山木兼隆(やまきかねたか)は、伊豆国に流されていた源頼朝が、平家打倒の兵を挙げた際に武名を挙げるための最初のターゲットとされて討ち取られた人物です。
平家一門であったために元々は平兼隆と名乗っていたのですが、罪を負って伊豆国山木郷に流されたために、後に山木兼隆を名乗っています。
人となりを知る詳しい資料があまり残っていないため、詳しい経緯は謎ですが、武家政権を確立したカリスマの初戦の相手ですので、知っておいて損はない人物でもあります。
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山木兼隆の出自
山木兼隆は、伊勢国鈴鹿郡関を本拠とする桓武平氏大掾氏の庶流であった平信兼の子として産まれます。そのため、元々の名は平兼隆といいます。
もっとも、出生日、出生場所は不明ですので、山木兼隆の出自については、父親以外ほぼ何も分かっていません。
また、その後の元服の経緯などの詳しい内容も分かりません。
山木兼隆の略歴
山木兼隆が伊豆に流される(1179年1月)
山木兼隆は、若い頃、京に出仕して治安維持と民政を所管する検非違使少尉(判官)として、別当・平時忠(平清盛の義弟)の下で活躍していました。
ところが、山木兼隆は、治承3年(1179年)1月、父・平信兼の訴えにより罪を負い(理由は不明)、右衛門尉を解任されて伊豆国山木郷に流されます。
このとき、流されたのが山木郷であったため、以降、「山木兼隆」と名乗るようになりました。
山木兼隆の伊豆目代就任(1180年7月頃)
治承3年(1179年)1月に罪人として伊豆国に流された山木兼隆ですが、元の伊豆国知行国主であった源頼政が以仁王と共に敗死するした後でかつての上司であった平時忠が治承4年(1180年)6月29日に伊豆知行国主、その猶子である平時兼が伊豆守に任命となると、彼らの好意により、伊豆目代(遙任国司が現地に私的に代官として派遣した家人などの代理人)に任命されます。
伊豆目代となり、平家の後ろ盾のを持った山木兼隆は、徐々に伊豆国で勢力を広げていきます。
山木兼隆と北条政子の縁談?
なお、ここで嘘か真かわからないエピソードがありますので、余談として紹介します。
治承4年(1180年)、新たに平時忠が伊豆国の知行国主となったため、源頼政に近かった北条氏は次第に伊豆国内において平氏の勢力に押されていきます。
この状況を打開するため、北条時政は、伊豆国内で急速に勢力を広げる山木兼隆と縁を結ぼうとして、娘の北条政子と山木兼隆との縁談を進めていました。
ところが、北条時政が大番役で京へ上っていた隙に、当の北条政子が源氏の御曹司である源頼朝と恋仲になります。
伊豆国への帰国中に、北条政子と源頼朝との関係を知った北条時政は、平家から裏切り者として処断されることを恐れ、直ちに北条政子を山木兼隆と結婚させようとしたのですが、これを嫌った北条政子が源頼朝と駆け落ちをして伊豆山権現に庇護されてしまったため、北条時政がやむなく北条政子と源頼朝との結婚を認めることとなったという話があります(曽我物語など)。
真偽のほどは分かりませんが、山木兼隆が伊豆に配流になる1年前の治承2年(1178年)7月14日に、源頼朝の長女・大姫が産まれていることからすると、山木兼隆と北条政子に婚姻話があったことは物語上の創作と考えるべきかと思われますが、このときの伊豆国の状況を理解するにはわかりやすいエピソードです。
山木兼隆の最期
源頼朝挙兵(1180年8月17日)
治承4年(1180年)8月17日、伊豆国に流されていた源頼朝が、以仁王の令旨を奉じ、舅の北条時政や土肥実平、佐々木盛綱らと共に対平家の兵を挙げます。
もっとも、挙兵したばかりの源頼朝は寡兵であるため(源平盛衰記によると直参46人に雑色や下人を含め90人であったとされています。)、まずは仲間を募る必要があります、そのためにはまずは手ごろな敵を討ち取り世間に名を轟かす必要がありました。
このときに源頼朝がターゲットにしたのが、伊豆目代である山木兼隆です。
ところが、山木兼隆は平家の後ろ盾を持つ一大勢力です。本来であれば、大きな力を持つ山木兼隆が、それまで隠棲していた源頼朝に負けるはずがありません。
ところが、三島大社の祭礼の日には源頼朝に幸運があります。
なぜなら、三島大社の祭礼の日には山木家の郎党の多くが祭りの準備のために山木兼隆邸から出払うからです。
そこで、源頼朝は、三島大社祭礼の日を決行日と決め、挙兵を前に、工藤茂光・土肥実平・岡崎義実・天野遠景・佐々木盛綱・加藤景廉らを一人ずつ私室に呼び、それぞれと密談を行い個別に協力を依頼し準備を整えます。
山木兼隆死去(1180年8月17日)
源頼朝は、朝駆けでの山木兼隆邸襲撃を計画していたのですが、佐々木兄弟が遅参したためにこの計画が狂います。
結局、源頼朝は朝を待たず、自身は北条氏館に留まって指揮をとり、北条時政を総大将とする攻撃隊でに山木兼隆邸を襲撃することとし、深夜、間道である蛭島通を避け、あえて三島神社の祭礼中のために人でごった返す牛鍬大路を通って山木兼隆邸に向かわせます。
途中、肥田原に達すると、山木兼隆の後見役である堤信遠を討ち取るべく軍勢を分け、佐々木定綱を別動隊として堤信遠邸に向かわせ、これを討ち取ります。なお、このとき佐々木経高が放った矢が、長い源平合戦の嚆矢と言われています。
そして、北条時政らの本隊が、山木兼隆邸の前に到着し、山木兼隆邸に矢を放ち戦いが始まります。
その後、堤信遠を討ち取った佐々木兄弟が加わりましたが、山木兼隆方も激しく防戦し、なかなか攻略できません。
北条氏館から山木兼隆邸の様子を見ていた源頼朝は、山木兼隆邸から火の手が上がらないのを見て攻略が進んでないことを悟って焦り出し、自身の警護のために残していた加藤景廉、佐々木盛綱、堀親家らを山木兼隆邸へ向かわせます。
援軍を得て勢いづいた北条時政率いる攻撃軍は、一気に山木兼隆邸の攻略を進め、遂に同邸から火の手が上がった後、山木兼隆は源頼朝方の加藤景廉に討ち取られます。
討ち取られた山木兼隆の墓は、山木兼隆邸にほど近い香山寺にありますので、興味がある方は是非。