【竹御所】第2代尼将軍と言われた源頼家の長女

竹御所(たけのごしょ)は、第2代鎌倉殿であった源頼家の長女です。

北条家による鎌倉幕府乗っ取り行為により、父・兄弟を次々と殺された悲しい女性です。

親族が失われていったため、祖母の北条政子に育てられ、その器量と血筋から、北条政子亡き後を継いで第2代尼将軍とまで言われた才女でもあります。

源氏の血統を絶やさないようにするために超高齢出産に挑み、最期は力尽きて激動の生涯を終えています。

本稿では、そんな波瀾万丈の人生を送った竹御所の生涯を見ていきたいと思います。 “【竹御所】第2代尼将軍と言われた源頼家の長女” の続きを読む

【源頼家の子供達の最期】北条家によって次々粛清された鎌倉殿の子

源頼家は、初代鎌倉殿であった父・源頼朝から地位の承継(鎌倉殿・征夷大将軍)を受け、若くして源氏の棟梁となります。

ところが、源頼家が鎌倉殿の地位を承継した後、有力御家人による権力争いが絡んですったもんだの大騒動が繰り広げられます。

その中で、源頼家自身とその子供たち(四男一女)が、御家人の思惑を受けて次々と粛清されていきます。

そして、鎌倉幕府の成立後50年を持たずして、源頼家の直系子孫(源頼朝の直系子孫も同じ)は断絶してしまいます。

本稿では、この源頼家の直系子孫断絶に至る経緯について説明していきたいと思います。 “【源頼家の子供達の最期】北条家によって次々粛清された鎌倉殿の子” の続きを読む

【徳川家康の人質時代】人質竹千代が清洲同盟を後ろ盾にして独立するまで

江戸幕府を創設した徳川家康は、その人生において数々の苦難に見舞われています。

三河一揆・三方原の戦い・神君伊賀越えなど数えればキリがありません。

その他にも3歳で生母と離され、6歳で人質に出され、挙句の果てに政争の駒としてたらい回しにされるなど、人生のスタートから悲惨です。

本稿では、そんな徳川家康(竹千代・松平元信・松平元康時代)の人生のスタートであった、人質時代について、そこに至る経緯から人質を脱して独立するに至るまでを紹介したいと思います。 “【徳川家康の人質時代】人質竹千代が清洲同盟を後ろ盾にして独立するまで” の続きを読む

【長州藩の4つの支藩】長州藩と仲が悪かった長府藩・徳山藩・清末藩・岩国領

毛利元就によって巨大化したものの、関ヶ原の戦いの責によって長門国・周防国に押し込められて立藩したのが毛利宗家が藩主を務める長州藩です。

明治維新の立役者となった藩として有名ですが、この長州藩には、3つ?4つ?の支藩(長府藩、清末藩、徳山藩、岩国領)があります。

本稿では、長州藩の支藩の概略について、立藩の経緯から順に見ていきたいと思います。 “【長州藩の4つの支藩】長州藩と仲が悪かった長府藩・徳山藩・清末藩・岩国領” の続きを読む

【大溝城と大溝陣屋】近江国高島に築かれた戦国水城と江戸陣屋

大溝城(おおみぞじょう)は、近江国高島郡大溝(現在の滋賀県高島市)にあった戦国時代の平城・水城であり、同じく琵琶湖湖畔に築城された安土城・坂本城・長浜城と共に、織田家の琵琶湖水運掌握の拠点となった城です。高島城・鴻溝城(こうこうじょう)・鴻湖城(こうこじょう)などとも称されました。

その立地の重要性から織田信長の甥・津田信澄(織田信長の弟である織田信行の子)が入ったのですが、本能寺の変後に謀反を疑われて誅殺され城主を失い、その後、次々と城主が代わった後、江戸時代を迎える前に破却されるという短命に終わった悲運の城でもあります。 “【大溝城と大溝陣屋】近江国高島に築かれた戦国水城と江戸陣屋” の続きを読む

【多治比猿掛城(多治比城)】毛利元就が幼少期を過ごした城

多治比猿掛城(たじひさるがけじょう)は、毛利家の本城であった吉田郡山城の支城として同城の北西部の防衛を担っていた山城です。

戦国大名・毛利元就が幼少期を過ごした城として有名です。

現在は、「毛利氏城跡 多治比猿掛城跡 郡山城跡」として、吉田郡山城と共に国の史跡に指定されています。 “【多治比猿掛城(多治比城)】毛利元就が幼少期を過ごした城” の続きを読む

【吉田郡山城(日本100名城72番)】中国地方の覇王・毛利家の居城

吉田郡山城(よしだこおりやまじょう)は、中国地方11カ国を統治するに至った戦国大名毛利家の居城であった城です。

安芸国の国人領主に過ぎなかった毛利家の第12代当主・毛利元就によって、安芸国吉田荘(広島県安芸高田市吉田町吉田)にあった砦規模の小さな城が郡山全体を取り込んだ巨大近世城郭に造り変えられた城でもあります。

本稿では、大内・尼子という二大勢力に挟まれながら、これらを撃破して中国地方の覇者となった毛利家と共に発展した吉田郡山城について、その歴史的沿革や縄張り等について解説していきたいと思います。

なお、吉田郡山城跡は「毛利氏城跡 多治比猿掛城跡 郡山城跡」として多治比猿掛城と共に国の史跡に指定されています。 “【吉田郡山城(日本100名城72番)】中国地方の覇王・毛利家の居城” の続きを読む

【郡山合戦(吉田郡山城の戦い)】毛利元就が大内軍と共に尼子軍を撃破した戦い

郡山合戦は、天文9年(1540年)から天文10年(1541年)にかけて安芸国の毛利家の居城であった吉田郡山城付近において勃発した、尼子対大内という二大勢力の覇権を巡る一連の戦いです。

大内家方で主に戦ったのが毛利元就であり、合戦が毛利元就の居城であった吉田郡山城の近くで行われたため、この名が付けられました。なお、尼子軍が吉田郡山城を攻めた事実はありませんので、厳密には吉田郡山「城」の戦いと表記するのは誤りなのですが、一般に吉田郡山城の戦いと呼ばれることが多いので、本稿の表題にもカッコ書で吉田郡山城の戦いと付記しておきました。

この戦いによって、毛利元就の軍略によって尼子家の勢力が安芸国から一掃されることとなり、勢力拡張を続けていた尼子家に待っがかかるというターニングポイントとなった重要な一戦となりました。 “【郡山合戦(吉田郡山城の戦い)】毛利元就が大内軍と共に尼子軍を撃破した戦い” の続きを読む

【中川清秀】茨木城12万石の戦国武将

中川清秀(なかがわきよひで)は、摂津国の小豪族からその武勇によって中川家を12万石の大名に押し上げた戦国武将です。

勇猛で知られた中川清秀は、鬼瀬兵衛と呼ばれて恐れられ、織田信長や羽柴秀吉からも重宝されています。

池田勝正・荒木村重・織田信長・羽柴秀吉など、次々と主君を変えながらその腕で立身出世を果たし、また本能寺の変の直後には明智光秀の誘いを断って羽柴秀吉に与するなど、機を見る目も秀逸です。

そんな猛将・中川清秀も、賤ヶ岳の戦いにおいて、さらなる猛将・佐久間盛政の手に掛かって討ち死にするという最期を迎えています。

本稿では、そんな波乱万丈の人生を生きた中川清秀の人生を振り返っていきたいと思います。 “【中川清秀】茨木城12万石の戦国武将” の続きを読む

羽柴秀吉は本能寺の変をいつ・どうやって知ったのか

日本全国統一戦を進めていた織田信長が明智光秀の謀反によって横死した本能寺の変は、その後の中国大返しと山崎の戦いの勝利によって羽柴秀吉が天下人の階段を駆け上がっていくきっかけとなった歴史を変える一大事件でした。

もっとも、本能寺の変が起こった際、羽柴秀吉は毛利家の城であった備中高松城の水攻めを行っている最中であり、本能寺の変の詳細を知るべき状況下にはなかったはずです。

このような状況下において運命を手繰り寄せた羽柴秀吉は、どのようにして本能寺の変発生の事実を正確に獲得したのでしょうか。

本稿では、羽柴秀吉が本能寺の変発生を知るに至った経緯について説明していきたいと思います。 “羽柴秀吉は本能寺の変をいつ・どうやって知ったのか” の続きを読む