戦国時代で最も有名な事件といえば「本能寺の変」です。
天下統一を目前にした織田信長が、天正10年(1582年)6月2日、家臣である明智光秀の謀反により横死したという事件であり、教科書はもちろん映画・小説・ドラマなどでも何度も紹介される日本人なら誰でも知っている大事件です。
明智光秀の謀反理由は不明であり、現在まで明らかとなっていないことから様々な説が唱えられています。
他方、あまり話題になっていないことがあります。
それは、数ある京の寺院の中で、発生場所がなぜ「本能寺」だったのかということです。
当時の本願寺は不便な下層エリアに位置しており、一応の防衛構造を持ってはいたものの織田信長が寝所にするには不安がある場所だったこともあり、実は織田信長が本能寺にいたのは偶然だったのです。
以下、本能寺の変の際に織田信長が本能寺にいた理由について簡単に説明します。
【目次(タップ可)】
本能寺の変発生までの本能寺の歴史
第1本能寺〜第3本能寺
本能寺は、応永22年(1415年)、法華宗(日蓮宗)の僧であった日隆により、「本應寺」という寺号にて京都油小路高辻・五条坊門の間に創建された寺です。
もっとも、日隆は、法華経の解釈をめぐって妙本寺5世・月明と対立し、応永25年(1418年)、月明により本應寺が破却されたことから、日隆は河内三井(本厳寺)・尼崎(本興寺)へ移ります。
永享元年(1429年)に帰京した日隆は、小袖屋宗句(山本宗句)の援助を受け、千本極楽付近の内野(大内裏跡)に本應寺を再建します。
その後、永享5年(1433年)、檀那であった如意王丸から六角大宮の西、四条坊門の北に土地の寄進を受けて同地に寺地を移して寺号を「本能寺」と改め、以降、法華宗の信仰が浸透に伴い、「題目の巷」と呼ばれて繁栄します。
他方、新興勢力である法華宗は他宗派と衝突することが多く、特に同じ法華経を重要視する天台宗(比叡山延暦寺)との対立が深い状況でした。
そんな中、天文5年(1536年)、本能寺は、延暦寺の僧兵により焼き討ちされてその堂宇はことごとく焼失し(天文法華の乱)、また京市中での布教が禁じられた結果、一山まるごと堺の顕本寺に避難することとなりました。
本能寺帰京
その後、天文11年(1542年)に勅許によって法華宗の禁教令が解かれた後、本能寺8世となった日承上人(伏見宮第5代邦高親王の子)により帰京が果たされることとなったのですが、京に戻ることが何とか許されたという状況下でしたので、京の中心部に戻ることはできませんでした。
そのため、本能寺が戻ることを許されたのは、当時の京の構であった上京・下京の外側である西洞院大路・油小路、六角小路・四条坊門小路に囲まれた約120m四方(4町々)となりました。
なお、同地は宣教師であったルイス・フロイスからも町外れの下層民が住むエリアに位置するとされたと評されるなど、この当時の本能寺は、必ずしも貴人が滞在するに適した場所ではありませんでした。
第4本能寺再興
僻地に再興されることとなった第4本能寺でしたが、本能寺は、このときまでに末寺が畿内・北陸・瀬戸内沿岸諸国・種子島まで広布するなど、本能寺を頂点とする本門流教団が成立していたため、これらの協力を得て同地に伽藍が造立され、また30余院もの子院を擁するまでに復興していきます。
織田信長と本能寺の結びつき
織田信長が本能寺に目をつける
以上の経過を経て再興された本能寺でしたが、永禄11年(1568年)に足利義昭を奉じて上洛を果たした織田信長が、同寺に着目します。
その主たる理由は、鉄砲と硝石(煙硝)です。
天文12年(1543年)8月25日に伝来した鉄砲(鉄炮記)を重要視した織田信長は、鉄砲戦では装備数とそれを運用する弾薬・火薬数により戦力が変わることを理解し、これらを揃えるために本能寺(第4本能寺)が有用であると判断したのです。
なぜなら、本願寺は、法華宗本門流の大本山なのですが、鉄砲伝来地である種子島にある慈遠寺がこの本能寺の末寺であったため、法華宗本門流のネットワークを通じて早くから本能寺に最新式の鉄砲が集まっていたからです(本能寺の規則である「当門流尽未来際法度」により全国の末寺の住職が本山である本能寺への参詣を義務付けていました。)。
また、本能寺は、天文法華の乱の際に京を追放された際に法華宗勢力が頼った堺商人との結びつきが強く、堺の生産力・貿易力も有用と判断されたからです。
織田信長が堺を直轄化
本能寺とのパイプを得た織田信長は、永禄12年(1569年)、堺に2万貫もの矢銭と服属を要求してこれを呑ませ、堺を構成する堺北荘・堺南荘にあった幕府御料所の代官を務めてきた堺商人・今井宗久の代官職を安堵して自らの傘下に取り込むことで堺の支配を開始した上、元亀元年(1570年)4月頃からは松井友閑を堺政所として派遣して堺の直轄地化を進めます。
織田信長が堺を直轄化したのは、堺が当時の一大鉄砲生産地であったため、これを取り込むことによって大量の鉄砲を確保できたことが理由の1つです。
また、法華宗のネットワークを利用して鉄砲の原材料や火薬の調達を行う堺商人を取り込んでしまうことも理由の1つでした。
天文12年(1543年)8月25日に伝来し(鉄炮記)、戦国時代に合戦のやり方から、城の構造までを一変させた新兵器である鉄砲は、本体と弾丸だけで運用することは不可能であり、弾を飛ばすために黒色火薬(硝石=硝酸カリウム・硫黄・木炭の混合物)が絶対的に必要となります。
このうち、硫黄と木炭は日本国内で調達可能なのですが、硝石だけは、世界各地で算出されるありふれた無色透明の鉱石であるにもかかわらず、なぜか火山国である日本では算出しませんでした。
そこで、合戦において鉄砲を戦略的に運用するためには、大量の硝石を確保する必要があり、しかも貿易によりそれを調達しなければなりませんでした。
この結果、織田信長は、鉄砲の戦略的運用を行うために(鉄砲及び硝石確保目的で)、堺商人=法華宗のネットワークを手にした結果、法華宗寺院と切っても切れない深い結びつきを持つこととなったのです。
変の発生時に織田信長が本能寺にいた理由
織田信長の京滞在時の通常の寝所=妙覚寺
では、本稿の本題である本能寺の変の際に織田信長が本能寺にいた理由について検討します。
前記のとおり、法華宗と深い繋がりができた織田信長は、京滞在の際には法華宗寺院を寝所とすることとしていました。
実際、永禄11年(1568年)に上洛を果たした織田信長は、天正10年(1582年)死亡するまでの14年の間に20数回もの京滞在を行なっているのですが、自ら京に屋敷を持ってその屋敷に居住したのはほんのわずかであり、合計20数回の織田信長の京滞在のうち18回は寝所は法華宗寺院である妙覚寺(天文法華の乱の際に本能寺と共に堺に逃れ、また本能寺と同じタイミングで京に戻ってきた日蓮宗寺院)を選んでいます。
なぜ寝所が大本山の本能寺ではないのかと疑問に思われるかもしれませんが、法華宗寺院に滞在するとしても、立地が悪い本能寺ではなく、当時二条衣棚(現在の京都市中京区)にあった妙覚寺の方が立地も規模も防衛力も優れていたからです。
そのため、実は、織田信長が京滞在の際に本能寺をあまり利用しておらず、利用回数は僅か3回しかありません。
織田信長がなぜ本能寺にいたのか
では、なぜ本能寺の変が起こった際には、織田信長は妙覚寺ではなく本能寺にいたのでしょうか。
その理由は、明らかです。
このとき織田信長が本願寺にいた理由は、織田信長と共に備中高松城水攻めを行う羽柴秀吉への援軍を向かうべく軍を率いて在京していた織田信忠が、京滞在時に使用する織田家と関係の深い法華宗寺院のうちの最も使い勝手のよい妙覚寺を使っていたからです。
織田信忠に妙覚寺を譲ったことから、織田信長が僅かな供回りを連れて法華宗寺院の中で次点候補であった本能寺に入ったというのが本能寺の変の際に織田信長が本能寺にいた理由です。