墨俣川の戦いは、治承5年(1181年)4月ごろに現在の岐阜県羽島市小熊町と大垣市墨俣町の間を流れる長良川(当時は墨俣川と言っていました)近辺で起こった、源行家軍と平重衡軍との戦いです。
治承・寿永の乱の戦いの1つであり、富士川の戦いに敗れて勢いを失いつつあった平家が、源氏軍を打ち破り勢いを取り戻そうとするきっかけとなった戦いでもあります。 “【源平墨俣川の戦い】尾張・三河に進出した源行家が平家に大敗した合戦” の続きを読む
墨俣川の戦いは、治承5年(1181年)4月ごろに現在の岐阜県羽島市小熊町と大垣市墨俣町の間を流れる長良川(当時は墨俣川と言っていました)近辺で起こった、源行家軍と平重衡軍との戦いです。
治承・寿永の乱の戦いの1つであり、富士川の戦いに敗れて勢いを失いつつあった平家が、源氏軍を打ち破り勢いを取り戻そうとするきっかけとなった戦いでもあります。 “【源平墨俣川の戦い】尾張・三河に進出した源行家が平家に大敗した合戦” の続きを読む
源頼朝公の墓を観光された方は相当数おられると思うのですが、その大部分の方は場所を間違っておられます。
その原因は明らかであり、インターネットなどで「源頼朝の墓」と検索すると供養塔の写真があふれ出てくるためにこの供養塔が源頼朝の墓であると考えてしまいがちであるからです。
本稿では、この誤りを正し、鎌倉観光の際に本当の源頼朝の墓に参ることができるよう、本当の源頼朝の墓がどこにあるのかについて、その理由もあわせて説明したいと思います。 “【源頼朝の墓】勘違いしがちな初代鎌倉殿の墓の場所(観光用)” の続きを読む
鎌倉幕府というと何を思い浮かべますか。
源頼朝が開いた武家政権としての国家機関を思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。
幕府というのが武家政権であると考えられるのは、後世の室町幕府・江戸幕府のことであり、鎌倉幕府とは単に鎌倉殿(鎌倉幕府将軍)本陣、そしてそこから派生して邸宅・政庁というを意味するにすぎません。
すなわち、鎌倉幕府とは、「鎌倉殿が生活する建物」を意味しているにすぎないのです。
そして、この鎌倉幕府(鎌倉殿の政庁)は、時代により3か所存在しています(仮御所を含めると4か所)。
そこで、本稿では、この鎌倉幕府の変遷について簡単に説明したいと思います。 “【鎌倉幕府は3つある】大倉幕府・宇津宮辻子幕府・若宮大路幕府について” の続きを読む
北条宗時(ほうじょうむねとき)は、北条時政の嫡男であり、北条義時の兄でもあります。
伊豆に流された源頼朝に付き従い、その挙兵を主導した人物でもあります。
挙兵直後の石橋山の戦いに敗れて逃亡中に討ち取られたため、あまり記録が残されていないのですが、源平争乱の端緒として大きな役割を果たした人物ですので、残された記録を基に北条宗時の人生についてできる限りわかりやすく紹介したいと思います。 “【北条宗時】源頼朝の挙兵を主導した北条時政の嫡男” の続きを読む
三善康信(みよしのやすのぶ)は、初代問注所執事として鎌倉幕府内での裁判実務を一手に引き受けた有能な文官です。
有能ではあったのですが、性格はおっちょこちょいであり、京で下級役人をしていた時代に、早とちりのせいで源頼朝に誤報を届け、対平家の挙兵を決定させるという歴史的一大事件の引き金を引いた人物としても有名です。 “【三善康信】誤報で源頼朝を挙兵させた初代問注所執事” の続きを読む
安達盛長(あだちもりなが)は、伊豆国に流された源頼朝の最初の家人となった人物です。
比企尼の命により、罪人として家臣を持つことを許されなかった源頼朝の事実上の世話回りをし、後に鎌倉幕府の上位御家人となっています。
本稿では、最終的には13人の合議制の1人になるにまでに出世をし、鎌倉時代に繁栄した安達氏の祖となった人物となった安達盛長の生涯について見ていきたいと思います。 “【安達盛長(小野田盛長)】伊豆に流された源頼朝の最初の家人” の続きを読む
摂家将軍(せっけしょうぐん)は、鎌倉幕府において、源氏将軍が途絶えた後、九条家から迎えられた藤原頼経(第4代鎌倉殿)とその子・藤原頼嗣(第5代鎌倉殿)の2人の征夷大将軍を言います。藤原将軍あるいは公卿将軍とも呼ばれます。
摂家将軍が置かれた期間は、嘉禄2年(1226年)正月から建長4年(1252年)までのわずか26年間に過ぎません。
宮将軍を擁立するまでのつなぎとして擁立された上で北条家の権威の基盤として使われ、必要がなくなるとポイ捨てされるという悲しい結末を迎えています。
本稿では、悲しいつなぎの将軍であった「摂家将軍」について見ていきたいと思います。 “【摂家将軍】源氏将軍断絶後のつなぎの鎌倉殿の藤原頼経と藤原頼嗣” の続きを読む
後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)は、鎌倉幕府執権・北条義時討伐のための兵を挙げたものの敗れて隠岐に流された上皇として有名です(承久の乱)。
このことだけ聞くと、無謀な挙兵をした人物であるかのように感じられますが、実はそんなことはありません。
朝廷から武士に権力が移行していく時代に抗い、鎌倉殿・源実朝を取り込んだり、鎌倉幕府御家人に官位を与えるなどして朝廷の権威を取り戻そうと尽力したとても有能な上皇でした。
実際、後鳥羽上皇は、文武両道であったとされ、新古今和歌集の編纂でも知られています。
もっとも、結果的には幕府軍の数の暴力に屈して隠岐島に流され、失意のうちに崩御されるという悲しい結末を迎えています。 “【第82代・後鳥羽天皇】承久の乱で北条義時に敗れ隠岐に流された上皇” の続きを読む
北条政子の演説は、第3代鎌倉殿を失って混乱する鎌倉幕府を見て北条義時を討伐する好機と判断した後鳥羽上皇が、北条義時追討の院宣を発したのに対し、この「北条家の危機」を「鎌倉幕府の危機」であるかのように御家人に伝えてその奮起を促したという歴史のターニングポイントとなった出来事です。
その後の承久の乱により、朝廷の権威を失墜させ、幕府と朝廷という二元体制から幕府による一元支配につながるきっかけともなりました。
本稿では、そんな歴史のターニングポイントの端緒となった北条政子の演説について、そこに至る経緯からみていきたいと思います。 “【北条政子の演説】北条家の危機を鎌倉幕府の危機にすり替えた尼将軍の名演説” の続きを読む
北条義時追討の院宣は、第3代鎌倉殿を失って混乱する鎌倉幕府を見て好機と判断した後鳥羽上皇が、1221年(承久3年)、鎌倉幕府執権・北条義時打倒の兵を挙げた際に(承久の乱)、全国の有力者に対して自らに味方するよう命じた院宣です。
このときまで、朝廷軍に勝利した(朝敵となって勝利した)武士はいませんでしたので、「北条家」存亡の危機に瀕することとなります。
もっとも、北条政子の演説により、「北条家の危機」であったのを「鎌倉幕府の危機」であるかのように御家人に伝えてその奮起を促し、ついに後鳥羽上皇を打ち破る結果につなげるという大逆転劇をやってのけます。
本稿では、北条義時に敗れて権威を失った朝廷が武士に権力を奪われるという歴史のターニングポイントの端緒となった北条義時追討の院宣について、その発出の経緯からみていきたいと思います。 “【北条義時追討の院宣】承久の乱のきっかけとなった後鳥羽上皇の命令” の続きを読む