【崇徳上皇怨霊伝説】日本史上最強の怨霊の誕生からその鎮魂まで

崇徳上皇は、日本の歴史上で最強の怨霊となったとされる人物です。

日本では、強い恨みを残してこの世を去った人物は怨霊になって禍をもたらすと言われており、またその禍の程度は恨みの程度に加えてその者の生前の地位に比例すると言われています。

強い怨霊となった人物が日本三大怨霊として括られ、菅原道真・平将門・崇徳上皇がそこに挙げられるのですが、このうちでも崇徳上皇が最強の怨霊としてその地位を盤石なものとしています。

その理由は、血縁上は鳥羽天皇の子として産まれながら、実際は鳥羽上皇の妻と鳥羽上皇の祖父である白河上皇との不倫により産まれ子であったことから、鳥羽上皇に徹底的に嫌われた人生を送ったことに始まります。

そして、その結果として、弟である後白河天皇と朝廷を2分する争いを起こして敗れて讃岐国に流され、同地で非業の死を遂げたことによります。

この悲しい末路から、後に宮中に起こった不幸の全てが崇徳上皇の怨霊によるものであるとされ、伝説的な怨霊伝説に繋がることとなったのです。

崇徳上皇の怨霊化

系図上の父・鳥羽上皇との確執

怨霊伝説の主である崇徳天皇(すとくてんのう)は、第74代鳥羽天皇の中宮であった藤原璋子(待賢門院)が、第72代白河法皇鳥羽上皇の祖父)との不貞行為の結果として産まれた複雑な血縁関係を持つ天皇です。

以上の結果、第74代天皇であった鳥羽上皇は、崇徳天皇が系図的には自分の子でありながら妻の不倫相手(鳥羽天皇の祖父である白河法皇)の子であるという理由で、崇徳天皇を「叔父子」と呼んで徹底的に忌み嫌いました。

保元の乱(1156年7月11日)

この環境は崇徳天皇が成長した後も変化はなく、そればかりか天皇位を近衛天皇に譲位して崇徳上皇となってからも続き、崇徳上皇と鳥羽上皇(及び後を継いだ後白河天皇)との争いが続きます。

この天皇家の内紛に、摂関家の内紛が合わさって起こった政争が起こり、それぞれの陣営が武士(源氏・平氏)の勢力を招集したために事態が複雑化していました。

具体的には、美福門院派(後白河天皇・藤原忠通)が平清盛・源義朝・源義康らを招集したこと、待賢門院派(崇徳上皇派)が源為義・源為朝・平忠正らを招集したことにより、皇位と朝廷内での地位を巡る政治紛争が、源氏・平氏のお家騒動を誘発し、武士の代理戦争へと繋がっていったのです。

この争いは、保元元年(1156年)7月11日未明、後白河天皇の武士達が高松殿から3軍に分かれて出陣し、崇徳上皇のいる白河北殿を奇襲し、このとき放たれた火が、辰の刻(午前8時頃)に白河北殿に燃え移ったことから待賢門院派(崇徳上皇派)が総崩れとなります。

そして、崇徳上皇が御所を脱出したことにより、戦いは美福門院派(後白河天皇派)の勝利に終わります(保元の乱)。

讃岐国配流(1156年7月23日)

逃亡した崇徳上皇は、保元元年(1156年)7月12日に出家をした上で、翌同年7月13日に仁和寺に出頭して同母弟の覚性法親王に後白河天皇に対する取り成しを依頼します。

もっとも、自分に責任が飛び火することを恐れた覚性法親王がこれを断り、崇徳上皇は、寛遍法務の旧房に移されて源重成の監視下に置かれることとなりました。

その後、勝者となった美福門院派(後白河天皇派)側で崇徳上皇の帰趨が協議され、最終的には、罪人して讃岐国へ配流されることが決まります(天皇・上皇クラスの配流は、藤原仲麻呂の乱における淳仁天皇の淡路国配流以来約400年ぶりの出来事でした。)。

そして、同年7月23日、讃岐国に向かうために幽閉先の仁和寺から出ようとした崇徳上皇は、警固の兵に対しえ京を離れる前に父である鳥羽法皇の陵に別れの挨拶をしたいと願い出たのですが、このようなささやかな望みさえ受け入れられませんでした。

なお、崇徳上皇は、この日「都には 今宵ばかりぞ 住の江の しき道おりぬ いかで罪みし」という歌を詠んだと言われています。

以上の結果、崇徳上皇は、わずかに近習数人と女房3人だけを従えて、武士数十人が囲んだ網代車に乗せられて草津から鳥羽国に赴き、そこから10日ほどかけて船で瀬戸内海沿いに航行して、直島(現在の香川県香川郡直島町にある島)に入ります。

讃岐国での流人生活

その後、崇徳上皇は、直島を出て讃岐国に入り、弟である後白河天皇が自分を許して京に呼び戻してくれることを期待しながら御所ができるまでの間「在庁高遠の松山の御堂(雲井御所跡)」に入って約3年間を過ごします。

その後、讃岐国鼓岡に新たに御所(木の丸殿・このまるでん)が建築さたことにより、崇徳上皇は新御所に入ります。

五部大乗経の受取拒否

新御所に入ったと言っても罪人である崇徳上皇は、役人の厳しい監視の下での軟禁生活を余儀なくされました。

そのため、崇徳上皇は、心の平穏を求めるために仏教に傾倒し、3年間もの時間を費やして「大方広仏華厳経」・「大般涅槃経」・「大方等大集経」・「大品般若経」・「妙法蓮華経」という五部大乗経の長大な経文を写経し(保元物語)、これを鳥羽法皇の陵がある安楽寿院か石清水八幡宮に奉納して欲しいと言付けして朝廷に送りました。

これに対し、後白河上皇の近臣であった信西が、罪人の手紙は不吉であり、呪詛の願文である可能性もあるため、都に入れるべきではないと進言します。

これを聞いた後白河上皇は、経文の受け取りを拒否し崇徳上皇の下に送り返します(これは、崇徳上皇を許さないという後白河上皇の意思表示でもありました。)。

崇徳上皇の怒り

心を込めて書いた写経が送り返されたことに激怒した崇徳上皇は、「我、生きていても無益なり」と叫び(保元物語)、以降、髪や爪も伸ばすに任せた自暴自棄状態となり、遂には天狗のような恐ろしい姿に変じてしまいました。

また、怒りに打ち震えて自らの舌を噛み切り、流れ出た血で前記五部大乗経に国を呪う文字を記して海中に投じます。

この噂を聞いた後白河上皇は、事実確認のために崇徳上皇と親交のあった平康頼を派遣したのですが、平康頼は現地で、朽ちた柿色の法衣を纏い、ガリガリに痩せて目玉が飛び出し、髪や爪が伸び放題となった変わり果てた崇徳上皇を目にします。

この姿を見た平康頼は、恐ろしさのあまり崇徳上皇と会うことすらできず、急いで京に逃げ帰りました。

崇徳上皇崩御(1164年8月26日)

その後の長寛2年(1164年)8月26日、崇徳上皇は、配流先の讃岐鼓岡木ノ丸御所で絶望のまま崩御されます。宝算46歳でした。

正確な死因は不明ですが、一説には京からの刺客である三木近安に暗殺されたとも言われています。

崇徳上皇による呪詛

京から遥か遠い讃岐国で亡くなることとなった崇徳上皇でしたが、死の直前に、かつて心を込めて写経した五部大乗経の長大な経文の功力を用いて魔界と交信し、この経文に舌先を食いちぎって流れ出る自らの血をもって「自分が日本国の大悪魔となって、現在の皇室を庶民とし、庶民を皇室にする」という文言を刻んで契約を交わしたと言われています(保元物語)。

上皇とはいえ罪人であったため、崇徳上皇の死に際して朝廷から何らかの措置が行われることはなく、国司による葬礼が行われるにとどまり、死後、崇徳上皇は白峯陵(香川県坂出市青海町)に葬られることになりました。

そこで、崇徳上皇の遺体が白峯山の山頂に運ばれることとなったのですが、死後20日以上経過しているにもかかわらす遺体から鮮血が流れ出たため一同が驚愕し、血がついた六角形の大石を高屋神社(このことから、後に「血の宮」と呼ばれるようになりました。)に奉納したと言われています。

なお、この後、崇徳上皇の遺体が白峯山で火葬に付されたのですが、その煙は低く辺りを這った後、都の方向に流れて行ったとされています(保元物語)。

怨霊伝説

以上のとおり、現地では数々の伝説を残した崇徳上皇でしたが、朝廷からすると讃岐国に流された時点で崇徳上皇は終わった人でした。

もっとも、この後、朝廷は、崇徳上皇による怨霊伝説により崇徳上皇の恐ろしさを思い知らされることとなります。

そのスタートは、安元2年(1176年)ころから、保元の乱で後白河天皇方に与して崇徳上皇を追いやった者達に対する不幸が頻発するようになったことでした。

日本では、9世紀後半ころから、疫病や自然災害はこの世に恨みを残した怨霊によって引き起こされると考えられていたため、これらの不幸が崇徳上皇(及び藤原頼長)の怨霊によるものではないかと宮中で問題となりました。

後白河上皇周囲の不幸(1176年)

後白河法皇が50歳となった記念すべき年である安元2年(1176年)は、正月から祝いの行事が続けて執り行われ、平家一門も法住寺殿に顔を出すなどして順風満帆に始まりました。

ところが、後白河天皇の女御であった建春門院・平滋子の病状が同年6月ころから悪化し、同年7月8日に死去します。

また、同年6月13日には二条天皇の中宮・高松院(後白河上皇の異母妹)が、同年8月23日には六条上皇(後白河上皇の孫)が、同年9月19日には近衛天皇(異母弟)の中宮であった九条院・藤原呈子が立て続けに亡くなり、後白河上皇の周囲がきな臭くなります。

そして、建春門院・平滋子が死去したことにより、仲介者が失われ、成人して政務に関与するようになった高倉天皇と院政継続を望む後白河上皇との間に対立の兆しが生れます。

延暦寺の強訴(1177年4月)

後白河の近臣であった西光の子・藤原師高が加賀守に就任し、藤原師経がその目代となって加賀国に向かったのですが、その途中で藤原師経が白山の末寺で騒動を起こして同寺に火を放ちます。

この行為に怒った白山の僧侶が山門(比叡山延暦寺)に藤原師経の不法を訴え、治承元年(1177年)3月22日に比叡山延暦寺の僧兵・衆徒が加賀守・藤原師高の配流を求めて強訴を起こします(白山事件)。

その後、この事件はさらに大きくなり、白山全体の宗教勢力を巻き込んだ上で寺領と国領(後白河法皇領)の争奪戦に発展した上、同年4月13日に延暦寺僧兵・衆徒約3000人が白山社側の要求貫徹の為に、日吉社・白山社の御輿を奉じて入洛し、加賀守・藤原師高及びその父であり後白河法皇の御蔵預かりでもあった西光の処罰を訴えて御所へ強訴するに至ります(玉葉)。

これに対し、後白河法皇は、平重盛率いる鎮圧のための兵を派遣したのですが、平重盛方と延暦寺方との間で衝突が起こり、平重盛方の兵が放った矢が神輿に当たって死者を出したことで事態がさらに悪化します。

激高した比叡山延暦寺方は、神輿を放置して比叡山に帰山したため、後白河法皇はやむなく祇園社に神輿を預けて対応を協議し、同年4月20日、藤原師高を尾張国へ配流し、神輿に矢を射た平重盛の家人を拘禁した上で、比叡山延暦寺側の要求を全面的に受諾することで事件決着するに至りました。

安元の大火(1177年4月28日)

安元3年(1177年)4月28日亥の刻(午後10時頃)に京の樋口富小路付近で火が起こり、これが折からの強風にあおられて北西方向へ燃え広がり、西は朱雀大路を越えて右京にあった藤原俊盛邸が焼失し、北は大内裏にまで達するという事態に発展します。

燃え広がった火は翌同年4月29日辰の刻(午前8時頃)になっても鎮火せず(玉葉・安元元年4月29日条)、東は富小路・南は六条・西は朱雀以西・北は大内裏に至るという京の約1/3が灰燼に帰すという大災害となりました(大極殿及び関白松殿基房以下13人の公卿の邸宅も焼失)。

なお、大内裏大極殿の焼失は貞観18年(876年)・天喜6年(1058年)に続く3度目であり、この時点では朝堂院としての機能が形骸化していたこともあり、これ以後は再建されませんでした。

鹿ケ谷の陰謀(1177年6月1日)

一旦は比叡山延暦寺との紛争解決に至ったのですが、解決内容に納得がいかない後白河法皇は、延暦寺強訴問題を蒸し返すこととします。

そこで、後白河法皇は、安元3年(1177年)5月4日に検非違使に命じて天台座主明雲を逮捕させ、翌同年5月5日には明雲の天台座主職を解任して所領を没官した上で、同年5月21日に明雲を伊豆国への配流処分とします。

同年5月22日に伊豆知行国主であった源頼政の兵に護衛されて京を出た明雲でしたが、同年5月23日に近江国(粟津?国分寺?)に差し掛かったところで比叡山延暦寺僧兵・衆徒2000人によりその身柄が奪還され、比叡山延暦寺に逃げ込んでしまいました。

これに怒った後白河法皇は、平重盛・平宗盛に対し、近江国坂本を封鎖して比叡山延暦寺を攻撃するよう命じます。

この命令に驚いた平重盛・平宗盛は、父である平清盛に状況を報告した上で、その判断を仰ぎます。

平清盛は、直ちに福原を出発して入京し、同年5月28日に後白河法皇と会見して比叡山延暦寺を思いとどまらせようと説得します。

ところが、後白河法皇は、平清盛の説得に耳を貸さず、近江国・美濃国・越前国の武士をも動員して、比叡山延暦寺攻撃が目前に迫りました。

ところが、比叡山延暦寺攻撃直前の同年6月1日夜半、多田行綱が、平清盛がいる西八条邸をひそかに訪れ、西光らが平氏打倒の謀議を行っていた事を密告します。

この謀議を知った平清盛は、直ちに延暦寺攻撃を中止し、比叡山延暦寺攻撃のために集めていた兵を西光の下に向かわせてこれを捕縛し、平清盛の下に連行した上で、拷問にかけて全容を自供させて斬首します。

そして、西光が自供した内容を下に関係者を次々に拘束して斬罪や流罪などに処断していきました(鹿ケ谷の陰謀)。

なお、鹿ヶ谷の陰謀は、余りにも都合の良い時期に発生したものであるため、実際にあった事件ではなく、比叡山攻撃を避けるための平清盛によるでっちあげであるとの説も有力です。

いずれにせよ、鹿ヶ谷の陰謀による処断の結果、平清盛は延暦寺との望まぬ軍事衝突を回避することができた一方で、後白河法皇は多くの近臣を失い、政治発言権を著しく低下させてしまいました。

平家一門への禍

また、崇徳上皇の怨霊は、後白河法皇のみならず、保元の乱の際に後白河法皇方に与した平清盛の関係者にも牙を向けます。

治承2年(1178年)に高倉天皇の中宮となっていた平清盛の娘・建礼門院徳子が安徳天皇妊娠中に体調を崩したため、その理由を占ったところ、崇徳上皇の怨霊によるものとの結果が出ます。

さらに、治承3年(1179年)に平清盛の弟である平教盛が、悪魔になった崇徳上皇が保元の乱で死去した源為義ら100騎を率いて木幡山(現在の京都市伏見区)に陣取り、平清盛の屋敷に向かう夢を見たとされています。

後白河院政停止(1179年11月)

後白河法皇との関係を見直すこととした平清盛は、高倉天皇との関係を強化して後白河院政からの独立を志向させます。

そして、治承2年(1178年)11月12日、高倉天皇の中宮であった平清盛の娘・徳子が、高倉天皇の皇子・言仁親王(後の安徳天皇)を出産します。

この結果、言仁親王を即位させてしまえば今上天皇=言仁親王、治天の君=高倉天皇として、これらを操って政権を平家で独占できる可能性が出てきました。

そこで、平清盛は、同年12月15日、生後まもない言仁親王を立太子させ、後白河法皇排除の下準備を始めます。

そして、平重盛は、治承3年(1179年) 11月14日、1万人もの兵を率いて挙兵し、福原を出発して軍を東進させて京に向かって進軍していきます。

その後、京に入った平清盛は、後白河法皇を拘束して鳥羽殿に幽閉して朝廷を制圧し、反平家の立場をとっていた藤原師長以下39名(公卿8名、殿上人・受領・検非違使など31名)を解官してしまいます。

この平清盛の軍事クーデターによって拘束された後白河法皇は、院宣を出して政治を行うことができなくなり、後白河院政が完全に停止されるに至りました。

こうして一線を超えてしまった平家を止めることはできません。

政治権力を平家に奪われる

後白河院政を停止させた上で、反平家の立場をとっていた高官達を次々と解任した平清盛は、それに代わって平家一族や親平家貴族を登用していきます。

そして、日本全国の知行国の入れ替え作業を行い、平家一門に、西国のみならず東国にまで及ぶ知行国25国を任せ、また29国の国守に任じるなどして中央と地方の双方を平家軍事的な支配体制を確立させました(平家政権樹立)。

また、このときまでに獲得した平家荘園は500余箇所に上ったと言われているのですが、これほどの膨大な荘園群を平家一門のみで維持・管理できるはずがなく、在地武士を系列化したり、家人の武士を各地へ派遣して知行国においては国守護人・荘園においては地頭と呼ばれる職に任命したりして現地支配に当たらせました(なお、このときに平清盛が置いた国守護人・地頭は、鎌倉時代の守護・地頭の原型と考えられています。)。

この平家による支配構造は、鎌倉幕府による御家人制度ほど確立されたものではなかったのですが、それまでの貴族政権にはなかった武力を通じた支配ネットワークの構築という画期的なものであり、そのことから平家武家政権の発現であると評価されています。

以上のとおり、日本国内(地方)の武力支配を概ね完成させた平清盛は、総仕上げにかかります。

本命である朝廷(中央)の支配の獲得です。

平清盛は、治承4年(1180年)2月、高倉天皇から言仁親王に譲位させて安徳天皇として即位させます。

安徳天皇は幼少であるためにお飾りに過ぎず、院政を敷くこととなった高倉上皇は平家の言いなりですので、この譲位によって平家傀儡政権が完成するに至りました。

また、高倉天皇から安徳天皇への譲位は、平家が、皇位継承に直接関与できる力を持つことを意味しており、平家政権が単なる軍事的・警察的な側面で朝廷に奉仕するという軍事貴族の枠を超え名実共に武家政権を確立させたことを世に知らしめるものとなったのです。

政治権力が源氏に奪われる(1183年)

平家軍事政権を樹立した平清盛でしたが、体を水で冷やしてもその水がすぐに蒸発してしまうほどの原因不明の熱病に犯され、治承5年(1181年)閏2月4日、熱い熱いと叫んで苦しみ抜いた後に死亡します。

この結果、弱体化していった平家でしたが、平家により奪われた政治権力は朝廷には戻ってきませんでした。

寿永2年(1183年)に木曾義仲が京から平家を追放したのですが、後白河法皇が、その功労者であった木曾義仲を駆逐しようとしたところで返り討ちにあい、逆に座所であった法住寺を包囲され命からがら逃げだすこととなる事態に陥ります。

なお、この後、崇徳上皇が海中に投じた五部大乗経が崇徳上皇の末子である元性が所持することにより京に入り込んでいたことが明らかとなり、後白河法皇は心底恐怖します。

崇徳上皇の言霊

以上の結果、朝廷の権力は地に落ち、これに代わって武士である平家が政権運営を行うようになります。

この結果は、崇徳上皇が亡くなる直前に述べた「自分が日本国の大悪魔となって、現在の皇室を庶民とし、庶民を皇室にする」という言葉のとおりとなったことを意味し、震え上がった後白河法皇は、直ちに崇徳上皇の怨霊を鎮魂するための行動に移ります。

崇徳上皇の怨霊鎮魂政策(武家政権期)

崇徳院廟設置(1184年4月15日)

立て続けに不幸に見舞われた後白河法皇は、崇徳上皇に対する恐怖をぬぐい切れなかったため、藤原教長から直ちに崇徳上皇と藤原頼長の怨霊を神霊として祀るべきであるとの進言を受けます(吉記・寿永3年4月15日条)。

この話を聞いた後白河法皇は、寿永3年(1184年)4月15日、保元の乱の古戦場となった地に「崇徳院廟(後の粟田宮)」を建て、崇徳上皇の鎮魂を図ります

もっとも、崇徳院廟は、その後に複数回の再建がなされたのですが応仁の乱後に廃絶します。

その後、明応6年(1497年)に光明院の僧であった幸盛が、後土御門天皇の綸旨を受けて崇徳上皇の廟所を再興したのが現在の崇徳天皇御廟になるのですが、この崇徳天皇御廟が粟田宮の後身にあたるか否かは諸説ありその真偽は不明です。

白峯寺の保護

また、崇徳上皇が崩御後に荼毘に付され陵墓が造られた白峯山と、同山に建てられていた白峯寺に対しても官の保護が与えられました。

さらに、白峯山に新たに頓証寺を建立して、同寺に紫宸殿に模した豪壮な建物を寄進することに崇徳上皇の怨霊を鎮めようと試みられました。

なお、室町幕府の管領であった細川頼之が四国の守護となった際に崇徳天皇の菩提を弔ってから四国平定に乗り出して成功して以後、白峯寺及び崇徳上皇が細川氏代々の守護神として崇敬されたと言われています(金毘羅参詣名所図会・白峰寺縁起)。

崇徳上皇の地位回復

加えて、後白河法皇は、怨霊鎮魂のため保元の宣命を破却し、寿永3年(1184年)8月3日にはそれまで蔑称として付されていた「讃岐院」の院号を「崇徳院」に改め、また、藤原頼長にも正一位太政大臣を追贈します。

もっとも、この後も崇徳上皇の怨霊は鎮まらなかったようであり、後白河法皇が怪奇現象におびえて自邸を引き払ったという記録も残っています。

以上のとおり、様々な手法によって崇徳上皇の怨霊の鎮魂が図られましたが、その功かは不明であり、その後も武士による政権運営が鎌倉幕府→室町幕府→江戸幕府へと引き継がれ、朝廷(天皇家)は約700年もの長きに亘って政治権力を失う結果となりました。

崇徳上皇の怨霊鎮魂政策(明治維新後)

白峯神宮創建(1868年8月)

その後、王政復古の大号令により発足した明治新政府の精神的支柱となって政治権力を手にした明治天皇は、再び天皇家から政治権力が失われないようにすらため、さらなる崇徳上皇の鎮魂を図ります。

明治天皇は、慶応4年(1868年)8月18日、自らの即位の礼を執り行うに際して、蹴鞠を家業としていた飛鳥井家(家祖は藤原成通)の邸宅跡地(現在の京都市上京区今出川通堀川東入飛鳥井町)に崇徳上皇を祀るため白峯神宮を創建した上で勅使を讃岐に遣わし、崇徳上皇の御霊を京に帰還させます。

その上で、明治天皇は、宣命の中で、官軍に歯向かう東北諸藩を速やかに鎮圧させ、世の中を平和にしてくださいと記しました。

この当時は、既に江戸幕府は滅亡し、戊辰戦争の中にあって抵抗を続ける東北諸藩を鎮圧すれば700年ぶりに政治権力が天皇家に帰ってくるという詰めの段階であったところ、明治天皇は、この大事な詰めの段階で崇徳上皇の怨霊により阻止されることを危惧し、崇徳上皇を祭神として京に迎えてその怒りを抑えようとしたのです。

すなわち、明治新政府の第一歩は、崇徳上皇の御霊の鎮魂から始められたのでした。

崇徳上皇の望郷の願いが叶えられたことで崇徳上皇の怨霊は抑えられた結果、東北諸藩の平定に成功した明治新政府は、明治元年(1868年)に晴れて約700年ぶりに武士から朝廷に政治権力が戻ってくることに成功しました。

なお、飛鳥井家が蹴鞠を家業としていたことにちなんで、現在の白峯神宮はサッカーの神として信仰を集めており、境内には必勝を祈願して奉納されたサッカーボールが多数見受けられます。

昭和天皇による祭祀

その後、昭和15年(1940年)、昭和天皇により、白峯宮が白峯神宮と改称されました。

また、昭和天皇は、昭和39年(1964年)、崇徳天皇八百年祭に際し、香川県坂出市にある崇徳天皇陵に勅使を遣わして式年祭を執り行わせています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA