【日明貿易】朝貢貿易を受け入れた室町時代の日中貿易

日明貿易(にちみんぼうえき)は、室町時代に日本と当時の中国王朝であった明との間で行われた公的貿易です。

遣隋使・遣唐使の時代から中国王朝との対等貿易を指向していた努力をひっくり返し、経済的利益のみに目をくらませて朝貢・冊封を受け入れた、次代に逆行する屈辱的貿易でもありました。

遣明船の上陸場所が中国の「寧波」に限定された上、そこで外交使節に明の皇帝から発給された倭寇と区別するための通行証(貿易許可証ではなくあくまでパスポートに過ぎませんでした)である勘合の査証が行われ、これをパスした者のみが同港への通行が許されることとなったという貿易携帯から勘合貿易とも言われています。

日明貿易の日本側の担当者は、その時々の日本側の政治情勢により変化し、当初は懐良親王であったのですが、その後は足利義満→足利義教→有力守護大名及び商人→大内氏と変遷し、最終的に日明貿易を独占して巨万の利権を得ることとなった大内氏が下剋上によって滅亡したことにより、担当者を失った日明貿易もまた終了するに至っています。

日明貿易に至るまでの日本と中国との貿易

貿易相手となる明について

日明貿易は、その名前のとおり、日本と明との間で行われた貿易です。

明は、1368年に元を北方に追い払った朱元璋(太祖洪武帝)の下で成立し、その後1644年まで中国に君臨した大帝国でした。

中国への朝貢貿易概略

明に限った話ではないのですが、歴代の中国王朝は、中国だけを国として認めてその長を皇帝といい、その他の地域は周辺地域としか認めておらず(原則として中国以外の国との対等な関係を認めておらず)、中国が強い権力を持つ大陸との貿易を行うためには、中国皇帝を全世界の支配者とし、皇帝に貢物を送って周辺地域の長として認めてもらって初めて中国との関係を築くことができたのです(中華思想)。

すなわち、中国は、皇帝が治める中国だけを国として認め、その他の地域は周辺地域としか認めず、それらの地域の長のうち皇帝が認めた者を「国王」とすることにより始めて国境を開くという扱いをしていました。

この考え方は、中国との国交を望む側からすると屈辱的外交です。

中国との国交は、「日本国王」になって=中華に従属する日本国の長になって=宗主国である中国皇帝の臣下にならないと国交が開かれなかったからです。

もっとも、経済面だけを見ると、冊封を受ける国にも大きなメリットがありました。

それは、中国では、貿易を対等取引ではなく皇帝と臣下諸王の朝貢と下賜と捉えていたことから、明の豊かさと皇帝の気前のよさを示すために明からの輸入品は輸出品を大きく超過する価値があるのが通例でしたので(非課税・10倍返し)、朝貢国にとっても極めて利の多い貿易となったからです。

中国との対等貿易の試行(遣隋使・遣唐使)

倭国と呼ばれていたころの古代日本では、ときの中国王朝に対して朝貢し冊封を受けるという朝貢貿易を行ってきました。

この朝貢貿易は、古くは1世紀頃には既に行われており(漢書・地理志)、また遅くとも5世紀末頃まで続けられてきました。

もっとも、その後、ヤマト政権側においてこの朝貢・冊封による従属関係を解消するための努力が続けられ、混乱する東アジア情勢下をうまく立ち回ったことにより、冊封を受けない対等外交として遣隋使・遣唐使が派遣されるに至りました(少なくともヤマト政権側ではそう考えていました。)。

その後、9世紀中頃になってくると、唐からの海商が渡航してくるようになったため、わざわざ遣唐使を派遣しなくても中国文物が入手できるようになり、遣唐使の重要性が低下していきます。

その結果、承和5年(838年)に藤原常嗣を代表とする第19回遣唐使の派遣がされたのを最後として、遣唐使の派遣がなされなくなり、日本と中国王朝との国家レベルでの国交が途絶えます。

私貿易の発展

(1)日宋貿易:私貿易

遣唐使の終了によって中国王朝との国家レベルでの国交がらなくなったのですが、その後も私人レベルでの外交や貿易が続けられます。

具体的には、 藤原氏と、 呉越やその後の 北宋との私貿易がその例として挙げられます。

また、南宋が成立すると、平家が日本側の貿易を一手に担い巨万の利を得ています。

これらの私貿易は、高麗をも含めた三国間で行われており、日本側では越前国敦賀や筑前国博多が拠点となっていました。博多には鎌倉時代に多くの宋人が住み、国際都市となりました。

(2)日元貿易:私貿易

その後、鎌倉時代に入ってユーラシア大陸を席巻した元は、日本商船の来航と貿易を容認する政策を採ったため、元と日本の間で民間レベルでの経済的・文化的交流が盛んに行われるようになります。

元寇により、元寇による元と日本との間に国家間対立が起こったため、私貿易もまた一時中断するに至ったのですが、しばらくすると国家間の政治的対立を無視して私貿易は復活します。

そして、13世紀終わり頃になると、日本の朝廷や鎌倉幕府の許可の下に勧進活動を名目とした寺社造営料唐船(北条高時による建長寺船・足利尊氏による天龍寺船など)が派遣されるなど、準公式な貿易関係も成立するようになりました。

前期倭寇誕生

他方、元寇後、元政府としては日本商船の来航と貿易を事実上容認していたものの、元官吏の中には日本に対する敵対意識を持って日本商船に高い関税をかけたり乗員に不当な圧迫をかけたりする者が散見されました。

そのため、日本側の商人が武装してこれに抵抗するようになり、倭寇(前期倭寇)の発生に繋がっていきました。

そして、武装化した倭寇は、次第に商船や日本海・東シナ海の沿岸地域を襲撃するようになり、これらの地域の安全を脅かすようになっていきました。

日明貿易

懐良親王の日明貿易

前記のとおり、中国に正平24年/応安2年(1368年)に元を追い払った明が建国され、明との交易が始まるのですが(日明貿易)は、この貿易は、明と九州に一大勢力を築いた後醍醐天皇の皇子(八宮)である懐良親王との間で始まります。

日明貿易の始まりは、明王朝成立の翌年に、明から日本に対して倭寇討伐の要請をするために使者が大宰府に派遣されたことなのですが、この使者を迎えたのがときの九州で一大勢力を誇っていた南朝方の征西将軍宮懐良親王(後醍醐天皇の皇子)でした。

懐良親王は、当初、民からの使者を無礼であると判断して明の要請を拒絶したのですが、東征に失敗して九州征西府の威信を大きく傷つけたことにより九州諸勢力に対する求心力が損なわれていくことに危機感を感じた懐良親王は、中国王朝(明)の権威を借りると共に、貿易による経済力強化によって再起を図ることとします。

この点、前記のとおり、中国王朝との貿易は周辺国が中国に朝貢して皇帝から「王」の称号を与えられるという冊封を経なければ始まりませんので、懐良親王はこれを行うことで利を得ようとしたのです。

そこで、懐良親王は、失われていく力を維持するため、明への朝貢外交を受け入れ、貿易による経済力を手にする道を選びます。

この結果、明は、懐良親王を「良懐」の名で「日本国王」に冊封したのでした。

これは、卑弥呼の時代に魏に使者を送って親魏倭王の名称を貰い受けるなどしていた日本が、国力を付けたことで中国に従属しないことを明らかにするために長の名称を「王」から「天皇」に変更してまでその独立を守ってきた経緯を台無しにする行為でもありました。

こうして中国との貿易によって経済力を得て威信の回復を図った懐良親王でしたが、一度失われた求心力を取り戻すことは困難であり、結局は、北朝方の九州探題・今川貞世(了俊)との戦いに敗れて九州征西府の崩壊が始まり、最終的には文中2年/応安6年(1373年)11月16日に菊池武光が死去したことにより九州征西府もまた事実上消滅します。

この結果、懐良親王により行われていた日明貿易もまた一旦中止することとなりました(そもそも、実際懐良親王が日明貿易を行ったのかについては必ずしも明らかではありません)。

室町幕府の日明貿易

(1)足利義満による日明貿易:幕府単独船団

懐良親王の失脚により中断することとなった日明貿易ですが、博多商人であった肥富から話を聞いた室町幕府第3代将軍足利義満が、そこから生み出される利益に目をつけます。

そこで、日本国内で南北朝を統一した足利義満が、明に対して正式な通交を求めます。

もっとも、前記のとおり、明側では既に懐良天皇を日本国王に任じていたため、それ以外を日本の代表として認めることはできないとして足利義満からの国交要請には応じませんでした。

明のこの対応に、事実上日本のトップに君臨する足利義満は到底納得できません。

冊封制度の内容の理解がなかった足利義満は、征夷大将軍・太政大臣の名で何度も遣使を派遣して明に対して貿易開始の申し出をしますが、明側は南朝の懐良親王を日本国王として日本における唯一の正規な通交相手として認めているとして足利義満の申し出を拒絶し続けます。

その後、冊封制度の理解を深めた足利義満は、応永8年(1401年)に、「日本国王臣源」の名義で博多の商人肥富と僧祖阿を使節として明に派遣して通交(朝貢貿易)の申し出をします。

足利義満からの使者が日本国王(中華に従属する属国の代表者の名称)を名乗っていたこと、懐良親王の没落を聞いていたことなどから、明は足利義満を次代の日本国王と認め、翌年に明の大統暦を日本国王である「日本国准三后源道義」とすることを記した国書を出すことより、とうとう日本(室町幕府)と明との国交が正式に樹立されました。

そして、応永11年(1404年)、日本国王・足利義満が明皇帝に朝貢する形式をとって足利義満の日明貿易が始まります。

そして、足利義満時代は、室町幕府将軍の力が強かったため、幕府のみの遣明船団で派遣されていました

なお、足利義満が明の皇帝からから王として冊封されたことは日本の天皇家に対する反逆行為であるはずなのですが、日本国内で確固たる力を有していた足利義満に対して正面立って意を唱える者はいませんでした。

① 応永11年(1404年)

以上の結果、応永11年(1404年)、明室梵亮を代表とする室町幕府としての初めての日明貿易が始まります。

このとき以降の日明貿易では、貿易船が入れる場所が「寧波」に限定された上、そこで外交使節に明の皇帝から発給された倭寇と区別するための通行証(貿易許可証ではなくあくまでパスポートに過ぎませんでした)である勘合の査証が行われ、これをパスした者のみが同港への通行が許されることとなりました。

なお、勘合は、明から発給された贋作を防ぐためのシリアルナンバーが入った縦80cmほどの公文書となる紙であり(皇帝の代替わり毎に100枚発給されたとされていますが現存していません)、明が持つ勘合底簿の上に料紙をずらして重ね、両紙にまたがるように割印もしくは墨書したものであり、明→日本の使行の際の「日字勘合」と、日本→明の使行の際の「本字勘合」の2種類が存在しました。

遣明船には、室町幕府の使節のみならず堺や博多の有力商人が同乗しており、寧波で通行を許可された後は、北京に向かって公貿易によって商品の買い上げを受けるのみならず、明政府の許可を得た商人との間で私貿易が行われました(なお、私貿易を行った場合には、持ち帰った輸入品の国内相場相当額の1割程度の抽分銭が納付されました)。

日本からの輸出品は、硫黄や銅などの鉱物・扇子・刀剣・漆器・屏風などであり、輸入品は、明銭(永楽通宝)・生糸・織物・書物などでした。

この日明貿易の発展により倭寇(前期倭寇)が一時的に衰退するというメリットももたらしました。

② 応永12年(1405年)

応永12年(1405年)の遣明船は、源通賢を代表としていました。

③ 応永14年(1407年)

④ 応永15年(1408年)

⑤ 応永15年(1408年)

(2)足利義持による日明貿易中断:幕府単独船団

⑥ 応永17年(1410年)

足利義満により始められた室町幕府の外交姿勢は日本国内でも問題となっており、応永15年(1408年)に足利義満が死亡すると、室町幕府4代将軍足利義持や前管領の斯波義将らの協議により、応永17年(1410年)の遣使を最後に日明貿易が一時停止されることとなります。

日明貿易停止の理由としては、日本の事実上の頂点にいる室町幕府将軍が明の臣下とされることへの反発があったのですが、その他にも、足利義持が父である足利義満と不仲であったために足利義満の死後に足利義満が行っていた施策を次々と撤回させていったことの一環でもありました。

そして、日明間の朝貢貿易に代わって、朝鮮・琉球との貿易により経済的メリットを得ようとする試みがなされます。

(3)足利義教による日明貿易再開:幕府+α混成船団

もっとも、その後に室町幕府6代将軍となった足利義教が、冊封による屈辱よりも貿易による利を得る方が得策であると考えて日明貿易を復活させる判断をします。

そこで、永享4年(1432年)に日明貿易が再開されることとなりました。

もっとも、この頃には室町幕府の力も低下して幕府単独で船団組む余裕がなくなっていたため、足利義教時代の遣明船は、幕府船のみならず、貿易による利益を求める大名船・寺社船参加していくようになり、混成船団が編成されていきました。

なお、永享6年(1434年)頃に明から日本の遣明船に対して貿易条件を制限する永享条約(宣徳要約)が通告されたとする説がありますが、その後の貿易内容との齟齬が大きいことから条件締結消極説が有力となっているため、本稿では紹介のみに留めます。

⑦ 永享5年(1433年)

永享5年(1433年) の遣明船は、幕府船・相国寺船・山名船・大名寺社十三家船・三十三間堂船の計5隻で派遣されました。

⑧ 永享7年(1435年)

永享7年(1435年) の遣明船は、幕府船・相国寺船・大乗院船・山名船・三十三間堂船を含めた計6隻で派遣されました。

⑨ 享徳2年(1453年) 9隻

享徳2年(1453年)の遣明船は、天龍寺船・伊勢法楽舎船・九州探題船・大友船・大内船・大和多武峯船を含めた船数9隻であり、人員1200人という大規模なものでした。

これに対し、明側は、遣明使節を朝貢使節として迎え入れましたので、恩典として許される公貿易のレートが民間貿易のレートよりはるかに高いものである上、寧波上陸後の滞在費の全てを明側が負担したため、このような大規模の遣明船団は明側にとって大きな負担となりました。

そこで、遣明船団の膨張を抑制するため、明では翌年に制限規制として景泰約条を策定し、①遣明船の入貢は10年に1回、②人員は300人(1隻あたり100人)、③船数は3隻と定めるようになりました。

⑩ 応仁2年(1468年)

応仁2年(1468年)の遣明船は、景泰約条に従って幕府船・細川船・大内船の計3隻で派遣されました。

⑪ 文明9年(1477年)

文明9年(1477年)の遣明船は、幕府船と相国寺勝鬘院船で派遣されました。

⑫ 文明16年(1484年)

文明16年(1484年)の遣明船は、幕府船と内裏船で派遣されました。

内裏船については、大内政弘や甘露寺親長の仲介で準備され、その収益の一部が朝廷に献上されています。

⑬ 明応4年(1495年)

明応4年(1495年)の遣明船は、幕府船と細川船で派遣されました。

大内氏と細川氏による日明貿易

前記のとおり、日明貿易は朝貢貿易であることから、明から日本国王とする冊封を受けることによりこれに参加できる貿易でした。

そのため、本来であれば、日本国王とされるに至った室町幕府の将軍しか参加資格がないはずです。

ところが、16世紀頃になると、日明貿易の日本側の担い手から室町幕府が外れ、博多商人と結んだ中国地方の大大名大内氏と、堺商人と結んだ畿内の管領細川氏に取って代わられます。

問題は、なぜ日本国王でもない大内氏と細川氏が、幕府船なしに明に対して遣明船を派遣することができたかということですが、そのからくりは簡単です。

財政難に直面した室町幕府が、明から発給された勘合を大内氏・細川氏に売り渡したからです。

日明貿易は、朝貢品を整えた上で朝貢をすれば現在の金額に換算して200億円とも言われる莫大な利益が約束された極めて利の大きな貿易だったのですが、16世紀頃の室町幕府には朝貢品はおろか朝貢船すら準備する力がありませんでした。

そこで、室町幕府では、日本国王に対して発給された勘合を利用した日明貿易ではなく、明から発給された勘合を大内氏や細川氏に売却することにより金銭を得ようとしたのです。

⑭ 永正6年(1509年)

永正6年(1509年)の遣明船は、宋素卿を代表とする細川船が派遣されました。

金銭的に苦しくなっていた室町幕府は、まずは明の第10代皇帝から発給されていた弘治勘合を細川氏に売却したため、まず最初に単独で遣明船を派遣した守護大名が細川氏だったのです。

⑮ 永正9年(1512年)

永正9年(1512年)の遣明船は、細川船と大内船で派遣されました。

その後、室町幕府は、永正13年(1516年)、追放されていた前将軍・足利義稙を奉じて上洛した論功として大内義興に正徳勘合(明の第11代皇帝から発給されていた勘合)を大内氏に売却し、大内氏に遣明船派遣の管掌権を永久的に保証します。

この結果、日明貿易の主要港が博多に定まり、一旦は大内氏がその利権を独占することとなります。

ところが、京に滞在していた大内義興が、永正16年(1519年)に領国でるある山口に戻ったことにより、管領細川高国が大内氏と対立する姿勢を見せ、日明貿易に再び参加する旨の判断を下します。

なお、本来であれば大内氏に売却された正徳勘合(第11代明皇帝発給)のみが有効なものであり、孝宗弘治帝死去により細川氏に売却された弘治勘合(第10代明皇帝発給)は無効となっているはずなのですが、利権を失いたくない細川氏は実力行使に出たのです。

そして、この後、日明貿易の窓口となっていた寧波で、日明貿易の利権を巡って大内氏と細川氏との間で一大事件が起こります。

大内氏による日明貿易

(1)寧波の乱

⑯⑰ 大永3年(1523年)

前記のとおり、日明貿易の利権を巡って対立する大内氏と細川氏は、大永3年(1523年)、謙道宗設を代表とする大内船と、鸞岡瑞佐を代表とする細川船とを別々に派遣します。

そして、同年4月、まずは、正徳勘合3枚を携えた大内船3隻(約300人)が寧波に入港します。

そして、その数日後、既に無効となっている弘治勘合1枚を携えた大内船1隻が寧波に入港します。

この条件下では、大内船に正当性はありませんので、明は大内船を入港させて細川船を追い返すべきなのですが、細川船から賄賂を受け取った市舶司大監・頼恩が、大内船よりも先に細川船の入港検査を始めます。

これを見た大内方は激怒し、細川船を襲撃して焼き払った上、明の役人をも殺害するという事件を起こします(寧波の乱)。

(2)大内氏による日明貿易独占

この事件は、明と日本との間の国際問題に発展し、以降、室町幕府はその対応に追われることとなるのですが、当の大内家は、明に対して個別に釈明対応を行うと共に、室町幕府からも独占的地位の確認を受け、対立していた細川氏の脱落もあいまって日明貿易の独占利権を維持します。

その結果、以後、日明貿易は大内氏の独占下で運営されるようになりました。

そして、大内氏による日明貿易は、天文5年(1536年)に再開されることとなります。

⑱ 天文9年(1540年)

天文9年(1540年)の遣明船は、湖心硯鼎を代表とする大内船です。

⑲ 天文18年(1549年)

天文18年(1549年)の遣明船は、策彦周良を代表とする大内船です。

日明貿易の終了(1551年)

日明貿易による貿易利権を独占するに至って巨万の利益を得ることに成功した大内氏でしたが、天文20年(1551年)、大内氏当主であった大内義隆が家臣であった陶晴賢の謀反により討ち取られる事件が勃発します(大寧寺の変)。

主君を討ち取った陶晴賢は、大友義鎮の弟であった大内義長を形だけの大内家の当主に据えて大内家の実権を握り、大内義長の名で弘治2年(1556年)とその翌年に明に対して貿易再開を求める使者を派遣します(明実録)。

もっとも、明側では、不義により家を奪った者であるとして大内義長との貿易を拒否します。

その後、安芸の戦国大名である毛利元就の侵攻により、弘治3年(1557年)に大内氏が滅亡したため(防長経略)に日明貿易再開の見込みが絶たれ、日明貿易は終了してしまいます。

朱印船貿易へ

日明貿易の終了により、寧波に近い双嶼や舟山諸島などの沿岸部における私貿易・密貿易が活発化していきます。

この結果、倭寇(後期倭寇)の活動が盛んとなり、問題化していくこととなります。

もっとも、明の海禁政策の緩和もあって、民間貿易による取引量が日明貿易時代を上回る活況となり、16世紀末頃には海外交易の統制の必要性から朱印船による朱印船貿易が行われるようになっていきました。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA