曾我兄弟の仇討ち事件をご存知ですか。
曾我兄弟の仇討ちは、建久4年(1193年)5月28日、源頼朝が行った富士の巻狩りの際に、曾我十郎祐成(そがすけなり)と曾我五郎時致(そがときむね)の兄弟が父親の仇である工藤祐経(くどうすけつね)を討ちとった事件です。
伊賀越えの仇討ち(寛永11年・1634年)・赤穂浪士の討ち入り(元禄15年・1703年)と並ぶ、日本三大仇討ちの一つに数えられている大事件です。
曾我兄弟の仇討ちは、後に武士社会において、仇討ちの模範とされて能・浄瑠璃・歌舞伎・浮世絵などの題材に取り上げられ、民衆の人気を得ています。
【目次(タップ可)】
曾我兄弟の仇討ちに至る経緯
工藤家・伊藤家のお家騒動
曾我兄弟の仇討ちに登場する人物は、基本的には一族の親戚筋です。
一族当主の地位と、それを基礎づける所領の遺産分割に端を発して事件に発展します。
きっかけは、これらの一族の当主であった工藤祐隆は、嫡子である伊東祐家が早世するなどしたため、後妻の娘(連れ子)の子を養子として工藤祐継と名乗らせて本領である伊東荘・宇佐美荘を与えました。
他方、嫡孫(嫡子・伊東祐家の子)である伊東祐親(河津氏の祖)にも河津荘を与えたため、工藤家(伊藤家)の領地が分割継承する結果となりました。もっとも、この工藤祐隆の措置は、工藤祐継と伊東祐親のいずれからも不興を買います。
特に、嫡孫として工藤家を継ぐはずだった伊東祐親の不満は大きく、工藤祐経に嫁がせていた万劫御前(伊東祐親の娘)を離縁させて家に戻し、また工藤祐継の死後に工藤祐経の領地を奪取します。
ところが、こんなことをされて工藤祐経が黙っているはずがありません。
工藤祐経は、安元2年(1176年)10月、狩りの場にいた伊東祐親を狙って暗殺を試みるのですが、このとき放った矢がそれ、伊東祐親ではなくその嫡子・河津祐泰が射殺されるという事件が起こります。
これが、曾我兄弟の仇討ちの端緒です。
ドロドロのお家騒動です。
伊東氏の没落
河津祐泰が暗殺されたため、伊東家には、当主伊東祐親と、河津祐泰の妻の満江御前とその子・一萬丸と箱王丸が残されます。
もっとも、この後、伊東祐親が、治承・寿永の乱に際して平家方について源頼朝と戦い(なお、伊東祐親の娘・八重姫が源頼朝の娘を産んだのですが、伊東祐親がこれを許さず、産まれてきた娘を殺害して源頼朝の怒りを買っています。)、富士川の戦いに敗れ、一旦は助命を許されたものの自らの意思で自害して果てたため、伊東氏が没落していきます。
そのため、河津祐泰の妻であった満江御前が、曾我祐信に嫁ぎ、一萬丸と箱王丸(筥王丸)も曾我家の人間として育てられます。
他方、工藤祐経は早くに源頼朝に従って御家人となりその寵臣となったため、一族のパワーバランスは大きく工藤祐経方に傾いていきました。
曾我兄弟の成長
このような厳しい環境の中で、河津祐泰の子である一萬丸と箱王丸(筥王丸)は立派に成長し、まず、兄の一萬丸が、元服して曾我十郎祐成を名乗ります。
また、弟の箱王丸は、父の菩提を弔うべく箱根権現社に稚児として預けられたのですが、出家を嫌って箱根から逃げ出した箱王丸は、縁者であった北条時政を頼り(北条時政の前妻が伊東祐親の娘だった)、烏帽子親となってもらってその元服し曾我五郎時致を名乗ります。
どうでもいいのですが、なぜ、兄が十郎で、弟が五郎なのでしょう??
いずれにせよ、これにより、北条氏が、曾我兄弟の最大の後援者となります。なお、曾我兄弟の弟・曾我時致は、鎌倉幕府2代執権・北条義時から1字を貰って名付けられました。
曾我兄弟の仇討願望
成長した曾我兄弟でしたが、父殺しの工藤祐経を殺す機会をうかがい続けます。
曾我兄弟が仇討ちの成就を願うために箱根権現社に赴き、「この願いが成就するなら祐経の首をください、成就しないなら私達が拝殿を出たらすぐに蹴り殺してください」と祈請したり、そのときに詠んだ和歌が残されたりしています。
兄・曾我祐成:ちはやぶる 神の誓ひの違はずは 親の敵に 逢ふ瀬結ばん
弟・曾我時致:天くだり 塵に交はる甲斐あれば 明日は敵に 逢ふ瀬結ばん
なお、ここで、箱根権現別当から、兄・曾我祐成は黒鞘巻の小刀を、弟・曾我時致は兵庫鎖の太刀(いずれも、木曾義仲打倒の際に、源義経が祈願のために箱根権現へ納めたもの。)を与えられています。
曾我兄弟の仇討ち決行
富士の巻狩り(1193年5月15日~)
そして、仇討の機会を待つ曾我兄弟に、絶好の機会が訪れます。
源頼朝が、御家人を連れて富士の裾野で巻狩を行い、この巻狩には曾我兄弟の仇である工藤祐経も参加するというのです。
巻狩のために本拠を離れ、僅かな手勢のみを連れているに過ぎない状況であれば、父殺しの工藤祐経を殺すことができます。
曾我兄弟チャンスです。
そして、源頼朝は、富士の裾野で巻狩を行うため、建久4年(1193年)5月15日、富士野神野(現在の静岡県富士宮市)の御旅館に入り、翌同年5月16日から、多くの御家人を伴って富士の裾野で盛大な巻狩を開催します(吾妻鏡)。
仇討ち決行(1193年5月28日)
巻狩の最後の日となった建久4年(1193年) 5月28日夜、雨の中、曽我兄弟は、傘を燃やして松明とし工藤祐経の寝所を目指します。
そして、曾我兄弟は、工藤祐経の寝所に押し入ったところで、傍に居た手越宿と黄瀬川宿の遊女は悲鳴を上げたため大騒ぎとなり、直ちに大乱闘に発展します。
このとき、曾我兄弟は、宇田五郎や酒の相手をしていた王藤内を討ち取り、さらに平子有長・愛甲季隆・吉川友兼・加藤光員・海野幸氏・岡辺弥三郎・岡部清益・堀藤太・臼杵八郎らに傷を負わせます。
そして、遂に曾我兄弟は、工藤祐経を討ち取り仇討を果たします。
もっとも、ここで、騒ぎを聞きつけて集まった武士たちが曾我兄弟を取り囲み、兄・曾我祐成が、仁田忠常に討ち取られます。
源頼朝暗殺未遂?
このとき、弟・曾我時致は、命からがら現場から逃走し、向かってくる武士を切り倒しながら源頼朝の御旅館に押し入ります。
そして、曾我時致が、源頼朝めがけて走ったため源頼朝はこれを迎え討とうと刀を取ったのですが、その前に大友能直がこれを押し留めます。
その後、御家人らにより曾我時致は取り押さえられ、大見小平次が預かることで事態が落ち着くこととなりました。
工藤祐経を討った後に、曾我時致が源頼朝を襲撃した理由は謎であり、兄弟の後援者であった北条時政が黒幕となってどさくさに紛れて源頼朝を暗殺しようとしたとする説も有力です。
曾我時致斬首(1193年5月29日)
捕えられた曾我時致は、事件の翌日である建久4年(1193年)5月29日、源頼朝の面前に召し出され、行為に及んだ理由を追及されます。
ここで、曾我時致は、これまでの事情や、仇討ちに至った心底を述べます。
哀れに思った源頼朝は、曾我時致を助命することを考えたのですが、ここで工藤祐経の遺児・犬房丸が、強く曾我時致の死を望んだため、やむなくこれに応じて曾我時致を斬首とします。
庶民のヒーローになる
以上の曾我兄弟の仇討事件は後に曽我物語としてまとめられ、江戸時代になると能・浄瑠璃・歌舞伎・浮世絵などの題材に取り上げられて民衆の人気を得ています。
その後(源範頼誅殺)
この曾我兄弟の仇討事件は鎌倉幕府中を揺るがす大事件として鎌倉にも伝わります。
もっとも、鎌倉には、工藤祐経が暗殺されたこと、源頼朝も襲われたこと等の情報が伝わったものの、源頼朝の安否の情報はなかなか届きませんでした。
このとき、巻狩に参加せず鎌倉に残っていた源範頼が、源頼朝の安否を心配する北条政子に向かって、もしものときは源範頼が控えているのでご安心くださいといった旨の見舞いの言葉を送ります。
ところが、後にこの話を聞いた源頼朝は、源範頼に謀反の疑いありとして、建久4年(1193年) 8月17日、源範頼を伊豆・修禅寺に幽閉し、そのまま誅殺する事件に発展しています。