剣豪将軍として有名な室町幕府13代将軍といえば足利義輝です。
永禄の変の際、足利家秘蔵の刀を畳に刺して応戦し、手に持った刀の刃がこぼれるたびに新しい刀に替えて寄せ手の兵と戦った末に戦死したなどという眉唾物の伝説を残しています。
この伝説の真偽はさておき、落ちていく幕府の権威をなんとか留めて復興しようと奔走し、ついには力尽きた悲しき剣豪将軍の人生を振り返ってみましょう。
【目次(タップ可)】
足利義輝の出自
足利義輝の出生(1536年3月31日)
足利義輝は、天文5年(1536年)3月31日、室町幕府第12代将軍・足利義晴の嫡男として南禅寺で生まれます。幼名は菊幢丸(きくどうまる)といいます。
菊幢丸は、1546年7月から1554年2月までは足利義藤、1554年2月以降は足利義輝と名乗りますが、本稿では便宜上足利義輝の名で統一します。
足利義輝の幼少期
足利義輝が誕生したころには、室町幕府は力も権威も地に落ちており、足利将軍家も名前だけのものに成り下がっていました。
足利義輝の父である12代将軍の足利義晴も、配下であるはずの管領・細川晴元と争いを繰り返しては敗れて近江国坂本に逃れることが常態化しているような状況でした。足利義輝は、足利義晴が破れて逃亡する度にそれに同行し、父と共に京への復帰と坂本や朽木への脱出を繰り返していました。
元服と将軍宣下(1546年12月)
そんな中、足利義輝は、天文15年(1546年)7月27日に足利義藤の名を与えられ、また同年11月19日には朝廷から将軍の嫡子が代々任じられてきた左馬頭に任じられています。
その上で、天文15年(1546年)12月19日、数え11歳の足利義輝の元服が執り行われました。なお、室町幕府将軍の嫡男の元服であるにもかかわらず、逃亡中であったために元服式を京都で行うことは叶わず、逃亡先の近江国坂本にある日吉神社(現日吉大社)で行われました。
将軍家の元服式では管領が烏帽子親を務めるのが慣例となっていたのですが、父である12代将軍足利義晴が管領である細川晴元との戦いに敗れて逃亡中であったために管領を烏帽子親とすることなどできようはずもなく、やむなく南近江守護・六角定頼を烏帽子親として行われました。
そして、元服の翌日である同年12月20日、京から赴いてきた勅使にによって将軍宣下の儀式が行われ、足利義輝は、わずか11歳にして父から将軍職を譲られて正式に第13代将軍に就任しました。
その後、足利義輝は、将軍就任により一旦は父足利義晴とともに帰京して慈照寺に入ります。
もっとも、天文16年(1548年)7月19日、足利義輝は、細川晴元から京を追われ、再び父足利義晴とともに坂本に逃亡し、そこで同年7月29日に細川晴元と和睦して京に戻ります。なお、このときに細川晴元も足利義輝の将軍就任を承諾しています。
細川晴元と和睦した足利義輝は、細川晴元と、細川晴元の下から裏切った三好長慶との戦いを見守っていくこととなりますが、勢いは三好長慶にありました。
事実上の三好政権の下での苦難
京を追われる
天文18年(1549年)6月、三好長慶が細川晴元を破ると(江口の戦い)、足利義輝とその父足利義晴は、細川晴元に連れられて近江守護の六角定頼を頼って近江国・坂本に逃亡します。
三好長慶は、細川晴元(管領)と足利義輝(将軍)が不在となった京において、室町幕府に代わって京での行政を取り仕切っていくようになります。
事実上の三好政権の樹立です。
近江国坂本に逃れた足利義輝は、この三好長慶の行動に危機感を募らせ、京への復帰とその活動拠点として、慈照寺の裏山にあたる同寺約600m東側にある山に中尾城という小さな城を築城し、天文19年(1550年)6月9日、細川晴元と共に同城に入城します。なお、足利義輝は、このときに北白川城も築いています。
ところが、三好長慶も、この足利義輝の動きに即座に対応します。
三好長慶は、4万人ともいわれる大軍を率いて周囲を焼きながら足利義輝のいる中尾城に向かったため、天文19年(1550年)11月21日、足利義輝は同城では三好長慶と戦えないと判断し、一戦まじえることなく自ら中尾城に火を放って(中尾城の戦い)、近江国・堅田に逃れます。
その後、天文20年(1551年)1月、政所頭人である伊勢貞孝が足利義輝を強引に京都に連れ戻して三好方との和睦を図ろうとするが失敗し、これを知った六角定頼の勧めにより2月に足利義輝は、近江国朽木へ移ります。
その後、足利義輝は、天文20年(1551年)3月、密かに伊勢邸に間者を忍ばせて三好長慶暗殺を試みるも、僅かな傷を負わせただけで失敗に終わります。
また、同年7月、三好政勝・香西元成を主力とする幕府軍が京の奪回を図って侵入したが、松永久秀とその弟の松永長頼によって返り討ちにあいます(相国寺の戦い)。
足利義輝は、天文21年(1552年)1月、六角定頼が急逝して和解の空気が生まれたことをきっかけとして、三好長慶と和睦して京都に戻ります。
ところが、天文22年(1553年)2月下旬、三好長慶は足利義輝の奉公衆数名が細川晴元に内通したとして、その身柄の引渡しを要求したのですが、兵力をほとんど持たない足利義輝はこれを拒絶できませんでした。
これを屈辱とした足利義輝は、同年3月8日、東山の麓に築いた霊山城に立て篭もり、三好長慶討伐の御内書を発するなどして三好長慶への対決姿勢を示します。
これに応じて、同年7月3日、三好一族である摂津国芥川城主・芥川孫十郎が三好長慶に反旗を翻したため、足利義輝はこの隙に入京を試みるも、同年8月1日、大軍を率いて攻めてきた三好長慶に抗しきれず、霊山城が攻め落とされて(東山霊山城の戦い)、足利義輝はまたもや近江国に落ち延びていくことになりました。
朽木谷での潜伏生活(1553年8月~)
近江国に落ち延びていった足利義輝は、伯父である前関白・近衛稙家、大覚寺准后義俊、管領の細川晴元、細川藤孝、三淵藤英らわずかな供を伴い、朽木元網(稙綱の孫)を頼って朽木谷に逃れ、以降5年間この地で過ごすこととなります。
また、このときに三好長慶が、将軍に随伴する者は知行を没収すると通達したため随伴者の多くが足利義藤を見捨てて帰京し、また伊勢貞助や結城忠正のように奉公衆でありながら三好氏の家臣に準じた立場で活動する者も現れるようになりました。
足利義輝へ改名(1554年2月)
足利義輝は、朽木谷に滞在中の天文23年(1554年)2月12日、従三位に昇叙するとともに、名を足利義藤から足利義輝に改めました。
また、その後も、足利義輝は、将軍権威の引き上げのための努力を続けます。
このころには、越前国の朝倉義景と本願寺との争いを治めるよう御内書の発行なども行っていますが、足利義輝の努力だけでは三好長慶を追い落とすには至りませんでした。
改元(1558年2月)
弘治3年(1557年)9月5日に後奈良天皇が崩御され、正親町天皇が同年10月27日に即位したことから弘治4年(1560年)1月27日に即位の礼を挙げたのですが、その際に元号を改元することとなりました。
室町時代は、改元については朝廷と幕府との協議によって行われることが慣習化していたのですが、このとき朝廷は、相談相手として室町幕府将軍足利義輝ではなく、三好長慶を選びました。
そして、朝廷と三好長慶との協議の上、弘治4年(1558年)2月、年号が永禄に改元されます。
この朝廷の行動は、朝廷が足利義輝が将軍としての力も権威も失っており、それを事実上の三好政権の長たる三好長慶が有している考えているとの宣言でもありました。
朽木谷で足利義輝挙兵(1558年3月)
足利義輝は、改元の一件により自らの地位が危ういことに危機感を持ち、永禄元年(1558年)3月、朽木谷で挙兵し、三好政権打倒のため立ち上がります。
そして、同年5月、足利義輝は、六角義賢(承禎)の支援の下、細川晴元とともに坂本に移って京の様子を窺います。
同年6月、足利義輝は、如意ヶ嶽に布陣して三好長逸らの軍と北白川で交戦しました(北白川の戦い)。
戦いは、小規模な衝突を経て膠着状態となり、らちがあかなくなった三好長慶は、足利軍を後援していた六角義賢との間で和睦交渉を開始します。
三好長慶との和解(1558年11月)
その結果、永禄元年(1558年)11月27日、六角義賢の仲介で三好長慶と足利義輝との和睦が成立し、足利義輝は5年ぶりに京都へ戻ることができました。
この和議により室町幕府は、足利義輝と三好長慶とが強調する形で運営されることとなりました。
形の上では、京に戻った足利義輝の下に三好家が組み込まれることとなりました。
三好長慶が、幕府の御相伴衆に加えられ、さらに修理大夫への任官を推挙されます。同時に、三好長慶の嫡男である三好義興(永禄2年・1559年12月に足利義輝から偏諱を拝領して三好義長と名乗り、後に三好義興に改名しています。)と重臣松永久秀が御供衆に任ぜられています。
もっとも、足利義輝が京に戻った後も三好長慶の権勢は衰えず、三好長慶自身は、三好家の家督と本拠地である摂津国・芥川山城を嫡男三好義興に譲って、三好長慶自身は河内国の飯盛山城に移り足利義輝と一定の距離を置いています。
将軍権力の復興を目指す(1558年11月~)
京に戻った足利義輝は、足利将軍家の権威を復興させるため、以下のような様々な施策を施行します。
二条御所(武衛陣)に移る
京に戻った足利義輝は、室町中御門付近の斯波武衛家旧邸であった武衛陣に室町幕府の拠点を移して政務を開始します。
この二条御所は室町中御門第とよばれます。
二条通より大分北側に建っていたため、二条城と呼ぶのには抵抗がありますが、足利尊氏から義満まで3代の将軍が二条に屋敷を構えていたことから足利将軍家の屋敷を「二条陣」または「二条城」といったことにちなんで名づけられています。
この二条御所は、後に大規模に拡張されて石垣で囲まれた城郭風の外観となったため、旧二条城と呼ばれることもあります。後に4つ築かれた二条城の最初の1つの場所にあったものです。
大名抗争の調停役となる
また、足利義輝は、足利将軍家の権威を用いて積極的に諸国の戦国大名との修好に尽力することにより、衰えていた幕府権力と将軍権威の復権を目指します(足利義輝には、それまでにも天文17年(1548年):伊達政宗と伊達稙宗や、天文19年(1550年):里美義堯と北条氏康などの仲裁歴はありましたが、ここから一気に加速していきます。)。
主なものだけ挙げても、以下のような大名間の抗争の仲裁を試みています。
①永禄元年(1558年):武田信玄と上杉謙信
②永禄3年(1560年):島津貴久と大友宗麟、毛利元就と尼子晴久
③永禄4年(1561年):徳川家康と今川氏真
④永禄6年(1563年):毛利元就と大友宗麟
⑤永禄7年(1564年):上杉謙信と北条氏政と武田信玄
なお、大名間抗争の仲裁に対する報酬が、困窮する将軍家の良い収入源となっていたことも足利義輝による仲裁の積極性の理由でもあります。
偏諱を家臣や全国の諸大名などに与える
さらに、足利義輝は、積極的に自らの名の偏諱(1字)を家臣や全国の諸大名などに与えで有力者との関係を築くとともに、自らの権威強化に努めました。
足利義輝は、改名前は「藤」の字を、改名後は「輝」の字だけではなく足利将軍家の通字である「義」の字までも偏諱として与えています。
諸大名への任官斡旋と謁見許可
加えて、足利義輝は、諸大名に任官を斡旋することによって自らの力を示し、また諸大名に積極的に謁見することによってその権威を高めようと動きます。
①永禄元年(1558年)には信玄を信濃守護に補任した。
②永禄2年(1559年)、大友義鎮を九州探題に、伊達晴宗を奥州探題にそれぞれ任命します。
③永禄2年(1559年)には、美濃の斎藤義龍、尾張の織田信長、越後の長尾景虎(上杉謙信)が相次いで上洛し、義輝に謁見しています。
④永禄4年(1561年)には信玄に駆逐され上方へ亡命していた前信濃守護・小笠原長時の帰国支援を命じている。
⑤その他、大友義鎮を筑前・豊前守護、毛利隆元を安芸守護に任じ、三好長慶・義長(義興)父子と松永久秀に桐紋使用を許すなどし、さらに長尾景虎の関東管領就任の許可、御相伴衆を拡充し、毛利元就、毛利隆元、大友義鎮、斎藤義龍、今川氏真、三好長慶、三好義興、武田信虎らを任じています。
なお、これらの一連の行為は、それまで足利氏一門の世襲であった奥州探題・九州探題を非足利勢力に変え、また長尾氏や三好氏・毛利氏などの新興大名に様々な栄典を与えるなど血統よりも実力を重視して、室町幕府の儀礼秩序の再構築を行うことで、室町幕府体制の再建を図ろうとしたと考えられています。
足利義輝の最後
三好長慶の死去(1564年7月)
足利義輝と一定の距離をとりつつ実質上権力を牛耳っていた三好長慶でしたが、その基盤は徐々に揺らいでいきます。
衰退のきっかけは、永禄4年(1561年)の弟である十河一存(そごうかずまさ)の急死でした。
わずか30歳であった十河一存の死因は病気とも事故ともいわれますが、詳しいことはわかっていません。鬼十河と呼ばれ、三好政権の軍事的中枢を担っていた十河一存の死は、三好家の軍事力を大きく低下させます。
そして、一存の死によって彼が治めていた和泉の支配が弱まると、その隙をついて細川晴元の次男・細川晴之を盟主とした畠山高政と六角義賢の攻撃が始まりまり、翌年まで続いたこの戦いで弟の一人である三好実休が戦死してしまいます。
立て続けに優秀な2人の弟を失った三好長慶に、更なる不幸が襲います。
永禄6年(1563年)8月、三好長慶の嫡男・三好義興が22歳の若さで病死してしまったのです。
三好長慶は、わずかな期間に優秀な弟2人と将来を嘱望していた嫡男を失って大きなショックを受け、精神に変調をきたします。
また、また同年12月、名目上の主君・細川氏綱が病死したために三好家の政権維持に必要な形式的な管領も失ってしまいます。
大事な跡取りと、お題目を失った三好家に暗雲が立ち込めます。
そんな中、三好長慶は、とある事件を起こします。
永禄7年(1564年)5月9日、1人残っていた弟である安宅冬康を飯盛山城に呼び出し誅殺してしまったのです。
三好長慶が、安宅冬康を誅殺した理由については、① 安宅冬康が謀反を企んでいた、②松永久秀の讒言であった、③後継者とした三好義継に権力を集中させお家分裂を防ぐためであった、④このとき三好長慶はボケて精神衰弱に陥っていた、など様々な説がありますが、その理由ははっきりしません。
ただ、この事件により、さらに三好家の軍事力が大幅に低下したことは間違いありません。
これらの一連の不幸が影響したのかわかりませんが、三好長慶が弟安宅冬康を謀殺したわずか2か月後の永禄7年(1564年)7月4日、三好長慶は、居城としていた飯盛山城で病により死去しています。享年43歳でした。
三好家家臣団の暴走
三好長慶の死を将軍権力の復活の好機と見た足利義輝は、さらなる積極的な将軍権威回復策を画策します。
足利義輝は、手始めに三好長慶亡き後に自分を支えてくれる可能性がある大名達に御内書(私的な手紙であるものの作成者の地位から一定の公的性質を有する文書)をばら撒き、上洛を促しています。
ところが、この足利義輝の上洛要請に対しては、領土の維持・拡張にかかりきりであった各地の大名からの快い返事が得られません。
そればかりか、この足利義輝による水面下の動きが、足利将軍を傀儡とし、そのフィクサーとなることによって政治権力を握ろうとしようとする三好家家臣団(松永久秀や三好三人衆)の目に留まります。
そして、松永久秀の長男である松永久通と三好三人衆は、足利義輝を廃して操りやすい足利義栄(義輝の従兄弟)を新将軍に就けようと朝廷に掛け合いますが、朝廷からこれを拒否されます。
禅譲での将軍交代が不可能と判断した松永久通と三好三人衆は、足利義輝排除の実力行使にでます。
永禄の変(1565年5月19日)
永禄8年(1565年)5月19日、三好義継、松永久通、三好三人衆は、清水寺参詣と称して早朝から兵1万を集め、その軍勢を率いて足利義輝のいる二条御所に押し寄せ、将軍に訴訟(要求)ありと偽って取次ぎを求める体で御所に侵入します。
二条御所になだれ込んでくる兵に対して、足利義輝は自ら薙刀を振るい、その後は刀を抜いて抵抗しましたが、敵の槍刀で傷ついて地面に伏せられたところを一斉に襲い掛られて殺害されました(永禄の変)。享年30(満29歳没)でした。
最期は寄せ手の兵たちが四方から畳を盾として同時に突きかかり殺害したとも、または槍で足を払われ倒れたところを上から刺し殺されたとも、はたまた切腹して果てたとも言われていますが、本当の死因はわかっていません。
足利義輝が、剣豪・塚原卜伝から指導を受けた直弟子の一人であり、奥義「一之太刀」を伝授されたという説があること、ルイスフロイスが記した「日本史」に足利義輝が自ら薙刀を振るって戦いた後接近する敵に対応するために薙刀を投げ捨てて刀を抜いて戦ったと書かれていること、太田牛一が記した「信長公記」に数度きって出で伐し崩し数多に手負わせ公方様御働き候と書かれていること、などから江戸時代後期に頼山陽によって記された「日本外史」では、足利義輝は足利家秘蔵の刀を畳に刺し刃こぼれするたびに新しい刀に替えて寄せ手の兵と戦ったなどといった誇張表現がなされ、これが足利義輝の剣豪将軍のイメージ付けとなっています。
もっとも、塚原卜伝が足利義輝に免許を皆伝したとの記録はなく、また北畠具教や細川藤孝などにも授けていることから足利義輝が奥義を極めたとは断言できません。また、永禄の変に近い時期の史料に足利義輝が名刀を取り替えて戦ったなどという記述自体が存在しないことから、創作の要素が極めて強く信憑性に欠けるものとされています。