【人取橋の戦い】伊達政宗が敗れ伊達家の洞支配が終わった二本松城をめぐる戦い

人取橋の戦い(ひととりばしのたたかい)は、天正13年11月17日(1586年1月6日)に、若き伊達政宗が、佐竹氏を始めとする南奥諸大名連合軍に大敗し、伊達氏の洞による南奥支配の終焉となった戦いです。

奥州の覇者・伊達政宗が死の一歩手前まで追い詰められた敗戦ですが、最終的には二本松城を獲得して勢力拡大のきっかけとなった戦いでもあります。

本稿では、伊達家による奥州支配体制を一変させた若き伊達政宗の大敗北について、その発生機序から順に見て行きたいと思います。

伊達氏による洞(うつろ)の支配

伊達稙宗による洞支配確立

奥州では、伊達政宗の曾祖父である伊達稙宗が勢力を強めます。

ここで、伊達稙宗は、伊達家を惣領として中心に据え、周囲の勢力である一族・家臣をまとめた擬似的要素のある族縁共同体を支配するという支配体制を確立します。

他国の分国に相当し、「洞(うつろ)」と呼ばれるシステムです。

そして、伊達稙宗は、周辺部にある国人領主たちによる小規模な洞をいくつも包括した上で、さらに婚姻や養子縁組を通じて蘆名氏・最上氏・田村氏・白河結城氏・岩城氏・相馬氏などの洞を包括して更に大きな洞を形成していきます。

この結果、奥州では、大名家同士が複雑な婚姻関係を持つこととなり、小競り合いを超えた大きな戦が起こらないある意味平和が生まれます。

天文の乱(1542年〜1548年)

もっとも、伊達家による洞を利用した奥州支配体制は、伊達稙宗と嫡男・伊達晴宗との間で、天文11年(1542年)から天文17年(1548年)まで6年間もの長きに亘って繰り広げられた天文の乱(洞の乱)により瓦解していきます。

伊達家の内紛の結果、伊達稙宗が取り込んだ洞の多くが、伊達を見限り、伊達家の支配を離れて独自に戦国大名化の道を進んで行きます。

伊達輝宗による洞の中央集権化

永禄8年(1565年)に伊達家の家督を継いだ伊達輝宗は、失われつつある伊達家による洞支配の強化を目指し、南奥諸大名の洞の中央集権化を試みます。

伊達輝宗が最上家から最上義光の妹・義姫を正室に貰っていたため比較的に北側の安全が確保されていました。

また、北西側には大国の越後上杉家がありますので、北西に攻め込むことはできません。

そこで、伊達輝宗は、南西・南・東方向への勢力拡大を目指します。

伊達輝宗は、まず南東に支配域を持つ相馬盛胤・義胤を攻め祖父・伊達稙宗の隠居領であった伊具郡の丸森城を奪還します。

その後、天正7年(1579年)には、嫡男・伊達政宗の正室として田村清顕の娘・愛姫を貰い受けて田村氏と姻戚関係を築き、さらに南方への睨みを聞かせて行きます。

そんな中で、伊達家南西の蘆名家では、天正12年(1584年)10月6日に当主・蘆名盛隆が死去し内紛の危機に直面します。

また、伊達家南の小浜城主・大内定綱は、更に南の田村氏(伊達政宗正室愛姫の実家)との対立を深めていました。

伊達政宗による旧体制刷新

伊達政宗が伊達家の家督を継ぐ

以上のように、伊達家南側にある大名家にゴタゴタが起きている状態で、天正12年(1584年)10月、伊達政宗が、父である伊達輝宗の隠居にともない家督を相続し、伊達家第17代当主となります。

伊達政宗は、旧来の洞による小規模国衆の集合体の長ではなく、自らを頂点とするピラミッド型のヒエラルキーシステムの構築を目指します。

そして、そのために軍備増強を図り、消極的な縁戚外交を止め、積極的な対外侵攻作戦(南進作戦)を進めます。

言うなれば、政宗流の構造改革です。

小手森城の撫で斬り(1585年8月27日)

伊達政宗は、勢力拡大のため、まずは伊達領と田村領に挟まれる塩松領の小浜城主・大内定綱に伊達家への臣従を迫ります。

もっとも、大内定綱も当主になりたての若造に臣従などできませんので、蘆名家を頼ってこれを拒みます。

これに怒った伊達政宗は、天正13年(1585年)5月、まずは蘆名氏に攻め入ったのですが、敗北を喫し退却します(関柴合戦)。

そこで、伊達政宗は、1585年(天正13年)、作戦を変更して、大内定綱攻撃のため、河股(現・福島県伊達郡川俣町)方面から塩松に攻め入り、岳父・田村清顕と共に南北から侵入して小手森城を囲みます。

そして、同年8月27日、伊達政宗は、小手森城へ総攻撃をかけ、その日のうちに落城させます。

小手森城を落とした伊達政宗は、大内定綱に対する見せしめとして、城主・菊池顕綱はもちろん、敵将や敵兵だけでなく、城内にいた女や子供もまでも皆殺しにします。

この伊達政宗の虐殺行為は、大内定綱や周辺の大名・住民に強烈なインパクトを残し、「小手森城の撫で斬り」として後世まで語り継がれることとなりました。

その後、伊達政宗が小浜城域に攻め込んだため、大内定綱は姻戚関係にあった畠山義継を頼って二本松領へ逃れます。

父・伊達輝宗を射殺(1585年10月8日)

伊達政宗は、大内定綱を追って、二本松領に侵攻して行きます。

勝ち目がないと判断した二本松城主・畠山義継は、伊達政宗に降伏を申し出たのですが、伊達政宗はこれを許さず、畠山義継の所領のほとんどを没収しようとします。

その後、伊達輝宗や伊達成実らの斡旋で、畠山義継との講和条件が緩和されますが、この一件で畠山義継が伊達政宗を深く恨むようになります。

畠山義継は、この恨みを晴らすため、天正13年(1585年) 10月8日に宮森城を訪れた際、伊達輝宗を拉致して二本松城へ連れ去ろうとします。

この話を聞いた伊達政宗は、本拠地へ戻る途中の高田原で、伊達輝宗を連行する畠山義継一行に追いつき、そこで畠山義継一行を伊達輝宗ごと射殺します(粟之巣の変事)。

怒りに震える伊達政宗は、畠山義継の遺体を斬り刻んだ上、藤蔓で繋ぎ合わせて吊るしたと言われています。

人取橋の戦い

二本松城攻め(1585年10月15日)

畠山に対する怒りの収まらない伊達政宗は、父の初七日が明けるのを待ち、天正13年(1585年)10月15日、伊達輝宗及び岳父・父田村清顕の弔い合戦として、加勢の要請を承諾していた相馬義胤とともに1万3000人を率いて二本松城攻めを開始します。なお、相馬義胤は、石川・白川・須田伯耆(月見館)などが寝返る風聞が立ったため危険を感じて間もなく本拠に戻っています。

これに対して、二本松方も、当主の遺体を辱められたことで伊達への怒りが爆発して家中が反伊達でまとまり、畠山義継の従弟である新城盛継を中心に畠山義継の遺児である12歳の国王丸を擁して籠城戦の準備をするとともに、常陸の佐竹氏・会津の蘆名氏へ援軍要請をします。

反伊達政宗連合軍結成

二本松から援軍要請を受けた佐竹義重・佐竹義宣は、蘆名亀王丸・二階堂阿南・岩城常隆・石川昭光・白川義親・義広らと協議を行い、対伊達政宗のための南奥州連合軍を結成し、畠山氏救援のために結集します。

そして、ここに直前まで伊達政宗と共に二本松城攻めをしていた小高城の相馬義胤まで加わります。

天正13年(1585年)11月10日、佐竹家を中心とする反伊達政宗連合軍が須賀川まで進軍して行きます。

両軍の布陣

① 反伊達政宗連合軍の布陣

須賀川から北に向かって進軍していった反伊達政宗連合軍3万人は、天正13年(1585年)11月16日、五百川南方の前田沢に布陣します。

②伊達政宗方の布陣

他方、反伊達政宗連合軍接近するとの報を受けた伊達政宗は、国分盛重らを二本松城の包囲に残し、残りの7000人の兵を率いて二本松城を離れ、迎撃のため、一旦岩角城を経て本宮城に入ります。

そして、伊達政宗は、天正13年(1585年)11月17日、本宮城を出て、南方の観音堂山に布陣します。

なお、このとき、田村清顕は家臣田村右近大夫が居住する阿久津(郡山市阿久津)の巳午の方角(南南東)の行合(行合寺付近か)に布陣します。

人取橋決戦(1585年11月17日)

以上のとおり布陣した両軍ですが、天正13年(1585年)11月17日早朝、反伊達政宗連合軍が各1万人の3手に分かれて進軍を開始したため、後に人取橋の戦いと呼ばれる激戦が始まります。

反伊達政宗連合軍の内、西の佐竹軍、中央の蘆名軍・相馬軍は北上して伊達政宗本陣を目指します。また、東のその他軍は、伊達方1000人が籠る高倉城の攻撃に向かいます。

対する伊達政宗は、西側には泉田安芸率いる1000人を、中央には白石宗実率いる500人を差し向けて迎撃させます。

もっとも、いずれも圧倒的な兵力差により、反伊達政宗連合軍の3軍ともが伊達方を打ち破って伊達政宗本陣に迫ります。

こうして、瀬戸川(阿武隈川支流)を挟んで、北側に伊達政宗と反伊達政宗連合軍が直接対峙することとなりました。

このとき、大軍を北側に渡らせるため、瀬戸川に架かる人取橋を攻略したい反伊達政宗連合軍と、これを防ぎたい伊達政宗との間で人取橋を巡る大激戦が繰り広げられます。

熾烈な人取橋争奪戦は、反伊達政宗連合軍が優位に戦いを進め、伊達政宗自身も鎧に矢1筋・銃弾5発を受ける壮絶な白兵戦が続きます。

もっとも、兵力に劣る伊達政宗軍は、反伊達政宗連合軍の攻撃を支えきれずに壊滅します。

負けが決定的となった伊達政宗軍は、老将・鬼庭左月斎が殿を務め、60騎を率いて反伊達政宗連合軍の本陣目指して突撃し、伊達政宗の退却時間を稼ぎます。なお、このとき齢73歳の鬼庭左月斎は、重い甲冑を着て動くことができず、黄綿帽子を被って突撃していったと言われています。

果敢に突撃して討ち死にした鬼庭左月斎や、東方の瀬戸川館に布陣していた伊達成実の軍勢500人が踏み止まって時間を稼いだため、なんとか伊達政宗は本宮城に逃れました。

敗北必至となった伊達軍でしたが、このまま日没を迎えたため、この日の戦闘は伊達政宗軍の大敗北にてここで終結しました。

佐竹軍の撤退

本宮城に退去した伊達政宗は、翌日の戦いに備えることとしたのですが、多くの将兵を失ったためその準備は芳しくなく、ここで人生最大の危機に晒されます。

伊達政宗は、翌日の戦いでの死を覚悟したと思われます。

ところが、驚いたことに、翌朝になってみると、大勝利を飾った反伊達政宗連合軍3万人がいなくなっていたため、伊達政宗は休止に一生を得ました。

その理由は、同日夜、佐竹家の部将・小野崎義昌(佐竹義篤の子で義重の叔父にあたる)が陣中で家臣に刺殺されるという事件が発生し、さらには本国に北条方の馬場城主江戸重通や安房の里見義頼らが攻め寄せるとの報が入ったため、連合軍の主力である佐竹軍が撤退を決定したためです。

主力の佐竹軍が撤退したことにより、その他の軍も次々と撤退し、ついには買っていたはずの反伊達政宗連合軍が全軍撤退するという結果となりました。

反伊達政宗連合軍の撤退により伊達政宗の命は助かったものの、大敗した伊達家の南奥での威信は失墜し、伊達家による洞の支配を終わらせる結果になりました。

人取橋の戦いの後日談

二本松城陥落(1586年7月16日)

敗れた伊達政宗は、岩角城から小浜城へと引き上げ、同城に滞在して冬を越します。

伊達政宗は、雪解けを待って再び二本松攻めを再開したのですが、守将・新城盛継の防戦と、南奥諸大名による後詰めのため、またも攻略に失敗します。

もっとも、籠城する二本松勢も疲弊し、兵糧不足などもあって戦闘継続困難となったため、天正14年(1586年)7月16日に相馬義胤の斡旋を受けて、二本松勢の会津退去を条件に和睦が成立し、二本松城が伊達政宗に明け渡されます。

伊達政宗の奥州支配への足掛かり

人取橋の戦いにより、旧体制である洞の支配を失った伊達家でしたが、この旧体制からの脱却と奥羽の覇権を求めた伊達政宗は二本松城という足がかりを得て、以降さらなる領土拡大を目指し蘆名領へ武力侵攻を進めて行くこととなります(摺上原の戦いへ)。

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