【鎌倉幕府は3つある】大倉幕府・宇津宮辻子幕府・若宮大路幕府について

鎌倉幕府というと何を思い浮かべますか。

源頼朝が開いた武家政権としての国家機関を思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。

幕府というのが武家政権であると考えられるのは、後世の室町幕府・江戸幕府のことであり、鎌倉幕府とは単に鎌倉殿(鎌倉幕府将軍)本陣、そしてそこから派生して邸宅・政庁というを意味するにすぎません。

すなわち、鎌倉幕府とは、「鎌倉殿が生活する建物」を意味しているにすぎないのです。

そして、この鎌倉幕府(鎌倉殿の政庁)は、時代により3か所存在しています(仮御所を含めると4か所)。

そこで、本稿では、この鎌倉幕府の変遷について簡単に説明したいと思います。

大倉幕府(1180年~1219年):源氏将軍用

大倉幕府建設(1180年)

治承4年(1180年)10月20日の富士川の戦いに勝利した源頼朝は、東へ戻り、拠点とするために相模国・鎌倉に入ります。

源頼朝が鎌倉を選んだ理由は、北東西の三方を山に南を海に囲まれた要害であること、交通の要衝として従前より発展した都市であったこと、源氏ゆかりの地であったことなどが挙げられます。

鎌倉に入った源頼朝は、まず、源氏の氏神である鶴岡八幡宮を鎌倉中央部の六浦道沿いの小林郷北山に遷し、この社殿を中心にして鎌倉を整備していくこととします。

次に、源頼朝の本拠地の選定がなされます。

当初、父・源義朝の屋敷があった亀ヶ谷が本拠地の候補とされたのですが、手狭であったこと、源義朝の菩提を弔う寺院がすでに建てられていたことなどから同地はあきらめ、鎌倉の外港六浦と鎌倉を結ぶ六浦道沿いの東側にあり、四神相応の地とされていた大倉(東西約270m・南北約200mの方形地・現在の清泉小学校周辺)を本拠とすることに決まりました。

そして、大庭景義を担当として新たな館の建設が行われ、四方に門を設け、敷地内に寝殿・対屋・侍所・厩などを配した一般的貴族の寝殿造によるものであったとされています。なお、発掘調査によりこの御所の東端は、現在の清泉小学校東辺にあたる東御門川(暗渠化)であり、また西端は横国大附属鎌倉小学校の校舎と校庭との境(暗渠化した西御門川が流れている)であることがほぼ確定しています。

源頼朝は、同年12月12日、上総広常の邸を出て、完成した大倉幕府に入っています。

その後、源頼朝は、大倉幕府内に、御寝所などの私的区域とは別に、必要に応じて侍所(1180年)・公文所(1184年)・問注所(1184年)などの公的機関を順次設置して、鎌倉幕府による東国統治を完成させていきます。

そして、大倉幕府の周辺には、御家人の宿館が立ち並び、以降、東国の人々が源頼朝を鎌倉の主として推戴するようになったとされています(吾妻鏡)。

これらの大規模都市開発により、周囲に源頼朝が鎌倉(東国)の主であることを印象付けられます。

いわゆる鎌倉幕府の始まりです。なお、「吾妻鏡」において鎌倉殿・征夷大将軍である源頼朝の館を「幕府」と称している例が見られるように、幕府とは将軍の陣所、居館を指す概念でした。

また、この当時は武家政権を「幕府」と呼んでいたわけではなく、朝廷・公家からは「関東」、武士からは「鎌倉殿」、一般からは「武家」と称されていました。

その後、大倉御所は、建久2年(1191年)3月4日、建保元年(1213年)5月2日の二度に亘って焼失しましたが、そのたびに同一敷地に再建されました。

大倉幕府焼失(1219年12月24日)

その後、建保7年(1219年)1月に第3代鎌倉殿であった源実朝が暗殺されて源氏将軍が断絶して鎌倉殿不在となったため、承久元年(1219年)6月3日、後の第4代鎌倉殿となるため、わずか2歳であった九条道家の三男・三寅(後の九条頼経)に関東下向の宣旨が下り、京から鎌倉に迎えられることとなりました。

そして、鎌倉に下向した三寅は、同年7月19日、鎌倉・大倉幕府に入ったのですが、そのわずか5ヶ月後の承久元年(1219年)12月24日に再度大倉幕府が焼失してしまいます。

二階堂大路仮御所(1219年~1225年)

前記のとおり、承久元年(1219年)12月24日の火事により大倉幕府は消失してしまったのですが、この時点では鎌倉殿が不在であったということもあって大倉幕府の再建はなされませんでした。

そのため、第4代鎌倉殿が約束されていた三寅は、大倉幕府の南方にあった執権北条義時の屋敷を仮御所(二階堂大路仮御所)として、同所にて執権・北条家によって教育されることとなりました。

宇津宮辻子幕府(1225年~1236年):藤原頼経用

宇都宮辻子幕府建築(1225年12月)

その後、貞応3年(1224年)に実質的な鎌倉幕府のトップとして君臨してきた人物である北条義時が亡くなったことにより鎌倉幕府の実質的トップが不在となったところ、次の執権となった北条泰時は、源氏一門から権力を簒奪し、御家人合議制を是とする執権政治への政治形態変更を思考します。

そして、北条泰時は、嘉禄元年(1225年)7月11日に北条政子が亡くなったことをきっかけとして、同年12月20日、次期鎌倉殿である三寅を鶴岡八幡宮の南側にあった北条得宗家の近隣に移し、新たに同地を鎌倉幕府の政庁に定めます。

この新たな政庁は、宇都宮辻子(現在の若宮大路と小町大路の間にある宇都宮稲荷)の約200m北側の宇都宮家の屋敷跡の交差点・小道沿いに位置していたことから、宇都宮辻子幕府と呼ばれました。

評定衆を創設して鎌倉殿の権限を制限

その上で、北条泰時は、嘉禄元年(1225年)12月29日に8歳の三寅を元服させて藤原頼経と名乗らせ、鎌倉殿就任の準備を整えます。

そして、藤原頼経の元服によりが征夷大将軍任命がほぼ決まりましたので、北条泰時は、予め藤原頼経の権限を制限させておくために、このタイミングで宇都宮辻子幕府内に評定衆を置いて人事・政策の決定、法整備、訴訟の採決を独占させることを決定させておきました。

摂家将軍誕生(1226年1月)

以上の経過を経て、嘉禄2年(1226年)正月に、征夷大将軍の宣下を受けた藤原頼経が第4代鎌倉殿(摂家将軍)に就任します。

もっとも、前月の評定衆選定によって北条泰時と北条時房に実質的な権能を奪われていたため、藤原頼経は、鎌倉殿に就任したといってもあくまでも神輿としての傀儡将軍でしかありません。

当然ですが、鎌倉殿といっても9歳の藤原頼経に抗う手段もありません。

若宮大路幕府(1236年~1333年)

その後、嘉禎2年(1236年)、第4代鎌倉殿・藤原頼経が疱瘡をわずらったのですが、このときに宇都宮辻子幕府のある土地の呪いであるとまことしやかにささやかれたため、宇都宮辻子幕府が破却されて、執権・北条家の屋敷の南側に若宮大路幕府が建てられ、そこを鎌倉殿の御所とすることとなりました。

そして、この若宮大路幕府が、鎌倉幕府の終焉まで存続し、元弘3年/正慶2年(1333年)5月12日に新田義貞により焼かれることにより鎌倉幕府の滅亡を見届けることとなりました。

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