南都焼討(なんとやきうち)は、以仁王に加担して平家に敵対した興福寺等の自社勢力に対する報復と、反抗的な態度を取り続けるこれらの寺社勢力に属する大衆(だいしゅ)の討伐を目的として、治承4年12月28日(1181年1月15日)に平清盛の命を受けた平重衡らが、南都寺院(東大寺・興福寺など)を焼き尽くした事件です。
現在まで語り継がれる平家の悪行として有名な南都焼討について、その発生に至る経緯から見ていきたいと思います。
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南都焼討に至る経緯
福原京遷都
治承4年(1180年)4月9日、後白河法皇の子である以仁王が、源行家に以仁王の令旨を預けて全国に散らばる源氏勢力に協力を求めるとともに、自らも平家方の武将であった源頼政・下河辺行義・足利義清・源仲家・興福寺・園城寺などと共に、反平家の挙兵をします。
もっとも、この計画はすぐに発覚し、以仁王もまた逃亡中に、平家の追っ手により討ち取られます。
こうして反平家の初動を鎮圧したのですが、平清盛は、巨大寺社勢力である園城寺・興福寺が反平家の立場をとったため、これらの巨大寺社に挟まれた京の地理的不利を払拭するため、京を放棄する決断を下します。
そして、平清盛は、治承4年(1180)年5月30日、突然、同年6月3日に摂津国・福原に行幸を決行するとの決定を下し(玉葉・治承4年5月30日条)、さらに1日早めた同年6月2日に決行します。
なお、以仁王を討ち取った平清盛は、治承4年(1180)年6月、これに直接協力した園城寺には、朝廷法会への参加の禁止、僧綱の罷免、寺領没収などの厳しい処分下す一方で、同じく以仁王に同調した興福寺については、直接の交戦がなかったこと、興福寺別当の玄縁が平家に近い立場をとっていたことなどから、それほど厳しい処分は下されませんでした。
そして、同年7月中旬ころから、なし崩し的に福原を新都とする道路整備・宅地造成などが始まります(福原京遷都)。
ところが、同年8月17日に伊豆国で源頼朝が、また同年9月には信濃国で木曽義仲が挙兵するなど、全国各地で反平家の挙兵が相次いでいるとの報が届いたため、内裏の新造を進める福原にも混乱が走ります。
そのため、諸寺諸社や貴族達だけでなく、平家政権の中枢からも福原から京に還都するべきとの意見が噴出します。
特に、平清盛の子でありその後継者とされた平宗盛までもが、京への還都を主張し、平清盛と口論になる程でした。
平安京還都(1180年11月)
こうなると、さすがの平清盛も、自分1人の意見で福原京遷都を維持できなくなり、結局、平安京への還幸を決定します。
そして、治承4年(1180年)11月11日、天皇による新造内裏に行幸、新嘗祭におこなわれる五節舞の挙行を最後にとして(新嘗祭自体は京都で行なわれた)、同年11月23日から平安京還都が始まります。
園城寺焼討(1180年12月11日)
もっとも、平清盛としては、京に戻る前提として、京に近い園城寺に対する対策が必要でした。
そこで、平清盛は、治承4年(1180年)12月11日、平重盛に命じ、園城寺が以仁王に加担した罪として、園城寺に攻め込み、金堂以下の堂塔のほとんどを焼き討ってしまいます。
懸念の1つである園城寺の脅威を取り除いた平清盛は、もう1つの脅威である興福寺の脅威の排除に取り掛かります。
南都焼討
興福寺討伐軍出陣(1180年12月15日)
前記のとおり、以仁王に同調して平家と直接交戦した園城寺とは違い、興福寺は、以仁王への同調の気配を見せたものの直接の交戦までは行われなかったため、平清盛としても、いきなり興福寺に対して臨戦態勢をとることまではしませんでした。
平清盛は、興福寺と話し合いをするため、妹尾兼康に500人の軽装備の兵を預けて、興福寺との協議に向かわせます(平家物語・巻第五)。
ところが、興福寺側は、話し合いに来た妹尾兼康らに襲い掛かり、その部下60人余人を捕えて斬首し、猿沢池の端に並べるという暴挙に出ます。
突然興福寺僧兵に襲われた妹尾兼康は、命からがら逃げだし、京に戻って平清盛に事態を報告します。
この報告を聞いた平清盛は激怒し、4万人(平家物語)とも数千人(山槐記)ともいわれる大軍を動員し、治承4年(1180年)12月15日、平重衡を総大将、平通盛らを副将として興福寺に向かわせます(なお、妹尾兼康が襲撃された事件は、玉葉や山槐記などの同時期の他の史料には見られないため、真偽は不明です。)。
興福寺軍の防戦準備
平家軍来たるの報を聞いた興福寺は、京から大和国へ入る入り口にあたる般若坂と奈良坂に堀や柵を巡らし、7000人(平家物語)とも6万人(玉葉)とも言われる僧兵を配置してこれを守らせます。
また、大和国内に点在する多くの寺もこれに同調します。
平家軍が般若寺攻略(1180年12月28日)
京を出陣した平家軍は、宇治で天候の回復を待った後、治承4年(1180年)12月27日、木津に入ります。
そして、平家軍は、ここで兵を2手に分け、平重衡隊が木津方面から、平通盛軍は奈良坂方面から侵攻を開始します(河内方面から別働隊も出ています。)。
興福寺は、木津川沿岸・奈良坂・般若坂などに兵を配置して、必死の抵抗を続けたのですが、多勢に無勢ということもあって次第に戦線が崩れていきます。
翌同年12月28日には、平家方の大軍が、木津・奈良坂の防衛線を突破して南都の入り口に到達し、般若坂近辺で、平家軍と興福寺軍との激戦が繰り広げられます。
南都焼討(1180年12月28日夜)
問題が起きたのは、この後です。
治承4年(1180年)12月28日の戦いでは決着がつかなかったため、平家軍は、夕刻になると、奈良坂と般若坂を占拠し、本陣を般若坂沿いの般若寺内に移します。
そして、夜間の灯りを得るために、付近の民家に火を放ったところ、折からの強風に煽られて延焼し、南都一帯に広がる大火災に発展します(平家物語)。
なお、南都焼討は元々の計画であったとの説もありますので、平家が火を放った意図は不明です。
いずれにせよ、平家方から放たれた火により、北は般若寺から南は新薬師寺付近、東は東大寺・興福寺の東端から西は佐保辺りにまで及び、現在の奈良市内の大半部分にあたる地域を焼き尽くす大火事となりました。
特に、興福寺や東大寺の被害は大きく、東大寺では、金堂(大仏殿)・中門・回廊・講堂・東塔・東南院・尊勝院・戒壇院・八幡宮など寺の中枢となる主要建築物の殆どや、多くの仏像・仏具・経典などが失われ、焼け残ったのは中心からやや離れた高台にある鐘楼・法華堂・二月堂や寺域西端の西大門・転害門および正倉院などごく一部という事態に陥ります。
また、興福寺では、主要建築物のほとんどといえる38もの施設(五重塔、二基の三重塔、中金堂・東金堂・西金堂・講堂・北円堂・南円堂・食堂・僧坊や大乗院・一乗院を始めとする子院など)が焼失し、焼け残ったのはわずかに禅定院のみでした。
その他、東大寺・興福寺の西側にあった大和国における藤原氏関連の事務を行う出先機関でもあった佐保殿や率川社なども焼失し、合計3500人もの焼死者を出したと言われています。
南都一帯が焼き尽くされた後、平重衡は、討ち取った30余りの首級を現地で梟首し、翌日の同年12月29日、帰京の途につきます。
南都焼討の後
興福寺・東大寺の処分とその撤回
そして、治承5年(1181年)に入ると、平清盛は、東大寺や興福寺の荘園・所領を悉く没収するとともに別当・僧綱らを更迭するなど、これらの寺院の事実上の廃寺政策を決定し、再び南都に兵を派遣してこれらの施策を実行に移します。
ところが、直後の同年正月14日に親平家政権の高倉上皇が崩御し、続く同年閏2月4日に平清盛が高熱を発して64歳で死去したため(水をかけるとたちまち蒸発するほどの高熱であったといわれています。)、巷では南都焼討の仏罰であると噂されます。
また、この頃になると、各地で反平家勢力の挙兵が頻発したため、南都の処理に関わっていられなくなります。
そこで、平清盛の後を継いだ平宗盛は、同年3月1日、東大寺・興福寺に対して行った処分の全て撤回します。
興福寺・東大寺再建の動き
この結果、興福寺・東大寺の再建の動きが始まり、治承5年(1181年)3月18日、まずは実検使として、興福寺に関白・藤原氏の氏長者(藤氏長者)である藤原基通の家司藤原光雅と勧学院別当藤原兼光が、東大寺に後白河法皇の院司蔵人である藤原行隆が派遣され、南都の被害状況の調査が始まります。
そして、東大寺についてはまずは大仏の修復から進められましたが(文治元年・1185年6月に大仏の修復が完了し、同年8月に開眼供養会が行われています。)、大仏殿の再建は戦乱による諸国の疲弊や用材の伐採予定地の地頭の妨害などによって難航し、特にその他の建築物の再建がなされるまでには半世紀以上もの期間を要しました。
他方、興福寺についても、朝廷・藤原氏(氏長者・藤原氏有志)・興福寺の分担による再建が決定し、同年6月から再建工事が開始され、建暦2年(1212年)頃には復興事業の一段落を見ているのですが(その後も子院や付属的な建築物の再建が続けられています。)、建治3年(1277年)の火災によって再び中金堂や講堂・僧坊などが失われています。
余談1(奈良観光の参考に)
前記のとおり、興福寺・東大寺の主要建築物は、治承4年(1180年)12月に消失していますので、現在の奈良市内中心部にある寺院には、鎌倉時代以前の建築物はほとんど現存していません。
現存するこれらの寺の建築物は、基本的には、治承5年(1181年)から始まった再建の後に建てられたものです。
有名な東大寺南大門なども、この再建の際に建てられています。
観光に行かれる際には参考にしてみてください。
余談2(平重衡のその後)
また、当然の話ですが、南都を焼き尽くした平重衡に対する南都の人々の怒りは凄まじく、一ノ谷の戦いで源氏に捕えられた平重衡が鎌倉に送られた際、南都衆徒は、源頼朝へその身柄を引き渡すように要求します。
南都勢力をあえて敵に回す必要がないと判断した源頼朝は、これに同意し、平重衡の身柄を南都に送り届けることとします。
そして、平重衡は、東大寺に送り届けられた後、元暦2年(1185年)6月23日、木津川畔にて斬首されています。