【徳川御三家】徳川将軍家版宮家が尾張・紀伊・水戸の3家となった経緯

徳川御三家(とくがわごさんけ)は、江戸時代に徳川宗家(将軍家)に次ぐ家格を持ち、将軍就任資格を持つとして徳川の苗字を称することを許された3つの分家です。

最終的に尾張徳川家・紀伊徳川家・水戸徳川家の3家に落ち着いたため、あたかも最初からこれらの家で始まったようなイメージを持ちがちですが、実際は紆余曲折を経て最終的にこの3家に落ち着いています。

そこで、本稿では、徳川御三家が現在のイメージに沿う形となるに至った歴史的経緯を順に説明していきたいと思います。

徳川家康のお家存続策

数多くの子を儲ける

江戸幕府を開幕した徳川家康は、三河国の一国衆の嫡男として生まれ、今川家の人質生活を経て独立し、織田信長・豊臣秀吉に臣従しながら機会を待ち、ついには天下人に至りました。

この天下人に登り詰める過程で、徳川家康は、天下人に迫った織田信長や天下統一を果たした豊臣秀吉がいずれも実質一代でその力を失ったことを目撃します。

この点につき、徳川家康は、織田政権・豊臣政権が長続きしなかった一要因として、織田信長と豊臣秀吉が政権を次世代に安定的に引き継ぐための相続システムを構築できなかったことにあると考えました。

そこで、徳川家康は、出来る限り多くの後継ぎ候補を儲けるべく20人以上の側室を娶り(正室は、今川家に押し付けられた築山殿と、豊臣秀吉に押し付けられた旭姫以外には娶りませんでした。)、その間に多くの子を儲けました。

将軍職を徳川宗家で世襲

慶長8年(1603年)2月12日に征夷大将軍宣下を受けて武家の棟梁となった徳川家康は、将軍就任の僅か2年後である慶長10年(1605年)4月16日、将軍職を辞した上で朝廷に嫡男・徳川秀忠への将軍宣下を行わせ、将軍職を徳川家で世襲していくことを内外に示します。

徳川宗家は長幼の序で世襲

また、徳川家康は、徳川家中で相続争いが起きないようにするため、その能力や美醜を問わず直系嫡男相続を制度化したと言われます。

この点については、俗説ではあるためその真偽に疑問はあるものの、徳川秀忠の子のうち、竹千代(後の徳川家光)と国松(後の徳川忠長)との間で世継ぎ争いがあったとされる際に徳川家康が長幼の序を明確にして竹千代による相続が確定したこともその証左であると言われています(武野燭談)。

徳川家康による分家政策

もっとも、徳川家康→徳川秀忠→徳川家光という直系嫡男相続のみを徹底してしまうと、不測の事態が生じた際に徳川宗家(将軍家)を継ぐ者がいなくなってしまうおそれが生じます。

そこで、徳川家康は、徳川宗家(徳川家康→徳川秀忠→徳川家光という直系血筋)の血縁が途絶えた際の保険となる制度として、分家の設置を進めます。

誤りを畏れずわかりやすく言うと、天皇家にいう宮家を徳川家にも創設したのです。

もっとも、11男5女を儲けた徳川家康でしたが、自身の死去までに、長男信康(天正7年/1579年切腹)、次男結城秀康(慶長12年/1607年死去)、三男秀忠(将軍就任)、四男忠吉(慶長12年/1607年死去)、五男信吉(慶長8年/1603年死去)、六男忠輝(徳川家康と不仲)、七男松千代(慶長4年/1599年死去)、八男仙千代(慶長5年/1600年死去)の分家創設が困難となっていました。

そこで、徳川家康は、江戸幕府開幕後から死去した元和2年(1616年)4月17日までの間に、残っていた自身の子のうちの3人の男子(九男義直・十男頼宣・十一男頼房)に大領を与えて分家を創設させることとしたのです。

宗家・尾張徳川家・紀伊徳川家時代

尾張徳川家成立(1606年)

まず、徳川家康は、慶長8年(1603年)1月28日、当時わずか4歳の九男・徳川義直に対し、甲斐国25万石を与えます。

その後、徳川義直は、慶長11年(1606年)、松平忠吉(徳川家康の4男)の遺領を引き継ぐ形で尾張国清須に移封となり、徳川宗家の分家となる尾張徳川家を成立させました。

徳川義直は、成長するのを待って元和2年(1616年)に尾張国に入り、この尾張徳川家が将軍家の分家(後の御三家等)の筆頭として名古屋藩主を世襲し、諸大名の中で最高の格式(家格)を有するとされました。

紀伊徳川家成立(1609年→1619年)

次に、徳川家康は、慶長8年(1603年)11月7日、当時わずか2歳の十男・徳川頼宣に対し、武田信吉(徳川家康五男)が同年9月11日に死去したことにより空地となっていたその遺領であった常陸国水戸20万石を与えます。

その後、徳川頼宣は、慶長14年(1609年)の駿河国・遠江国・東三河計50万石などを経て、元和5年(1619年)、紀州和歌山藩に加増転封され徳川宗家の分家となる紀伊徳川家(紀伊・伊勢・大和55万5000石)を成立させました。

以上の尾張徳川家及び紀伊徳川家の成立により、将軍排出可能とされたこれら2家と徳川宗家(将軍家)を合わせて「御三家」と称されました。

その他

① 水戸徳川家成立(1609年)

慶長11年(1606年)9月23日にわずか3歳で常陸下妻10万石を与えられていた徳川家康十一男・徳川頼房は、慶長14年(1609年)に兄・徳川頼宣が駿府移封となったことにより藩主不在となった常陸水戸25万石への加増転封とされました。

その後、徳川頼房は、寛永3年(1626年)8月19日に従三位権中納言(後に正三位)に叙任し、水戸徳川家は権中納言を極官とすることとなったのですが、大納言を極官とした尾張徳川家・紀伊徳川家よりは1ランク下の家として扱われ、当初は将軍排出可能な家とは考えられていませんでした。

なお、南紀徳川史によると、徳川頼房が徳川の苗字を使用することが許されたのは寛永13年(1636年)とされています。

② その他

また、以上の3家の他にも、将軍家からの分家として高い家格を有した家として結城秀康(徳川家康次男)を祖とする越前松平家や、保科正之(徳川秀忠四男)を祖とする会津松平家などがありましたが、いずれも徳川の苗字使用は許されず、将軍排出可能な家とみなされることはありませんでした。

尾張徳川家・紀伊徳川家・駿河徳川家時代

徳川宗家(将軍家)を別格扱いとする

以上のとおり、徳川宗家(将軍家)・尾張徳川家・紀伊徳川家の3家を御三家としていたのですが、流石に本家と分家を同格とするのは問題と考えられました。

そこで、徳川宗家(将軍家)は別格扱いとし、尾張徳川家・紀伊徳川家に新たに1家を加えて御三家とすべきとされました。

駿河徳川家成立(1624年)

このとき加えられることとなったのが、徳川秀忠の子である松平忠長(徳川秀忠三男)でした。

徳川秀忠の子である松平忠長もまた徳川宗家からの分家であり(徳川家光弟)、その血筋は申し分ないと考えられたからです。

そこで、寛永元年(1624年)7月、甲府23万8000石を領していた松平忠長(徳川秀忠三男)に駿河国と遠江国の一部(掛川藩領)が加増され、駿河徳川家が成立します。

こうして、駿遠甲の計55万石を知行して駿河大納言と呼ばれ、徳川の苗字に改めた徳川忠長の駿河徳川家は、将軍職継承資格のある家と扱われるに至りました。

この結果、尾張徳川家・紀伊徳川家に駿河徳川家を加えた3家が大納言家となり、これら3家が将軍職継承資格のある新たな「御三家」となりました。

尾張徳川家・紀伊徳川家・両典厩家時代

駿河徳川家改易(1632年)

もっとも、徳川忠長は、この扱いでは満足できず、父である徳川秀忠に100万石を与えるか大坂城主に任命して欲しいとの嘆願書を送り、徳川秀忠に呆れられます。

また、この行動を知った徳川家光からも謀反の可能性を疑われるようになります。

そのような問題行動もあって、徳川忠長は、父・徳川秀忠や兄・徳川家光との関係が悪化し、寛永9年(1632年)10月の徳川秀忠の死後に駿河徳川家は改易されるに至りました。

なお、徳川忠長は、この後の寛永10年(1633年)12月6日、幕命により高崎の大信寺において切腹しています。

甲府徳川家成立(1651年)

その後、失われた御三家の1家(将軍継承資格ある家)を新たに設けるべく、1651年(慶安4年)4月、徳川家光の三男・徳川綱重に甲府藩15万石(寛文元年/1661年に10万石加増)が与えられます。

その後、徳川綱重は、延宝6年(1678年)に死去し、その長男である綱豊が後を継ぎました。

館林徳川家成立(1661年)

また、寛文元年(1661年)閏8月、徳川家光の四男・徳川綱吉に加増がなされ、計25万石となる上野館林藩主とされました。

なお、新たに将軍職継承資格のある家となった甲府徳川家の官位が左馬頭であり、同館林徳川家の官位が右馬頭であったことから、これら両家を合わせて両典厩(御両典)と称されました。

尾張徳川家・紀伊徳川家・水戸徳川家に

館林徳川家断絶(1680年)

以上の状況下において、延宝8年(1680年)5月8日、江戸幕府第4代将軍であった徳川家綱(徳川家光長男)が急死したのですが、徳川家綱には男子がなかったため、このとき徳川将軍家直系にて将軍職を世襲する形が崩れます。

困った江戸幕府は、徳川家綱に最も血が近い徳川綱吉(徳川家光四男)を家綱の養嗣子として江戸幕府第5代将軍に就任させます。

他方、館林徳川家は、徳川綱吉の子である徳松がわずか2歳で相続したのですが、天和3年(1683年)閏5月28日に徳松が夭折したため、館林徳川家は断絶してしまいました。

甲府徳川家廃家(1709年)

そして、江戸幕府第5代将軍・徳川綱吉が、宝永6年(1709年)1月10日に男子なく死去します(長男徳松は天和3年/1683年死去)。

この結果、江戸幕府としては再び近親者による時期将軍を求め、甲府藩二代藩主となっていた徳川綱豊(徳川綱吉の弟の子)を徳川綱吉の養嗣子として徳川家宣と改名させた上で江戸幕府第5代将軍とします。

そして、徳川家宣の将軍就任により、その一族が宗家の人間となったため、甲府徳川家は廃家となりました。

水戸徳川家格上げ

以上のとおり、徳川宗家の分家のうち、駿河徳川家・館林徳川家・甲府徳川家が相次いで失われたため、将軍を輩出できる家が尾張徳川家と紀伊徳川家の2家だけとなりました。

この事態に、徳川宗家では、将軍家の保険となる分家が2家では心許ないとして、1ランク格下の中納言家ではあるものの徳川家康の子を祖とする水戸徳川家も徳川宗家の分家として将軍を輩出できる家に加えることとしたのです。

これにより、結果的に水戸家が格上げされ、現在のように尾張徳川家・紀伊徳川家・水戸徳川家の3家を「御三家」と呼ぶようになりました。

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