【護良親王】鎌倉幕府滅亡後の征夷大将軍

護良親王(もりよししんのう)は、鎌倉幕府の討幕に多大な功績を挙げて建武の新政では征夷大将軍に補任された後醍醐天皇の第三皇子です。

幼くして仏門に入っていたのですが、鎌倉時代末期に還俗して討幕の兵を挙げ、畿内各地で幕府軍との戦いを繰り返し、最終的な勝利に大きな貢献をしました。

もっとも、その後、同じく鎌倉幕府討幕に貢献した足利尊氏と対立し、また後醍醐天皇との行き違いなどもあって建武政権下で失脚して鎌倉に幽閉された後、中先代の乱の混乱の中で、足利直義の命を受けた淵辺義博によって殺害されるという悲しい最期を迎えています。

護良親王の出自

出生(1308年)

護良親王は、延慶元年(1308年)、尊治親王(後の後醍醐天皇)の第三皇子として生まれます(なお、第一皇子とする説あり)。

母は、民部卿三位とされているのですが(増鏡)、母の出自は北畠師親の娘の資子という説と、勘解由小路経光(広橋経光)の娘の経子という説がある定かではありません。

梶井門跡門主・天台座主就任

護良親王は、母の身分が高くなかったために皇位継承の可能性が低いと考えられていたことから、後顧の憂いを断つため、6歳の若さで天台宗三門跡の一つである梶井門跡(三千院門跡)に入ります。なお、これ以降、還俗するまでの間は「尊雲法親王(そんうんほっしんのう)」と呼ばれたのですが、本稿では便宜上「護良親王」の表記で統一します。また、東山岡崎の法勝寺九重塔(大塔)周辺に最初の門室を置いたことから、通称として大塔宮(おおとうのみや/だいとうのみや)と呼ばれるようになりました。

護良親王は、幼少期から頃から頭脳明晰で名高く、比叡山に入ってすぐに頭角を表し、正中2年(1325年)には門跡を継承して梶井門跡門主となります。

また、延暦寺の僧兵を利用しようとする後醍醐天皇のバックアップもあり、嘉暦2年(1327年)12月から元徳元年(1329年)2月までと同年12月から元徳2年(1330年)4月までの間、天台宗の頂点である天台座主に就任しています。なお、親王としても、嘉暦2年(1327年)12月6日に三品に、元徳2年(1330年)3月27日には 二品に昇叙されています。

もっとも、太平記には、護良親王は、仏教の修行や学問には一切関わらず、毎日僧兵と武芸の訓練に明け暮れており、武器の取り扱いについては免許皆伝の腕前であったと記されています。

後醍醐天皇の2度目の挙兵

元弘元年(1331年)8月、後醍醐天皇が、護良親王らと共に2度目の鎌倉幕府討幕運動を始めます(元弘の乱)。

もっとも、後醍醐天皇の側近であった吉田定房が、この動きを鎌倉幕府にリークしたため、鎌倉幕府から討幕計画参加者のうち後醍醐天皇は配流、護良親王・日野俊基は死罪、文観・忠円・円観は配流との処分が申し渡されます。

ここで、護良親王は、後醍醐天皇を逃すためにその身代わりとして花山院師賢を比叡山延暦寺に送った上で、八瀬童子を使わせて後醍醐天皇を笠置山に誘導します。

この策にはまった六波羅探題は、身代わりが送られた比叡山延暦寺に派兵し、後醍醐天皇の引き渡しを要求します。

もっとも、送られてきた花山院師賢を後醍醐天皇と勘違いしていた比叡山延暦寺が後醍醐天皇を守るために鎌倉幕府の求めを拒絶したため、六波羅探題軍が比叡山延暦寺側に攻め寄せて近江国東坂本で合戦となります。

この戦いは天皇を擁すると信じる比叡山延暦寺側が初戦に勝利したのですが、比叡山延暦寺側で後醍醐天皇と思っていた人物が別人であったことが露見してしまったため、同寺の士気が一気に低下し、鎌倉幕府との交戦を停止してしまいます。

そして、このことを知った六波羅探題軍もまた比叡山から兵を引きます。

他方、護良親王の助言に従って笠置山に到着し同山に行宮を設けた後醍醐天皇は、同山で味方を募り、赤坂城の楠木正成などを引き入れて鎌倉幕府打倒を掲げて挙兵させます。

また、護良親王は、山城国鷲峰山で後醍醐天皇と合流し行動を共にしていたのですが、六波羅軍勢の攻撃が始まる前に尊良親王と共に「楠が館」へと移り、隠れて後醍醐天皇の代わりに討幕の令旨を発して反幕勢力を募っていきます。

この後醍醐天皇の動きを察知した鎌倉幕府方は、直ちに六波羅探題から7万5000人もの兵を動員して笠置山に送り、元弘元年(1331年)9月2日からこれを取り囲みます。

笠置山に籠る兵は3000人とされており、圧倒的に不利な状況だったのですが、天然の要塞であった笠置山はなかなか落ちませんでした。

もっとも、同年9月28日夜、鎌倉幕府方の陶山義高らが風雨に紛れめ笠置山に火を放ったことに起因して笠置山の防衛線が崩壊し、ついに笠置山が陥落します。

この結果、後醍醐天皇らは鎌倉幕府軍に捕えられて六波羅探題に送られ(その後、平等院に幽閉された後で隠岐島に配流となります)、笠置山を囲んでいた兵は抵抗を続ける赤坂城に向かって行きました。

護良親王の倒幕活動

般若寺からの脱出(1331年10月)

笠置山が陥落した際、護良親王は、下層民の生活場所となっていたために鎌倉の目が届きにくい地域となっていた南都の般若寺に入って戦局をうかがっていたのですが、ここに興福寺一乗院の按察法眼好専が護良親王の捜索目的で500人の兵を率いて乗り込んできます。

危機を感じた護良親王は、急ぎ般若寺本堂にあった大般若経の空の経箱に身を潜めてやり過ごします。

この難局を乗り切った護良親王でしたが、さらに自身に鎌倉幕府の手が伸びてくることは確実であると判断し、赤松則祐・光林房玄尊・矢田彦七・小寺相模・岡本三河房・武蔵房豪雲・村上義光・片岡八郎・平賀三郎の9名を引き連れて般若寺を脱出し、柿色の法衣に笈を背負い頭巾を被り金剛杖を握るという山伏の姿になって熊野方面へ向かって逃亡します。

還俗して「護良親王」となる

以上の結果、熊野に向かっていた一行でしたが、途中で護良親王の夢に童子が現れ、熊野は危険であるため十津川に向かうようにとのお告げがあったため、護良親王らは熊野行きを取りやめ、十津川郷(現在の奈良県吉野郡十津川村)に入ります。

なお、護良親王は、この十津川郷滞在中に還俗し、「尊雲法親王」から「大塔宮護良親王」と名を改めたとされています(太平記)。

護良親王は、十津川郷において同地の土豪であった戸野兵衛・竹原八郎に匿われて半年ほど滞在したのですが、幕府方に味方した熊野別当定遍が500人の兵を率いて探索に来たために十津川を脱して高野山方面へ向かった後、吉野に向かいます。

護良親王の吉野入り(1332年6月)

その後、護良親王は、一旦は槇野城(現在の奈良県五條市)に入ったのですが、金峯山寺の執行であった宗信法院の迎えを受けたため槇野城を出て吉野山に入ります。

なお、護良親王が吉野に入ったのは、金峯山寺の衆徒の武力を期待しただけでなく、飯貝地区の真宗寺院・本善寺の一向宗門徒の武力や、紀ノ川が有していた交通上の利便性を考慮していたためだと考えられています。

護良親王が吉野山に入った正確な時期は不明なのですが、正慶元年(1332年)6月27日付の護良親王から和泉松尾寺に宛てた令旨が残っているため、少なくとも同日より前であると考えられています。

吉野に入った護良親王は、鎌倉幕府軍と戦うために、吉野山に立ち並ぶ塔頭などを曲輪に見立て、さらに吉野山一帯を城郭に見立てて(中世山城としての吉野城、太平記では金峯山城)、鎌倉幕府抵抗戦力の中枢と位置付けます。

その上で、後醍醐天皇の代行者として、同時期に鎌倉幕府と戦っていた楠木正成と同調して畿内各地の寺社・土豪寺侍・武装商人に蜂起を促す令旨をばら撒いていきます(畿内のみならず九州の原田氏・阿蘇氏、東国の新田氏などにも発布されたことがわかっています。)。

この護良親王の令旨を受け、播磨国の赤松則村(赤松円心)などが鎌倉幕府打倒に立ち上がります。

吉野城の戦い(1333年2月16日)

そして、護良親王は、正慶2年(1333年)1月、吉野の吉野城(金峯山城)を本拠地として金峯山寺・蔵王堂に本陣を置き、北側から迫り来るであろう鎌倉幕府に対し、金峯山寺を主郭・塔頭群を防衛曲輪とみなした上で、外堀に見立てた吉野川沿いに六田・一の坂・丹治・飯貝という4つの城塁を設け、吉野山全体を城(吉野城)に見立てて防衛を図った上で3000人の兵を集め、千早城の楠木正成と呼応して同時挙兵します。

こうなると鎌倉幕府としても護良親王を捨て置くことはできません。

鎌倉幕府方は、同年2月16日、二階堂道蘊を総大将とする6万騎を護良親王が籠る吉野城(金峯山城)に派遣します。

この吉野城攻防戦は、太平記巻第七「吉野城軍事」に詳述されているのですが、同記載には創作・誇張が多分に含まれており実際の経過は不明です。

もっとも、本稿では当該記載を基に吉野城の戦いの合戦経過を紹介しますので、以上を踏まえてお読みいただければ幸いです。

同年2月18日午前6時ころ、北側から南進して登りくる鎌倉幕府軍と金峯山寺に籠る護良親王軍との間で発生した矢合わせから合戦が始まり、当初は戦力に優る鎌倉幕府軍が戦局を優位に進めます。

簡単に吉野川を突破した鎌倉幕府軍は、丈六平に本陣を置き、大軍を頼りに金峯山寺を目指して南進して行きます。

ところが、この後、鎌倉幕府軍の進軍がすぐに滞ります。

吉野城(金峯山城)に至る道が狭隘であるために細長い陣形での侵攻となってしまった上、急峻な道に足を取られた隙に護良親王軍に攻撃されて損害が拡大していったため、鎌倉幕府の大軍という利を全く生かせなかったからです。

大軍を繰り出して北側から力攻めをするもなかなか吉野城本郭(金峯山寺)に到達できない鎌倉幕府軍は攻め方を変更します。

鎌倉幕府方は、同年閏2月1日、道案内として加わっていた吉野執行・岩菊丸の策を採用し、地形が険しいために防備が手薄と考えられる南側(青根ヶ峰側)の愛染明王宝塔に兵を回すこととし、地理に詳しい150人余りを選抜し夜陰に紛れて金峯山方面へと忍び込ませた上で、夜が明けたところで鎌倉幕府方の愛染明王宝塔方面隊が火を放ちつつときの声をあげながら攻め下らせます。

そして、この鎌倉幕府軍別動隊の攻撃に呼応させ、それまで攻めあぐねていた鎌倉幕府大手軍も総攻撃を行います。

このとき、鎌倉幕府軍本隊の総攻撃を受けた大手側の護良親王軍は、大手側空堀の上に架けられた大橋(攻めが辻)において踏みとどまり鎌倉幕府方の兵800人を討ち取る抵抗を見せます(なお、この戦いが吉野城の戦いの最激戦であり、戦いによる死者の遺体で大手方の堀が埋まり平地と化すほどの戦いがあったと言われています。)。

もっとも、多勢に無勢でしのぎ切れなくなった護良親王軍は次第に鎌倉幕府軍に押されていきました。

元々寡兵であった護良親王軍でしたが、大手側2軍と搦手側1軍による挟撃にあったためにこれを捌ききることが出来なくなり、大手・絡手の双方の防衛線が崩れ、鎌倉幕府軍が護良親王方の本陣である金峯山寺・蔵王堂に迫ってきます。

このとき蔵王堂で必死に指揮をとっていた護良親王にも鎧に7本の矢が突き刺さり、頬と二の腕の二カ所に突き傷を負った状態となっていました。

蔵王堂で崩れゆく戦線を見渡した護良親王は、もはやこれまでと覚悟を決め、迫りくる鎌倉幕府軍の中に突入して一旦これを追い払った後、蔵王堂前の広庭に大幕を引き巡らし、その中に付き従う将兵を入れて最期の別れの酒宴を始めます。

このとき、大手側の二の木戸で鎌倉幕府軍と戦っていた村上義光は、蔵王堂内で行われていた酒宴の騒ぎを聞きつけ、自分がいない間に護良親王がいる蔵王堂が攻撃を受けたと考え、二の木戸を離れて蔵王堂に向かって走っていきます。

蔵王堂にたどり着いた村上義光が護良親王の前に出て状況を確認したところ、護良親王から死を覚悟しての最期の宴を開いていると告げられます。

これに対し、村上義光は、護良親王に対してこんなところで死ぬべきではない、自分が身代わりとなって敵をひきつけるのでその隙に脱出するようと諫めます。

護良親王は、金峯山寺に籠った将兵と共に討ち死にするつもりであるとして一旦は村上義光の提案を断ったのですが、村上義光による強い説得の結果、村上義光の提案に従うこととします。

そこで、護良親王は、着用していた鎧と直垂を脱いで村上義光に渡し、勝手明神横の谷を下って落ち延びていくこととしました。

他方、村上義光は、護良親王を見送った後、護良親王が脱いだ鎧と直垂を着用して護良親王になりすまして蔵王堂の南側にあった二天門に上って鎧を脱いで櫓から投げ下ろして錦の鎧直垂と袴姿となって練り絹の二重袖をはだけさせ、自らの左脇腹から右脇腹までを一文字に切った上で腸をつかみ出して櫓の板に投げつけ、さらに大刀を口に銜えたあとうつ伏せにして突き刺して絶命します。

この村上義光の壮絶な自刃を目にした鎌倉幕府軍は、護良親王が自害したと思い込んで四方の囲みを解いてその遺体めがけて集中し、護良親王になりすました村上義光の首がとられて金峯山寺の薬師付近に運ばれます。

その後、同地で首実検が行われたのですが、ここでようやくこの首が護良親王のものではないことが判明します。

護良親王と思われていた者が別人であったということは護良親王が逃亡中であることを意味しますので、鎌倉幕府方では、急ぎ護良親王追討軍が編成され山中の捜索が行われることとなりました。

村上義光が身代わりとなって時間を稼いでいる間に勝手神社の横にある谷を駆け下りていた護良親王は、わずかな手勢と共に高野山を目指して落ちていきます。

もっとも、護良親王が存命であると知った鎌倉幕府により差し向けられた追っ手の軍が護良親王の下に迫っていきます。

このとき、護良親王の供をしていた村上義隆(村上義光の子)が、このままでは鎌倉幕府軍に追いつかれると判断し、敵を食い止めるために1人で殿として残ります。

その後、鎌倉幕府軍が、村上義隆が立ちふさがる細道にたどり着いたのですが、村上義隆が迫りくる鎌倉幕府軍を1時間ほど食い止めるという活躍を見せます(なお、村上義隆は、十分な時間を稼いだ後、竹藪の中に走り入った後で腹を切って自害しています。)。

護良親王は、村上義光・村上義隆親子が命をかけて稼いだ時間を使い、なんとか吉野山からの脱出を果たし、高野山に向かって落ちていきました。

六波羅探題陥落(1333年5月7日)

以上のとおり護良親王の挙兵は失敗に終わったのですが、一度燃え上がった討幕の動きは止められなくなっていきます。

播磨国から赤松円心が東上を開始して六波羅探題への攻撃を始め、また正慶2年(1333年)4月に隠岐島を脱出した後醍醐天皇が名和長年に奉じられて船上山で倒幕挙兵の綸旨を発すると、これに足利尊氏が呼応して鎌倉幕府から離反して六波羅への攻撃を開始します。

この結果、北から足利尊氏・西から赤松円心・南から千種忠顕により攻撃された六波羅探題が同年5月7日に陥落したため、鎌倉幕府は京を失陥します。

鎌倉幕府滅亡(1333年5月22日)

また、反鎌倉幕府の流れは鎌倉にも波及し、元弘3年(1333年)5月22日、新田義貞によって鎌倉が陥落し、北条高時をはじめとする北条氏一門283人が東勝寺で自刃して鎌倉幕府が滅亡します。

以上の結果、鎌倉幕府の支配を脱して安全になった京に迎え入れるため、

この後、赤松円心が後醍醐天皇を迎えるべく兵庫に向かい、同年5月30日に同地で京に帰還する途中の後醍醐天皇に拝謁した後、京に向かう道中に同行しています。

信貴山に布陣(1333年6月3日)

以上の結果、京に向かう後醍醐天皇の下に諸将が終結すると見られたのですが、このとき護良親王は、六波羅探題陥落により千早城を囲んでいた鎌倉幕府軍を足利尊氏が吸収して自らの指揮下に収める動きを進めていたのを見て足利尊氏に野心ありと確信します。

そこで、護良親王は、足利尊氏から後醍醐天皇を守るため、正慶2年(1333年)6月3日、足利尊氏が集めた兵がいる千早城近辺と後醍醐天皇が向かう京との間にある信貴山・毘沙門堂に布陣し、足利尊氏を牽制する動きを始めます。

この護良親王の動きには同調する勢力も多く、最終的には護良親王の下には3000人もの兵が集います(太平記)。

護良親王は、こうして自らの下に集った軍事力を基に、全国の武士の求心力となって他の武家(足利尊氏)から朝廷を防衛することを目的として後醍醐天皇に征夷大将軍への補任を要求します。なお、護良親王は討幕活動の際に発布した令旨の中で、後醍醐天皇が伯耆国にいる段階から自らを「将軍宮」と称していたとしており、ここにいう征夷大将軍の補任は追認の意味だったと考えられます。

この護良親王の要求に対し、後醍醐天皇は、右大弁宰相清忠(坊門清忠)を勅使として派遣し、内輪の争いの基をつくることなく信貴山を出て京に向かうよう護良親王を説得します。

これに対し、護良親王は、天下太平は一時的であり必ず足利尊氏が台頭することで再び戦乱の世となると主張し、そのときに盾となるために自らが征夷大将軍となってこれに備えなければならないとしてあらためて征夷大将軍補任を強く求めました。

この結果、後醍醐天皇としても、討幕に大功ある護良親王を無下にはできず、また護良親王の主張を否認する材料もなかったことから、護良親王を征夷大将軍に任じることを条件として上洛を命じたため、護良親王は信貴山を出て京に向かいます。

後醍醐天皇と対立

後醍醐天皇入京(1333年6月5日)

後醍醐天皇は、正慶2年(1333年)6月5日、諸司百官、千種忠顕・足利尊氏などの諸将を従え、二条富小路の内裏へと入ります。

後醍醐天皇による京への凱旋帰還です。

京に戻った後醍醐天皇は、すぐさま鎌倉幕府の滅亡に伴って自身の下に戻ってきた政治の実権を駆使し、天皇親政を行うため大改革(建武の新政)をはじめます。

いわゆる天皇親政の復活(後醍醐天皇独裁の始まり)です。

後醍醐天皇がまず行ったのは、鎌倉幕府が擁立した光厳天皇と定められていた正慶の元号を廃止して元弘に戻し(正慶2年→元弘3年)、光厳天皇が署名した詔書や光厳天皇が与えた官位の無効を宣言して後醍醐天皇が唯一の天皇であることを明示したことでした。

そして、次に行ったのが、鎌倉幕府滅亡についての論功行賞であり、同日、倒幕に参加した武家の中でも最も名門であり従える武士が多かった足利尊氏を鎌倉幕府倒幕の勲功第一として鎮守府将軍に任じて武蔵国・下総国・常陸国の他30箇所の所領を与え、また同年6月12日には従四位下に叙して左兵衛督に任じました。

護良親王入京(1333年6月13日)

そして、前記論功行賞後である元弘3年(1333年)6月13日、信貴山を出た護良親王が遅れて京に入り、約束どおり征夷大将軍及び兵部卿に任じられました。

もっとも、護良親王は、自身が入京する前に後醍醐天皇が足利尊氏を勲功第一としていたことを聞き、護良親王が必死に仲間を集めて戦い抜いた京都合戦(六波羅探題攻略戦)が、最後に登場しただけの足利尊氏と京に到着すらしていなかった後醍醐天皇の武功とされていることに驚きます。

なお、この後の同年6月23日に、1番赤松円心1000騎、2番殿ノ法印700騎、3番四条隆資500騎、4番中院定清800騎、千種忠顕1000騎、湯浅定仏、山本忠行、伊東行高、加藤光直らの総勢20万7000騎が続々と入京して来たのですが、護良親王と共に戦った赤松円心らも同様の不満を覚えます。

護良親王と足利尊氏の対立(地方編)

建武の新政を始めた後醍醐天皇は、鎌倉幕府が行なっていた政策を次々と撤回して行った上で、鎌倉幕府設置の各機関を廃止するなどして天皇親政(後醍醐天皇独裁)を開始し、記録所・恩賞方・武者所・雑訴決断所などを次々と設置して中央の政治体制を整えていきます。

このとき、足利尊氏を警戒する護良親王は、舅である北畠親房と共に東北地方を支配下に置いた上で奥州から京に兵を送ることによって護良親王の軍事力の維持に努める目的で義良親王(後の後村上天皇)を旗印・北畠親房の子である北畠顕家を陸奥守に任じてこれを補佐させる形で陸奥将軍府設置を進言し、これを実現させます。

そして、元弘3年(1333年)11月29日多賀城に入った北畠顕家は、奥州平定戦を進める準備として陸奥守として国宣を発給するとともに、鎌倉幕府を模して政所・侍所・引付衆をはじめ公卿や在地の武将からなる式評定衆を置くなどして統治制度を整えた上で奥州平定戦を進めていきました(もっとも、建武2年/1335年7月に足利尊氏が建武政権から独立して奥州総大将を設置したことから、奥州の南北朝の戦いが行われています。)。

他方、護良親王らのこの動きに対し、足利尊氏は、同年12月、関東を支配下に置くために成良親王を旗印・足利尊氏の弟である足利直義を鎌倉に派遣して鎌倉将軍府を成立させることを実現させ、これに対抗します。

護良親王と足利尊氏の対立(中央編)

足利尊氏と護良親王との対立は前記のように地方でも起こっていたのですが、中央でも具現化していました。

ところが、この対立について後醍醐天皇が足利尊氏方に与したために護良親王の立場が悪くなります。

後醍醐天皇が足利尊氏方に与した理由は、後醍醐天皇が天皇親政(後醍醐天皇独裁)を指向しており、自分の子とはいえ天皇以外に力を持つ者(征夷大将軍)がいることは都合が悪かったことがその最大の理由です(なお、後醍醐天皇は、足利尊氏の実力も恐れてはいたものの、表面上は融和の道を探っていました。)。なお、護良親王と後醍醐天皇との不和は、護良親王が鎌倉幕府討幕の綸旨を出したことに始まると言われており、護良親王に皇位簒奪意図があったとは考えられておらず、梅松論においても護良親王が、武家(足利尊氏)より君(父帝)が恨めしいと述べていたと記されています。

そこで、後醍醐天皇は、御家人制を廃止して征夷大将軍の実質的な効力を無くすなどして護良親王の立場を名目上のものにして護良親王の権力を仏教界のことに限定してしまおうと試み、護良親王から実質的軍事力を奪ってしまいました。

ここで力を失った護良親王に更なる悲劇が訪れます。

このころの後醍醐天皇の寵后であった阿野廉子が、後醍醐天皇との間に義良親王(後の後村上天皇)を儲けていたのですが、義良親王を即位させるためには年長者であり討幕の英雄でもあった護良親王が邪魔であると考えます。

この阿野廉子の思惑が、護良親王と対立する足利尊氏とも一致したため両者による護良親王追い落とし案が検討され、阿野廉子が後醍醐天皇に対して護良親王が兵を募って謀反を企んでいると讒言したことから護良親王の立場が一気に悪くなります。

征夷大将軍解任

後醍醐天皇は、護良親王に近しい者を北条残党の反乱や新政権に不満を持つ大和国・摂津国・紀伊国等などの鎮圧に派遣して護良親王から遠ざけた上で、護良親王が皇位簒奪を企てたとして護良親王を征夷大将軍から解任します。

その上で。名和長年・結城親光らに命じて、護良親王を捕縛し、足利尊氏に引き渡してしまいます(「梅松論」では、護良親王は、後醍醐天皇が護良親王・新田義貞・楠木正成・赤松則村らに足利尊氏を討つ密命を下したが失敗し、その責任をなすりつけて足利尊氏に引き渡したと記されています。)。

護良親王の最期

鎌倉流罪(1334年11月)

護良親王を受け取った足利尊氏は、建武2年(1334年)11月、護良親王を朝廷権力から遮断するために弟である足利直義がいる鎌倉将軍府に送ります。

こうして足利直義の監視下に置かれた護良親王は、二階堂ヶ谷の東光寺(同寺の現在所在地とは異なり、現在鎌倉宮がある場所に建っていました。)の土牢に閉じ込められました(太平記)。

中先代の乱(1335年7月14日)

護良親王が鎌倉に送られて約8ヶ月が経過した建武2年(1335年)7月14日、信濃国に潜伏していた北条時行が、御内人であった諏訪頼重や滋野氏らに擁立されて挙兵します(中先代の乱)。

この動きに対し、京の建武政権では、反乱軍が北条時行を擁しているとの情報を掴んでいなかったこと、反乱軍が木曽路から尾張国に抜けて京へと向かうと推測したことなどから対応が後手に回り、何らの対応もしませんでした。

この建武政権の無策を尻目に、勢いに乗る北条時行軍は、建武2年(1335年)7月20日頃、女影原(埼玉県日高市)で渋川義季や岩松経家らが率いる鎌倉将軍府の軍を、小手指ヶ原(同県所沢市)で今川範満の軍を、武蔵府中で救援に駆けつけた下野国守護小山秀朝の軍を次々と打ち破り、また井手の沢(東京都町田市)にて鎌倉から迎撃に来た足利直義軍をも打ち破って鎌倉に向かって行きます。

敗北を重ねた足利直義は、北条時行軍の勢いを見て鎌倉を維持できないと判断し、同年7月22日、まだ幼い足利尊氏の嫡男・足利義詮、後醍醐天皇の皇子・成良親王らを連れて鎌倉を放棄する決断をします。

護良親王暗殺(1335年7月23日)

このときの足利直義には長らく幽閉されていたことにより体力が衰えていた護良親王を連れて行く余裕はなく、他方で護良親王を鎌倉に残していけば北条時行に擁立されて鎌倉幕府復活の旗印となる可能性があります。

そこで、足利直義は、建武2年(1335年)7月23日、どさくさに紛れて護良親王の暗殺を淵辺義博に命じます。

この命を受けた淵辺義博は、護良親王が捕らわれている土牢に赴き、護良親王を組み伏せて太刀で喉元を刺そうとしたのですが、護良親王は首を縮めて剣先を咥え歯で噛み折ります。

その後、淵辺義博は、抵抗する護良親王との格闘の末にようやく護良親王の首を討ち取ったのですが、その首を持って土牢から出て月明かりの下でそれを見ると、護良親王の首は両眼を見開き、歯には刀の先をくわえているという凄惨な形相でした。

この護良親王の形相の余りの恐ろしさに、淵辺義博は、護良親王の首を竹藪に投げ捨ててしまったとされています(太平記)。

以上の結果、護良親王は東光寺で無念の死を遂げるに至りました。享年は28歳でした。

なお、鎌倉は、護良親王の死の2日後に北条時行軍によって陥落しています。

南北朝の動乱へ

以上の結果、一旦は鎌倉を取り戻した北条時行でしたが、後醍醐天皇の勅状を得ないまま京を立った足利尊氏によって建武2年(1335年)8月19日に奪還され、以降鎌倉は後醍醐天皇に反旗を翻した足利尊氏の拠点となります。

この結果、護良親王の予測どおり、足利尊氏と後醍醐天皇が対立して南北朝の動乱へと突入していくこととなりました。

鎌倉宮創建(1869年)

足利直義に暗殺されて無念の死を遂げた護良親王でしたが、明治維新後、後醍醐天皇の皇子として生涯を天皇に捧げた人生を評価され、明治2年(1869年)同年7月15日に明治天皇の命名による鎌倉宮の社号が下賜されて捕えられていた東光寺跡の現在地に護良親王を主祭神とする神社(鎌倉宮)が創建され祀られました。

そして、明治6年(1873年)4月16日の明治天皇の鎌倉宮行幸の結果、同年6月9日に鎌倉宮が官幣中社に列格しています(建武中興十五社の1つ)。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA