【竹御所】第2代尼将軍と言われた源頼家の長女

竹御所(たけのごしょ)は、第2代鎌倉殿であった源頼家の長女です。

北条家による鎌倉幕府乗っ取り行為により、父・兄弟を次々と殺された悲しい女性です。

親族が失われていったため、祖母の北条政子に育てられ、その器量と血筋から、北条政子亡き後を継いで第2代尼将軍とまで言われた才女でもあります。

源氏の血統を絶やさないようにするために超高齢出産に挑み、最期は力尽きて激動の生涯を終えています。

本稿では、そんな波瀾万丈の人生を送った竹御所の生涯を見ていきたいと思います。

竹御所の出自

出生(1202年)

竹御所は、建仁2年(1202年)、第2代鎌倉殿であった源頼家の長女として生まれます。名は、鞠子(位記)とも媄子(妙本寺の寺伝)とも言われていますが正確なところは不明です。

母は、竹の御所と呼ばれた邸が比企ヶ谷にあった比企氏邸跡であることや竹御所の墓が比企一族の菩提寺である妙本寺にあることなどから、源頼家の嫡男を生んだ比企能員の娘である若狭局であるとする説が有力です。

もっとも、竹御所が比企家の血を継ぐ娘であるとすると、北条家が、後に竹御所が第4代鎌倉殿となる藤原頼経と結婚することを容認していたことに強い疑問が湧きますので、個人的には媄子と若狭局とは別の人物であったのではないかと考えています。

なお、竹御所の母は、「尊卑分脈」では木曾義仲の娘、「諸家系図纂」所収「河野系図」では美濃局(河野通信と北条時政の娘)とされており、正確なところは不明です。

兄弟としては、異母兄または同母兄と考えられる一幡と、異母兄弟と考えられる善哉(後の公暁)・栄実・禅暁がいます(源頼家の子供たちの関係性については、別稿:源頼家の子供達の最期をご参照ください。)。

竹御所誕生当時の鎌倉幕府

竹御所が誕生した建仁2年(1202年)は、建久10年(1199年)4月12日に御家人によるクーデターによって第2代鎌倉殿であった源頼家の権限が縮小され、またそれによって向上した御家人の権利を御家人相互間で争い始めた時期でした。

建仁3年(1203年)7月に第2代鎌倉殿であった源頼家が病に倒れ、同年8月には危篤に陥ると、有力御家人において、万一があった場合に次期鎌倉殿を誰にするのかの話し合いがなされ、各々が自信に都合の良い後継ぎ候補を推したため、議論が紛糾していきます。

この時点での源頼家の嫡男たりうる男子は一幡と善哉(後の公暁)だったのですが、どちらが次期鎌倉殿となっても権力の座から落ちていく北条時政が奇策を打ちます。

北条時政は、東国は源頼家の子である一幡が、西国を源頼家の弟である千幡が支配するという分割支配案を提示し、建仁3年(1203年)9月2日、これに反発する比企一族を滅亡させてしまいます(比企能員の変)。

このとき、北条時政は、比企一族と共に一幡と若狭局までも殺害しています。

源頼家暗殺(1204年7月18日)

その上で、北条時政は、鎌倉幕府の政治を維持するためにはわずか4歳の幼君の善哉(後の公暁)では不足であるとの理由をつけて、善哉が成長した後に僧侶にするとの決定を下した上、源頼家の弟であった千幡(後の源実朝)を第3代鎌倉殿に据えることに決定します。

そして、北条時政は、朝廷に対して源頼家が死去したという虚偽の報告を行って千幡への家督継承の許可を求め、建仁3年(1203年) 9月7日、千幡を従五位下征夷大将軍に補任した上で、源頼家の将軍職を奪って伊豆国・修善寺に追放します。

こうして、実質的には北条時政の完全な操り人形の将軍が誕生し、鎌倉幕府は北条家の傀儡政権に成り下がってしまいます。

そして、北条時政は、北条義時に伊豆国・修善寺に追放された源頼家の暗殺を命じ、元久元年(1204年)7月18日、これが実行に移されました(源頼家は、入浴中に首に紐を巻き付けられた上で急所を押さえて刺し殺されたそうです。愚管抄・増鏡)。

こうして、竹御所は、物心がつく前に、父と兄を暗殺されるという悲しい経験をします。

御家人の政争に翻弄される

竹御所の幼少期

父と実家?(母が若狭局だとすると比企家が実家となります。)を失った竹御所は、おそらく祖母・北条政子に引き取られ、女子であったことから以降は政争に巻き込まれることなく北条政子の庇護の下で育っていきます。

坊門信子の猶子となる(1216年3月)

建保4年(1216年)3月5日、15歳となった竹御所は、北条政子の命に従って、叔父である第3代鎌倉殿である源実朝の御台所・坊門信子の猶子となります。

兄弟の死

その後、竹御所の兄であり僧籍に入っていた公暁が、承久元年(1219年)正月27日の鶴岡八幡宮での記念式典の際に源実朝を討ち取り、その後、公暁もその責めを受けて三浦義村に討ち取られます。

また、承久元年(1219年)10月6日に異母兄弟であった栄実が、承久2年(1220年)4月14日に同・禅暁が死去したため、源頼家の直系男子は断絶し、竹御所が唯一の源頼家の子となります。

三寅下向と尼将軍誕生(1219年)

以上のとおり、源実朝と源頼家の子が次々と死去したのですが、そうであったとしても、源氏の血筋が途絶えたわけではありませんので、源氏一門から新たな「源氏将軍」を迎えることが検討されました。

ところが、源氏将軍の擁立は、御家人から信奉を集めやすいために鎌倉幕府内での独裁を進める北条家にとっては害悪でしかありません。

そこで、北条義時・北条政子は、多くの源氏一門やその親類縁者の多くに謀反の罪を着せ短期間のうちに次々と粛清していきます。

前記の源頼家の子供達の粛清もその一環です。

その上で、北条義時と北条政子は、京から北条家独裁を脅かすことのなさそうな子供を貰い受けてその者に鎌倉殿の座を継がせることとし、承久元年(1219年)7月19日、父方及び母方の祖母が源頼朝の姪という関係性にあった2歳の九条道家の三男・三寅(後の九条頼経)の下向を受けます。

もっとも、鎌倉殿(摂家将軍)となるべく送られた人物とはいえ、僅か2歳の三寅に政治などできようはずがなく、三寅が幼少の間は、北条政子がその後見として鎌倉幕府を主導し、北条義時がこれを補佐するという政治形態が作られます。

いわゆる尼将軍の誕生です。

実際、吾妻鏡では、源実朝が死去した建保7年(1219年)から、北条政子が死去する嘉禄元年(1225年)までの間、北条政子を鎌倉殿として扱っています。

第2代尼将軍となる(1225年)

嘉禄元年(1225年)7月11日に北条政子が死亡すると、その庇護の下で育てられ、かつその手法を教え込まれていた竹御所が実質的な第2代尼将軍として北条政子の後を継ぎます。

竹御所は、その手腕もさることながら、源頼朝・源頼家という源氏の直系の生き残りとして、幕府権威の象徴という役割を果たして御家人の尊敬を集め、その取りまとめ役となりました。

第4代鎌倉殿誕生(1226年正月)

尼将軍として実質的な鎌倉殿であった北条政子が死去したため、鎌倉殿が不在となったため、嘉禄2年(1226年)正月、藤原頼経(三寅・九条頼経)が征夷大将軍の宣下を受け、第4代鎌倉殿(摂家将軍)に就任します。

もっとも、新たな鎌倉殿が誕生したといっても、前年の評定衆の選定により北条泰時と北条時房に実質的な権能を奪われていた藤原頼経は、神輿としての傀儡将軍でしかありません。

当然、京から迎えられた摂家将軍に鎌倉御家人を取りまとめる器量はありません。

藤原頼経に嫁ぐ(1230年12月9日)

そこで、第4代鎌倉殿の求心力を高めるため(実際には高めた求心力を利用して北条家の独裁を強めるため)、第2代尼将軍として御家人の尊敬を集めていた竹御所を藤原頼経(九条頼経)に嫁がせ、その権威を鎌倉殿に持たせようと考えられました。

そして、寛喜2年(1230年)12月9日、29歳となった竹御所が、13歳であった第4代鎌倉殿の藤原頼経に嫁ぐこととなりました。

なお、余談ですが、源頼朝の男子としては、千鶴丸・源頼家・源実朝が既に死亡しており、この時点で唯一生存していた四男である僧・貞暁(源頼朝が大倉御所に出仕する侍女・大進局に生ませた子)も、子を儲けることなく寛喜3年(1231年)に高野山にて46歳で死去していますので(自害したという説もあります。)、これにより源頼朝の男系男子の子孫は断絶しています。

竹御所の最期

竹御所懐妊(1233年)

こうして結婚することとなった2人は、16歳差という親子程の年の離れた夫婦となったのですが、その夫婦仲はとても良かったと伝えられています。

そして、結婚の3年後の天福元年(1233年)、竹御所の懐妊が判明し、相次ぐ粛清により失われつつあった源頼朝の血を引く後継者の誕生が期待されます。

竹御所の死(1234年7月27日)

もっとも、竹御所は、33歳という超高齢での初産であったため、医療技術の発展していない当時としてはその出産は困難を極めます。

そして、天福2年(1234年)7月27日、竹御所は、難産の末に男児を死産します。

また、出産に苦しみ抜いた竹御所本人も、ついに力尽きて死去してしまいます。享年は33歳でした。

この竹御所の死亡により、源頼家及び源頼朝の直系子孫は全て死亡し、源氏棟梁家の血筋は断絶しています。

その後

竹御所の死は、源氏棟梁家の血筋の断絶を意味しますので、御家人達は竹御所の死を深く悲しんだと言われています(明月記)。

その後、竹御所は、比企一族の菩提寺である妙本寺に葬られました(なお、このことが、竹御所の母が若狭局であるとする説の根拠の1つとなっています。)。

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