二階堂行政(にかいどうゆきまさ)は、下級貴族でありながら、源頼朝は、母方が熱田大宮司家の出であった源頼朝に請われて鎌倉幕府政治に参画した人物です。
その実務能力の高さから源頼朝に重用され、ついには政所別当職にまで出世しています。
知名度はイマイチですが、源頼朝の死後に第2代鎌倉殿・源頼家の訴訟権限を制限するために作られた十三人の合議制にもメンバーの1人として参加するなど、初期の鎌倉幕府を支えた主要人物となっています。
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二階堂行政の出自
出生
二階堂行政(建久3年/1192年頃までは藤原行政と名乗っていたのですが、本稿では説明の便宜上二階堂行政の名で統一します。)は、藤原南家乙麻呂流工藤氏の流れをくみ駿河国を中心に力を持っていた工藤行遠を父、熱田大宮司・藤原季範(源頼朝の外祖父)の妹を母として生まれます。
生年は不明ですが、父である工藤行遠が、保延年間(1135年〜1141年)に遠江国司を殺害して尾張国に配流されていますので(尊卑分脈)、おそらくこの頃に生まれたものと考えられます。
朝廷に仕える
成長した二階堂行政は、京に上って下級官人として朝廷に出仕します。
その後、治承4年(1180年)正月の除目において、主計寮の役職の1つであり、税収を把握・監査を職掌とする主計少允に任じられています(玉葉・治承4年正月28日条)。
鎌倉幕府で重用される
鎌倉下向
東国において富士川の戦いに勝利して勢力を拡大させつつあった源頼朝が、鎌倉を本拠として味方となる御家人を集めていったのですが、次第にその数が増えていったため、物理的に源頼朝とその側近たちだけでは対応しきれなくなります。
このとき、また、東国武士団は、梶原景時らの一部風流人を除き、無骨な武人の集団(悪く言えば、ゴロツキの集まり)ですので、源頼朝の下には大規模な政治経験もなく、また朝廷等のパイプなどもありません。
それどころか、源頼朝に下った東国武士団のほとんどは、文字すらまともに読めないレベルであったと考えられています。
そこで、源頼朝は、母方が熱田大宮司家の出であった縁を辿って鎌倉幕府を支える文官となるよう二階堂行政をスカウトします。
これに対し、下級役人とはいえ宮中で生活をしていた二階堂行政にとって、武士という野蛮人が支配する関東に下向することに葛藤はあったと思われますが、朝廷内での大出世を望めないことから一大決心をして鎌倉に下向する決断をします。
吾妻鏡における初見(1184年8月24日)
そして、鎌倉に下向した二階堂行政は、源頼朝に文官として仕えることとなりました(この時期はまだ鎌倉幕府が成立しておらず、鎌倉は源頼朝による東国統治のための家政機関の設置場所兼私兵の集合体の駐屯地に過ぎませんでした。)。
もっとも、源頼朝の下に集う御家人が増えて物理的に源頼朝とその側近たちだけでは対応しきれなくなってくると、源頼朝は、増えていく御家人達を管理する必要に迫られ御家人を管理して後の鎌倉幕府による東国統治を進めていくために新しい機関を作っていきます。
このとき、二階堂行政は、鎌倉に設置されることとなった公文所の建物奉行に任じられてその役を果たします。なお、吾妻鏡にも、三善康信と共に元暦元年(1184年)8月24日の公文所棟上式を担当したと記録されています(吾妻鏡・元暦元年8月24日条)
また、二階堂行政は、同年10月6日に行われた公文所の吉書始において、公文所別当・大江広元の寄人として参加しています(吾妻鏡・元暦元年10月6日条)。
娘を伊賀朝光に嫁がせる
そして、この頃、二階堂行政は、代々蔵人所に使えた官人の出身であった藤原朝光(承元4年/1210年3月に伊賀守に任じられた後は伊賀朝光と称しています。)に娘を嫁がせます。
なお、この藤原朝光(伊賀朝光)に嫁いだ二階堂行政の娘は、伊賀朝光との間に女児を儲けたのですが、この女児(後の伊賀の方)が、後に北条義時の継室となり(北条義時の正妻・姫の前は建仁3年(1203年)9月に発生した比企能員の変の責により離縁されています。)、貞応3年(1224年)に北条義時の死を契機としてクーデターを起こそうとして失敗し北条政子により流罪処分にされています(伊賀氏の変)。
奥州合戦に同行
文治5年(1189年)7月に勃発した奥州合戦にも同行し、同年9月7日には藤原泰衡の郎従であった由利八郎を生け捕った件での相論を奉行し、翌同年9月8日条には朝廷への奥州合戦の次第を報告書を作成しています。
源頼朝の上洛の準備を整える(1190年10月)
前記のとおり、源頼朝は、家政機関として鎌倉幕府を設立した後で平家・奥州藤原氏を次々と滅ぼして武力による東国・西国・東北の統一を果たしたのですが、その後、自らの権威を高めて武家政権を盤石化するため朝廷権力への迎合を謀ります。
武家の頂点に立ったとはいえ、京で幼少期を過ごした記憶から中央貴族の末裔としての意識を捨てきれなかった源頼朝は、自身の権威付けのために朝廷が必要と考える呪縛から逃れることはできなかったからです。
そこで、源頼朝は、上洛のための準備を整えることととなり、二階堂行政が、筆頭奉行として京までの旅程や朝廷の有力者に対する付け届けの準備その他全体の雑事を取り仕切ります。
そして、二階堂行政の手腕によって滞りなく勧められた準備の上、建久元年(1190年)10月3日、源頼朝が京に向かって出発します。
京に入った源頼朝は、建久元年(1190年)11月9日、後白河法皇に拝謁して会談し、権大納言・右近衛大将に任命されることが決まります。
また、従二位に任じられて公卿に叙せられたことによって従三位以上の公卿に許される政所開設の権利を獲得します。
このように、文官としてその能力を存分に発揮する二階堂行政に対する源頼朝信頼は厚く、公卿の慣例に従って政所を設置して公文所の組織を政所に移行・統合させた後には、二階堂行政が政所別当・大江広元に次ぐ政所令に就任するまでに至ります(吾妻鏡・建久2年/1191年1月15日条)。
二階堂姓を名乗る
京から鎌倉に戻った源頼朝でしたが、奥州平泉で見た毛越寺・中尊寺に感銘を受け、建久3年(1192年)11月25日、これらの寺を模して大倉御所の北東部に3つの大きなお堂(中央に二階堂・北に薬師堂・南に阿弥陀堂、いずれも応永12年/1405年消失)と池を備える永福寺を建立させます。
二階堂行政は、鎌倉下向後も10年近くの間、藤原行政と名乗っていたのですが、このとき建てられた永福寺の二階堂(「二階」建ての仏「堂」)の近くに居宅を構えたことから、以降、「二階堂」姓を名乗るようになりました。
これにより、二階堂行政が、二階堂氏の祖となります。
政所別当就任(1193年)
建久4年(1193年)、鎌倉幕府の巨大化に従って政所別当が複数制になると二階堂行政が政所別当の1人に就任して大江広元を補佐し、大江広元が不在となった場合にはこれに代わって政所の業務を統括するまでに至ります。
13人の合議制の構成員となる(1199年)
その後、源頼朝の死去により源頼家が第2代鎌倉殿に就任したのですが、正治元年(1199年)4月12日、御家人のクーデターにより源頼家の直接の訴訟権限が停止され、代わって13人の重臣が合議して決定することとなりました(十三人の合議制)。
この13人の中には複数人の文官も選ばれており、大江広元、三善康信、中原親能らと並んで二階堂行政(民部大夫行政)もそこに含まれました。
稲葉山に砦を築く(1201年)
二階堂行政は、建仁元年(1201年)、美濃国・井之口山(金華山・稲葉山)に砦(後の稲葉山城・岐阜城)を築きます。
その後、娘婿・伊賀朝光、その子・伊賀光宗、伊賀光宗の弟・稲葉光資(稲葉氏・美濃安藤氏)が砦主となりこの砦を支配した後、正安4年(1302年)の二階堂行藤の死後に一旦廃城となっています。
二階堂行政の最期
隠居?
以上の経過を経て初期の鎌倉幕府のリーダーの1人となった二階堂行政ですが、その後すぐに吾妻鏡や政所下文の署名にその名が出てこなくなります。
公的文書に現れなくなった理由については、死亡説・隠居説など諸説ありますが、詳しいところはわかっていません。
二階堂行政の最期
また、記録がないため、その後いつどういう理由で死去したかについてもわかっていません。
その後の二階堂家
二階堂行政の子のうち、二階堂行村は、和田合戦の軍奉行を務めるなどして合戦記・論功行賞を取り纏める役割を果たし、その後はその子孫が代々検非違使を世襲しています。
また、もう1人の子である二階堂行光は、北条義時の次席の政所執事となり、以降もその子孫が実務官僚の筆頭としてこれを世襲しています。
なお、後に、鎌倉幕府の正史ともいえる吾妻鏡が編纂される際、二階堂行政・二階堂行光・二階堂行村の3人の筆録が相当量利用されていると考えられています。