【藤原不比等大出世の謎】なぜ天智天皇の懐刀の子が天武朝で重用されたのか

藤原氏といえば藤原鎌足を祖とする神別氏族であり、中臣鎌足が没する直前に天智天皇に「藤原」の氏を賜ったことに始まります。

そして、その子である藤原不比等が持統天皇の信任を受け、藤原氏は不比等の子孫に限ることとされました。

不比等の子の代で南家・北家・式家・京家の四家に分かれそれぞれが朝廷権力の中枢を担いました。

平安時代に入ると、藤原北家が皇室と姻戚関係を結んで摂関政治を行い、とくに権勢を誇った藤原道長の嫡流子孫(御堂流)は院政期以降も摂政・関白をほぼ独占し、臣下としては最高の家格摂家となった一族として有名です。

もっとも、藤原氏隆盛のスタート地点にとても大きな疑問があります。

藤原氏大出世のはじまりの謎

前記のとおり、藤原氏は、中臣鎌足が天智天皇に尽くし没前にその氏を賜ったことに始まります。

すなわち、中臣鎌足(藤原鎌足)は、天智朝の功労者であり、天智天皇に次ぐナンバー2に位置していました。

そのため、藤原鎌足の死後に後を継いだ藤原不比等も同様に天智天皇方の重要人物です。

そのため、天智天皇崩御後に、その子である大友皇子と、弟である大海人皇子が争った壬申の乱の際には、程度は不明ですが大友皇子方に与しているはずです(このとき藤原不比等本人はまだ14歳位の若年であったため本格的な活動は一族の誰かがしていたはずです)。

壬申の乱は、672年に大海人皇子の勝利で終結し、その後に大海人皇子が天武天皇として即位することで天武朝が成立していますので、通常、敗北者方の重要人物であった藤原不比等は、勝者である天武方によって処刑されるか、そこまでいかなくても追放等により失脚して然るべきといえます。

この点、壬申の乱の後、この時点ではまだ若年であった藤原不比等に対して処刑等の厳しい処罰が下されることはなかったのですが、出世レースから脱落させられて冷や飯を食う生活を強いられることとなってしまいました。

ところが、この後に、藤原不比等の待遇が一変します。

よく知られているとおり、この後、壬申の乱の敗者側の藤原不比等が、乱後に成立した天武朝で大出世をしていったのです。

極めて不自然です。

そこで、以下、この謎について藤原不比等の経歴から順に検討していきましょう。

藤原不比等失脚

壬申の乱の際に積極的な敵対をしなかったために粛清対象からは免れたものの、天武天皇治世下では、藤原不比等を含む藤原氏一族は完全に政権中枢から排除されてしまいました。

そのため、藤原不比等もまた、大舎人の登用制度によって出仕する下級官人という低い地位に落とされてしまいました(日本書紀・天武天皇2年5月条)。

これに対し、藤原不比等は、大臣家である蘇我氏の尊貴性を取り入れることで地位向上を目指します。

具体的には、天武天皇7年(678年)頃に蘇我連子の娘・蘇我娼子を嫡妻として迎えることで政権内復帰を目指したのです。

もっとも、こんな小手先の変化で政権中枢へ戻れるはずもなく、藤原不比等は、この後も山科にあった田辺史大隅の家に厄介になりながら(尊卑分脈)、冷飯を食う生活を続けていくこととなりました。

ところが、この状況を一変させる事件が起こります。

朱鳥元年(686年)9月9日に天武天皇が崩御されたのです。

藤原不比等の転機

そして、ここからさらなる大きな謎が生まれます。

この後、天武天皇の後継を巡って争いが起こるのですが、そこで天武天皇の妻である鸕野讚良(後の持統天皇、天智天皇の娘)が藤原不比等を国政に復帰させ、さらにそこから引き上げたのです。

問題は、なぜそのようなことが起きたのかです。

大津皇子自害(686年10月3日)

ことの始まりは、朱鳥元年(686年)9月9日の天武天皇崩御です。

天武天皇崩御により、その後継者として大津皇子(母は大田皇女)と、草壁皇子(母は鸕野讚良=後の持統天皇)の名が挙がりました。

この点、大津皇子は、草壁皇子より1歳年下であったものの、母の身分は高く、天武天皇に愛され、才学あり、詩賦の興りは大津より始まる、立ち居振る舞いと言葉遣いが優れると称されるなど(日本書紀)、明らかに草壁皇子よりも優れた能力を持っていたと考えられていました。

そこで、鸕野讚良は、大津皇子が草壁皇子即位の障害となると考え、我が子の草壁皇子を確実に次期天皇とするために大胆な行動に出ます。

天武天皇崩御間もなくである朱鳥元年(686年)10月3日に、草壁皇子に次ぐ皇位継承権者と考えられていた大津皇子を謀反の罪により自害に追い込んだのです。

こうして天武天皇の崩御により事実上皇位を継承した草壁皇子でしたが、まだ年が若かったこと、大津皇子殺害疑惑に基づく消極的意見も多かったことなどから、草壁皇子がすぐに天皇として即位することはできませんでした。

そこで、2年3ヶ月にも亘る一連の葬礼を繰り返さすことで時間を稼ぎ、その間に鸕野讚良の指導の下で草壁皇子の教育とイメージアップ活動が繰り広げられました。

鸕野讚良は、この一連のイメージアップ戦略に藤原不比等を利用します。

藤原不比等は法律に詳しく、また非常に頭の切れる人物であったため、これらを任せるのに最適と考えたからです。

そして、これにより、藤原不比等の復帰の芽が出てきました。

そして、時間をかけることによって草壁皇子に対するイメージ改善がなったと判断した鸕野讚良は、ようやく天武天皇を葬ることとして、草壁皇子の即位に向けて動き始めたのです。

藤原不比等国政復帰(689年2月)

鸕野讚良に草壁皇子のイメージアップという一定の成果を見せた藤原不比等は、持統天皇3年(689年)2月、その功に報いられ、律令制位階従五位下相当である浄広肆の位・判事(ことわるつかさ、現在の裁判官)に任命される形で国政復帰を果たします(日本書紀)。

なお、この時代には、高位者の子孫を父祖である高位者の位階に応じて一定以上の位階に叙位する制度(蔭位の制)が存在しており一位の嫡子は従五位下から始まるとされており、藤原鎌足が没前に当時の最高職であった大織冠と大臣の位(一位相当)を授かっていたため、その子である藤原不比等が従五位下だったことは不思議ではないのですが、壬申の乱において天智方で敗北した人物がこの位で復帰するというのは破格の待遇です(維持したのか、一旦剥奪されて復帰したのかは不明ですが)。

この結果、ようやく国政への復帰を果たした藤原不比等でしたが、復帰時の年齢は30歳を過ぎており(生年が不明のため推定)、律令制に定められた21歳という基準からは10年もの遅れをとってしまいました。

藤原不比等の躍進(政治面)

草壁皇子薨去(689年4月13日)

ところが、ここで鸕野讚良の予期せぬ事態が起こります。

いよいよ草壁皇子即位秒読みとなった持統天皇3年(689年)4月13日、草壁皇子が27歳の若さで薨去してしまったのです。

持統天皇即位(690年1月1日)

皇太子であった草壁皇子薨去により深く悲しんだ鸕野讚良は、草壁皇子の子(天武天皇と鸕野讚良の孫)である軽皇子に皇位を継がせようとしたのですが、この時点での軽皇子の年齢はまだ7歳であり、天皇として即位させるのははばかられる若さでした。

もっとも、ここで軽皇子の即位を見送れば、ときの皇位の兄弟継承の通例から、天武天皇関係の別人物に皇位が亘ってしまい、そのまま皇統が鸕野讚良系統(草壁皇子→軽皇子)から永遠に失われてしまいます。

そこで、皇統喪失を回避するため、やむなく鸕野讚良は、天武天皇の后であるとの立場を利用し(形式的には天智天皇の子であることから男系継承として)、持統天皇4年(690年)1月1日、軽皇子が成長するまでの中継ぎとして、第41代・持統天皇として即位することを強行します。

もっとも、この持統天皇即位については政権内から異論が噴出します。

女性天皇であったということももちろんですが、異論の最大の理由は、鸕野讚良が天智天皇の娘(壬申の乱で敗れた大友皇子の姉妹)であったことでした。

すなわち、持統天皇の即位は、敗者の親族を勝者が成立させた政権のトップになるということを意味しますので、政権内から批判が噴出するのは当然です。

いうなれば、天智天系(持統天皇)による、天武系に対するクーデターです。

持統天皇の正当性を作出

この批判を払拭するために大活躍したのが藤原不比等でした。

藤原不比等は、持統天皇即位の正当化根拠を作出することに全力を尽くします。

そのために用いた手段が、中国に倣って歴史書(古事記・日本書紀)を編纂し、そこに持統天皇即位の合理性が書いてあったことにするという方法による歴史の「製造」でした(もっとも、歴史書の編纂には長い年月がかかるため、最終的な完成としては、古事記は和銅5年/712年まで、日本書紀は養老4年/720年まで要しています。)。

具体的には、記紀に日本の祖として天照大神という女神がいたこととして女性である持統天皇の存在の不合理性を払拭し、また天照大神から孫である天忍彦彦火邇邇杵尊を下界に遣わすとの天孫降臨神話を作ることで祖母(持統天皇)から孫(軽皇子=後の文武天皇)への皇位承継が先例に従って合理的であるとしたのです。

こうして「新たに作り上げた」神話の時代の例を引用することで持統天皇及び軽皇子(文武天皇)の皇位の正当性を説明することに成功させた藤原不比等は、皇統維持の最大の功労者となって政権内で大出世を果たしていきます。

律令国家建設に尽力

以上の結果、形式的な正当性は担保した持統天皇でしたが、実質的な権力なしに政治はできません。

実質的な実力がないと人はついてこないからです。

そこで、持統天皇は、中国に倣った律令・律令法に基づく国家の法体系・制度の確立により法の力によって権力を中央(天皇)に集めることとしたのです。

このときにも重用されたのが、法律畑を歩んできた藤原不比等でした。

藤原不比等は、天皇に権力を集めるための中国式の律令制定、旧勢力と距離を置くための藤原京遷都などの様々な政策を進めていきました。

これらにより、持統天皇・文武天皇の力が強まって行ったのですが、同時に彼らを補佐する藤原不比等の権力も絶大なものとなっていったのです。

藤原不比等の躍進(血縁面)

藤原宮子を文武天皇の夫人とする(697年8月)

以上のとおり、持統天皇のブレーンとして政治力を取り戻していった藤原不比等でしたが、彼の凄さはここから加速する点です。

政治力を高めていった藤原氏でしたが、この時点での勢いの源は藤原不比等という一人のカリスマ性に頼り切ったものであり、藤原不比等の有用性が失われれば共に失われる極めて脆いものでしかありませんでした。

そこで、藤原不比等は、単なる個人のカリスマに依存しない揺るがない基礎を構築しようと考えます。

このとき藤原不比等が考えた手段が、かつての葛城氏や蘇我氏に倣って藤原氏の娘を天皇の夫人として送り込み、その間に生まれた子を天皇とすることで外戚として血縁による権力確定を図ることでした。

そのため、藤原不比等は、文武天皇元年(697年)8月20日 娘・宮子を践祚直前の軽皇子(同年8月22日践祚)の夫人として入内させました。

藤原宮子の妊娠・出産を利用して出世

そして、藤原宮子が、文武天皇の子を妊娠したことにより、その父である藤原不比等は大宝元年(701年)3月21日に正三位大納言となります。

また、大宝元年(701年)8月12日に藤原宮子が男児(首皇子)を出産すると、大宝4年(704年)1月11日までに従二位に上ります。

さらに、和銅元年(708年)1月11日には正二位、同年3月13日右大臣となるなどして、藤原不比等は、娘の妊娠・出産を利用して出世の階段を駆け上がっていきました。

皇統維持に尽力

そしてさらに、藤原不比等は、さらなる出世を目指し、自らの地位の礎となり得る首皇子を天皇にするために全力を尽くします。

この画策の発端は、慶雲4年(707年)6月15日の文武天皇崩御でした。

この時点ではまだ幼帝の先例がなかったため、文武天皇崩御の時点で幼児であった首皇子に皇位を継がせることはできませんでした。

そうすると、この時点での皇位継承最有力者は、天武天皇の孫である長屋王となります(長屋王は能力・人柄に優れており、長屋王即位に異論が出る可能性はほぼありませんでした。)。

ところが、長屋王が即位してしまうと、皇統が草壁系(持統系)から別系統に流れて行ってしまいます。

そこで、藤原不比等は、首皇子擁立の道を維持するため草壁系(持統系)の維持を図ります。

具体的には、文武天皇と首皇子との間の中継ぎとして、女性天皇となる元明天皇・元正天皇を続けて擁立することで、首皇子の成長を待つこととしたのです。

このやり方は、女性天皇は例外的である上、母から娘への承継という二代に亘る女性天皇即位という行為を強硬したため、これに対して反対意見が噴出しましたのですが、力を付けつつあった藤原不比等が強行することで何とか成功に至ります。

その結果、最終的に首皇子(後の聖武天皇)の下に皇位を導かれることとなり、それを導いた藤原不比等の功績は絶大なものとなりました。

こうして、持統天皇即位・聖武天皇即位という大きな2つの功績を挙げた藤原不比等は、聖武朝廷内で大きな力を持つ権利者に成り上がります。

政権ナンバー1に上り詰める(710年)

さらに、和銅3年(710年)3月、それまでの藤原京から平城京に遷都が行われることとなったのですが、藤原不比等は、その当時臣下の最高位であった正二位左大臣・石上麻呂を藤原京に残していくこととして、平城京の朝廷で実質上の政権トップの地位に上り詰めるに至ったのです。

このことは、平城京内で、藤原不比等に対して、平城宮東側に隣接する8町(皇族であり有力者でもあった長屋王に与えられた4町の倍)もの広大な面積が与えられたことからも明らかとなっています。

藤原氏が天皇家の外戚となる(724年)

そして、藤原不比等は、養老4年(720年)8月3日に死去したのですが、同年10月23日に正一位太政大臣が追贈され、ついに臣下の頂点を極めます。

その後、神亀元年(724年)2月4日、藤原宮子を母とする首皇子が第45代・聖武天皇として即位することで、初の藤原系天皇が誕生したことにより、藤原氏は、晴れて外戚の身分を獲得し、身分上も天皇家の一族に連なることとなりました。

そして、藤原氏が天皇の外戚家となったことで、藤原氏はとんでもない権限を手に入れ、政権基盤を確立させて奈良時代最初の権力者となりました。

また、このとき確立された基盤は藤原不比等の子孫たちにも引き継がれていき、以降も次々と天皇家に女性を送り込むことで藤原氏が1000年以上に亘って大躍進していくこととなったのです。

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