摂家将軍(せっけしょうぐん)は、鎌倉幕府において、源氏将軍が途絶えた後、九条家から迎えられた藤原頼経(第4代鎌倉殿)とその子・藤原頼嗣(第5代鎌倉殿)の2人の征夷大将軍を言います。藤原将軍あるいは公卿将軍とも呼ばれます。
摂家将軍が置かれた期間は、嘉禄2年(1226年)正月から建長4年(1252年)までのわずか26年間に過ぎません。
宮将軍を擁立するまでのつなぎとして擁立された上で北条家の権威の基盤として使われ、必要がなくなるとポイ捨てされるという悲しい結末を迎えています。
本稿では、悲しいつなぎの将軍であった「摂家将軍」について見ていきたいと思います。
【目次(タップ可)】
摂家将軍誕生の経緯
源氏将軍治世
初めての武家政権として成立した鎌倉幕府でしたが、当初は、鎌倉幕府の支配力は主に東日本に及んでいたものの、西日本についてはいまだ朝廷の力が強く及んでいたため、二元統治体制となっていました。
もっとも、朝廷にとっても、鎌倉幕府を討伐できるだけの力はなく、また源氏が清和天皇の血を引くいわば身内の関係にあったことから、鎌倉幕府の将軍が源氏の者であった間は、両者の間に微妙なパワーバランスが維持され、両者の間に武力衝突は発生しませんでした。
ところが、建保7年(1219年)1月に第3代鎌倉殿であった源実朝が源頼家の次男・公暁に暗殺されるという一大事件が起こり、この関係性が壊れていきます。
また、暗殺された源実朝には実子が無く、また継嗣も定めていなかったため、鎌倉幕府内も大混乱に陥ります。
第4代鎌倉殿から源氏将軍を排斥
この混乱を鎮めるために、北条義時と北条政子によって、第4代鎌倉殿の選定が急がれます。
当然の話ですが、源実朝が死亡したとしても、源氏の血筋が途絶えたわけではありませんので、源氏一門から新たな「源氏将軍」を迎えることが検討されました。
ところが、源氏将軍の擁立は、御家人から信奉を集めやすいために鎌倉幕府内での独裁を進める北条家にとっては害悪でしかありません。
そこで、北条義時・北条政子は、多くの源氏一門やその親類縁者の多くに謀反の罪を着せ短期間のうちに次々と粛清していきます。なお、主なものだけでも、以下のものが挙げられます。
① 建保7年(1219年)1月27日、公暁を源実朝暗殺の報復として暗殺。
② 建保7年(1219年)2月11日、阿野時元(源頼朝の異母弟である阿野全成の子)に謀反の嫌疑をかけて誅殺。
③ 承久元年(1219年)7月13日、源頼茂(源頼政の孫)に謀反の嫌疑をかけて誅殺。
④ 承久2年(1220年)4月14日、禅暁(源頼家の妾の子)を公暁の謀反に加担したとの疑いで誅殺。
この北条義時・北条政子の暗躍により、源氏嫡流(河内源氏義朝流)が断絶します。
この源氏将軍の断絶により、鎌倉幕府内での北条家の力は飛躍的に増大したのですが、他方で、朝廷と鎌倉幕府(鎌倉幕府を実質的に支配する執権・北条義時)との関係が急速に悪化します。
皇族将軍下向の奏上(1219年2月13日)
この緊張関係は鎌倉幕府を実質的に統べる北条義時にとっても望むものではありませんでした。
そこで、北条義時は、朝廷との関係を改善するため、建保7年(1219年)閏2月1日、二階堂行光を派遣して、後鳥羽上皇に対して後鳥羽上皇の皇子である雅成親王(六条宮)か頼仁親王のいずれかを第4代鎌倉殿として迎えたいと奏上します。
もっとも、後鳥羽上皇としては、武士の棟梁であるはずの鎌倉殿が簡単に暗殺される物騒な組織に大事な皇子を下向させるなどできません。
そこで、後鳥羽上皇は、同年閏2月4日、皇子を鎌倉殿とすれば国を二分することにつながりかねないとの理由をつけて皇子の下向を拒否します(愚管抄)。
そればかりか、後鳥羽上皇は、同年3月9日、北条義時に対し、北条義時が領主を務める摂津国の長江荘・倉橋荘の地頭の改補を命じます。
怒った北条義時は、同年3月、北条時房に1000騎を与えて上洛させ、後鳥羽上皇の要求を拒否した上で、再び皇族将軍下向の圧力をかけます。
メンツをつぶされた鎌倉幕府は、強硬手段により問題を解決しようとしたのです。
三寅の鎌倉下向(1219年7月19日)
軍事力をもって圧力をかけられた後鳥羽上皇は、北条義時の提案を突っぱねることができなくなり、やむなく交渉を進めた結果、皇子ではなく摂関家の子弟を下向させるとの結論での妥協案を示します。
これに対し、1日でも早く将軍不在という未曽有の危機を回避したい鎌倉幕府は、やむなく後鳥羽上皇の案を了承することとします。
京から将軍を迎えるといっても、北条家独裁を脅かすことは本意ではありませんので、北条義時は、迎える将軍としては、何もわからない子供の中から選定することとし、最終的には、父方及び母方の祖母が源頼朝の姪という関係性にあった2歳の九条道家の三男・三寅(後の九条頼経)の下向を希望します。
その後、承久元年(1219年)6月3日、三寅に対して関東下向の宣下が下ったため、後の第4代鎌倉殿となるため、三寅は京を発って鎌倉に向かうこととなります。
そして、三寅は、同年7月19日、鎌倉・大倉幕府に入ったのですが、同年12月24日にこれが焼失してしまったため、大倉幕府の南方にあった執権・北条義時の屋敷を仮御所と定めて移っています(二階堂大路仮御所:1219年~1225年)。
尼将軍誕生(1219年7月)
もっとも、鎌倉殿(摂家将軍)となるべく送られた人物とはいえ、僅か2歳の三寅に政治などできようはずがなく、三寅が幼少の間は、北条政子がその後見として鎌倉幕府を主導し、北条義時がこれを補佐するという政治形態が作られます。
いわゆる尼将軍の誕生です。
実際、吾妻鏡では、源実朝が死去した建保7年(1219年)から、北条政子が死去する嘉禄元年(1225年)までの間、北条政子を鎌倉殿として扱っています。
摂家将軍の誕生
藤原頼経元服(1225年12月)
実質的な鎌倉幕府のトップとして君臨してきた人物である北条義時が貞応3年(1224年)に、北条政子が続く嘉禄元年(1225年)に亡くなったため、鎌倉幕府のトップが不在となってしまいます。
そのため、ときの執権・北条泰時は、同年12月29日、8歳の三寅を元服させて藤原頼経と名乗らせ、鎌倉殿就任準備を整えます。また,同年には、焼失してしまっていた大倉幕府に代わる鎌倉殿の新御所として宇都宮辻子幕府が建築されています。
そして、三寅が元服したことにより、三寅改め藤原頼経が征夷大将軍に任命されることがほぼ決まりますので、予めその権限を制限させておくために、同年、鎌倉幕府内に評定衆を置いて人事・政策の決定、法整備、訴訟の採決を独占させることを決めます。
藤原頼経の鎌倉殿就任(1226年正月)
藤原頼経は、翌嘉禄2年(1226年)正月、征夷大将軍の宣下を受け、第4代鎌倉殿(摂家将軍)に就任します。
もっとも、前年の評定衆の選定により北条泰時と北条時房に実質的な権能を奪われていた藤原頼経は、鎌倉殿に就任したといってもあくまでも神輿としての傀儡将軍でしかありませんでした。
鎌倉殿といっても9歳の少年ですので、これに抗う手段もありません。
源頼家娘を室に迎える(1230年12月)
そして、藤原頼経は、13歳となった寛喜2年(1230年)12月9日、その権威を高めるために、当時29歳であった第2代鎌倉殿・源頼家の娘である竹御所を室に迎えます。
16歳もの年の差があったものの2人の夫婦仲は円満であったと伝えられ、その4年後に竹御所の懐妊したため後継者誕生の期待が生れたのですが、当時としては高齢出産であったことから難産の末に男児を死産し、天福2年(1234年)7月27日、竹御所本人も死去しています。
なお、この竹御所の死亡により、源頼家及び源頼朝の直系子孫は全て死亡し、源氏棟梁家の血筋は断絶しています。
藤原頼経は、天福2年(1234年)3月5日には元服する後の第4代執権・北条経時に対し「経」の諱を、また嘉禎3年(1237年)4月22日には元服する後の第5代執権・北条時頼に対し、「頼」の諱をそれぞれ与えていますが、実質的な権限は皆無でした。
暦仁元年(1238年)正月28日、死去した竹御所の継室を選定するため、北条泰時・北条時房らを率いて上洛し、同年2月17日に京に入った後、権中納言、検非違使別当を経て権大納言まで昇進し、同年10月13日、京を発って鎌倉に戻ります。
藤原頼経の失脚(1244年)
以上のように、執権権威の後ろ盾の役割を担っていた藤原頼経でしたが、年齢を重ね、また官位を高めていくに従い、政治的関心を持ち始めます。
また、ここに北条朝時(北条義時の次男)・北条光時、三浦泰村ら反得宗・反執権政治勢力が接近してきたため、藤原頼経は、次第にその野心を強めていき、鎌倉幕府内での権力基盤を指向するようになります。
これに加え、北条執権との関係に配慮してきた外祖父・西園寺公経が死去し、北条氏に反感を抱く父・九条道家が関東申次となると、九条道家が幕政に介入を試みるようになってきたため、藤原頼経と執権・北条経時との関係が悪化します。
このような経過を経たため、藤原頼経が次第に扱いにくくなったと判断した執権・北条経時は、寛元2年(1244年)4月、謀反の疑いありとして27歳となっていた藤原頼経の将軍職を解任させます(なお、藤原頼経は、寛元3年・1245年に出家し、寛元4年・1246年7月に京に追放されています【宮騒動】。)。
藤原頼嗣の鎌倉殿就任(1244年)
寛元2年(1244年)4月、第4代鎌倉殿・藤原頼経が将軍職を解任されたため、僅か6歳であったその嫡男・藤原頼嗣が、ときの執権・北条経時を烏帽子親として元服し、第5代鎌倉殿に就任します。
そして、翌年の寛元3年(1245年)には、北条経時の妹・檜皮姫(当時16歳)を正室として迎え(なお、檜皮姫は宝治元年・1247年5月に死去します。)、父と同様に北条家の傀儡将軍としての立場にとどめられます。
摂家将軍の終焉
宝治合戦(1247年6月)
鎌倉幕府内で専横を極める北条家に対抗するため、宝治元年(1247年)6月、藤原頼嗣を擁して三浦家が立ち上がり、敗れて三浦家が滅亡します(宝治合戦)。
このとき、敗れた側にいた藤原頼嗣も処罰が及ぶ可能性があったのですが、ここでは鎌倉にとどめられます。
藤原頼嗣追放(1252年)
もっとも、建長3年(1251年)、鎌倉幕府内において、了行法師らの謀叛事件に藤原頼経が関係したとして、その一族である藤原頼嗣を廃し後嵯峨上皇の皇子宗尊親王を新将軍として迎えることが決定されます。
そこで、翌年の建長4年(1252年)、藤原頼嗣は14歳で将軍職を解任され、母・大宮殿とともに京へ追放されます。なお、康元元年(1256年)8月に第4代鎌倉殿・藤原頼経が死去し、同年9月25日に第5代鎌倉殿・藤原頼嗣が赤斑瘡により死去しています(享年18)。
宮将軍擁立(1252年)
そして、建長4年(1252年)、後嵯峨上皇の皇子である宗尊親王が第6代鎌倉殿と迎えられたことにより(宮将軍)、摂家将軍の終焉が決定されました。
以上のとおり、摂家将軍とは、源氏将軍断絶後に宮将軍を擁立するまでのつなぎとして擁立された鎌倉殿であり、北条家の権威の基盤として使われ、必要がなくなるとポイ捨てされるという悲しい結末を迎えた悲劇の将軍2人です。