周辺の大名を駆逐した後、全国支配のために全国各地に配下を送り込み、多方面での攻略作戦を展開します。
このとき、中国地方に派遣されたのが羽柴秀吉でした。
中国方面司令官となった羽柴秀吉は、東から順に次々と在地勢力を攻略・調略して西進し、天正6年(1578年)から別所長治が籠る西播磨国・三木城(三木合戦・三木の干殺し)の兵糧攻めに2年もの月日を費やしていました。
そんな中、第2次木津川合戦、有岡城の戦いなどの織田方の勝利により後顧の憂い(東側の危険)が取り払われます。
また、備前国・美作国を治める宇喜多直家が、調略により毛利方から織田方に寝返ったことにより西側の安全も確保できました。
東西の安全を得た羽柴秀吉は、ここで中国方面での作戦行動を北側に向かって一気に活発化させます。
具体的には、羽柴秀吉は、三木城の包囲を残したまま、弟である羽柴長秀(後の豊臣秀長)に但馬国に侵攻させ、味方に引き入れた宇喜多直家に美作国に侵攻させた上で、自身は因幡国への侵攻を開始します(3方面同時作戦となります。)。
そして、豊臣秀長率いる但馬国方面軍が、但馬国の水生城・有子山城を攻略し、但馬方面を概ね制圧します。
そして、羽柴秀長はそのまま西の因幡国に向かって行きます。
また、美作国を攻めていた宇喜多直家が岩屋城を攻略した後、調略により東伯耆国の国衆であった羽衣石城主・南条元続が毛利方から織田方に寝返ったため、因幡国が毛利勢力から孤立することとなりました。
第1次鳥取城攻め(1580年6月)
これの動きをチャンスと見た羽柴秀吉は、毛利の軍門に下っていた因幡国守護・山名豊国が治める鳥取城攻略に向かいます。
もっとも、鳥取城は、標高263mの山上にある堅城で、力攻めで落とすには損害が大きくなることが想定されます。
そこで、羽柴秀吉は、鳥取城を包囲し、兵糧攻めを仕掛ける選択をします。
羽柴秀吉は、軍を南から進めて鳥取城に向かい、途中で宮部継潤率いる別働隊を西に向かわせて、鳥取城の支城であった鹿野城を攻略させます(鹿野城は、すぐに陥落します。)。
その上で、羽柴秀吉本隊は、北上しながら鳥取城を目指します。
なお、羽柴秀長隊も、東の但馬方面から桐山城、二子山城を攻略して因幡国に向かっています。
ここで、鹿野城を落とした宮部継潤と南条元続に東側の吉川元春の備えとし、鳥取城の北側にある港と河川を羽柴秀長に守らせた上で、羽柴秀吉本隊で鳥取城を取り囲みます。
3か月ほど鳥取城を囲んだ後、羽柴秀吉が鳥取城主山名豊国に対し、降伏すれば因幡一国を安堵すると申し出たところ、山名豊国は羽柴秀吉に下ったため、第1次鳥取城の戦いは3か月で決着がつきます。
鳥取城の攻略により、羽柴秀吉は、因幡国全域を支配下に置くこととなりました。
その後、羽柴秀吉は、鳥取城にて残務処理を行った後、弟・羽柴秀長に有子山城を与えて但馬国の統治を任せ、本拠地・姫路城に帰還します。
そして、この後、羽柴秀吉は、織田信長に戦況の報告をするため、山名豊国を連れて安土城の織田信長の下へ向かいます。
山名家臣が鳥取城奪取(1580年10月)
ところが、天正8年(1580年)10月、山名豊国の降伏を承服できなかった山名家家老の森下道誉、中村春続が毛利家に助けを求めて、織田方との徹底抗戦を選びます。
森下道誉らは、山名豊国が不在となった鳥取城を乗っ取った上で、毛利氏の山陰方面の責任者であった吉川元春に対し、織田方に対抗できる城主を送って欲しいと依頼します。
吉川元春は、この要請に応じて、自身の配下の猛将・牛尾春続を鳥取城に送り込みます。
周りを敵に囲まれた状態の鳥取城に入った牛尾春続は、早速周囲の制圧を始めます。
手始めに、鳥取城を出て北の海を目指し、まずは港を制圧します。
そして、牛尾春続は、そのまま東に向かって桐山城の制圧に向かいます。
ところが、桐山城危しの報を聞いた羽柴秀長配下の垣屋光成率いる但馬水軍が桐山城の後詰に駆け付けたため、牛尾春続は桐山城を制圧できません。
それどころか、牛尾春続は、桐山城攻めの際に、瀕死の重傷を負い鳥取城に撤退することとなりました。
牛尾春続が負傷により城主を努めることができなくなったため、森下道誉、中村春続は、吉川元春に新しい城主を送って欲しいと依頼します。
吉川元春は、この要請に応じ、新しい鳥取城城主として石見国から文武両道で名高い吉川経家を送り込むことを決定し、準備させます。
第2次鳥取城の戦い
豊臣秀吉による食料買い占め
これらの毛利方の動きに羽柴秀吉も黙ってはいません。
鳥取城を奪われた羽柴秀吉は、再度鳥取城を奪還すべく動きだします。
もっとも、前記のとおり守りの固い鳥取城に対して力攻めにすることは得策ではありません。
そこで、羽柴秀吉は、再度兵糧攻めを選択します。
このとき、羽柴秀吉は、軍師・黒田官兵衛の献策を採用し、鳥取城付近で売買される兵糧を通常の2倍の価格で買い占めを始めます。
吉川経家の入城(1581年3月18日)
天正9年(1581年)3月18日、吉川経家は約400人の家臣を連れて鳥取城に入ります。
鳥取城に入った吉川経家は、鳥取城の備蓄の少なさに驚きます。鳥取城では、前回の兵糧攻めの際に備蓄されていた兵糧の大半を消費していたこと、このころ米の不作によって価格が上昇していたこと、羽柴秀吉方の高額買取につられて逆に米を売却してしまっていたことから、鳥取城では兵糧の備蓄が不十分でした。
鳥取城に入っその兵糧備蓄の少なさに危険を感じた吉川経家は、急ぎ周囲に買い付け依頼を出して兵糧の備蓄に努めようとします。
ところが、既に周囲で羽柴秀吉が高額買取をしてしまっていたため思うように食料備蓄を進めていくことができませんでした。
鳥取城包囲(1581年6月)
そんな中、兵糧の買い占めを完了したと判断した羽柴秀吉は、船大将の松井猪之助・吉川平助らに鳥取城北側の港を攻略させて占拠します。
そして、東側から回り込んだ羽柴秀長と、西側から回り込ませた黒田官兵衛らに包囲のための陣を敷かせ、天正9年(1581年)7月12日には南側に羽柴秀吉本隊が到着した上で土地勘のある元鳥取城主の山名豊国の手引きにより、鳥取城の周りの要所に新たに付城を築くなどし、合計2万人の兵で全長12㎞にわたる鳥取城包囲網を構築して、鳥取城への陸上からの物資搬入を遮断します。
また、海上には松井猪之助を、千代川には浅野長吉を配備して、鳥取城への水路からの物資搬入も封じ込めます。
農民を鳥取城に追い込む
その上で、羽柴秀吉は、鳥取城の支城である雁金城を攻略して鳥取城は完全に孤立させるとともに、同城の敗残兵を鳥取城に誘導します。
さらに、羽柴秀吉は、鳥取城周囲の農家や田畑を焼き払うなどして農民たちを脅し、鳥取城内に逃げ込むように仕向けます。
これらの結果、堅固ではあるものの兵糧の乏しい鳥取城に、吉川経家臣下の兵、雁金城からの逃亡兵に加え、農民2000人が合わさって、合計4000人もの人間が籠ることとなりました。
鳥取城内での食人行為
以上の徹底した包囲網により鳥取城の食料は1か月程度で底をつき、家畜を始め、草の根や木の実、木の皮などあらゆるものが食べ尽くされます。
それでも食料は足りず籠城1月後ほど経過すると餓死者が出始めます。
そして、ここから鳥取城の真の地獄が始まります。
究極に飢えた鳥取城に籠る兵士・農民は、次々に逃げ出そうとして鳥取城から出てくるのですが、豊臣秀吉は1人たりともこれを許さず、鳥取城から出てこようとする者全てを射殺します。
外に出ることもできない鳥取城内の人たちは究極の飢餓状態から精神的にも不安定となります。
その結果、鳥取城内において、亡くなった者・負傷した者を解体して食べるという食人行為(カニバリズム)が横行するようになります。
その凄惨たる様子は、餓鬼のごとく痩せ衰えたる男女、柵際へより、もだえこがれ、引き出し助け給へと叫び、叫喚の悲しみ、哀れなるありさま、目もあてられずと評されています(信長公記)。
吉川経家降伏(1581年10月)
吉川経家は、3カ月以上にわたって鳥取城内にて持ち堪えたのですが、城内のあまりに悲惨な状況を見てこれ以上の籠城は無理と判断し、豊臣秀吉に自分の命と引き換えに城兵の助命を申し入れます。
これに対し、羽柴秀吉は吉川経家を家臣に取り込もうと考えていたため、山名家家老の森下道誉、中村春続らのみを処罰して、吉川経家を助命しようと考えたのですが、吉川経家がこれを拒否したため、吉川経家とその重臣たちを切腹させることによりその他の者を許すという内容で和議が成立します。
そして、天正9年(1581年)10月25日、吉川経家、森下道誉、中村春続が腹を切ったことにより、悲惨を極めた第2次鳥取城攻めが終わります。
なお、吉川経家の辞世の句は、「武士の 取り伝えたる梓弓 かえるやもとの 栖なるらん 」でした。
後日談
吉川経家らの切腹により許された鳥取城内にいた兵士・農民ですが、許された後に豊臣秀吉から粥がふるまわれます。
ところが、空腹の兵士・農民たちは、慢性的な栄養障害がある状態で急激な栄養補給を行ったことに利発症する代謝性の合併症であるリフィーデイング症候群により半数近くが亡くなってしまったと言われています。